第3話
ジャンヌというその少女は、僕よりも三つ年上だった。
姉が生きていたら、同じ年。数奇な一致だが、だからこそ、姉の生まれ変わりではなさそうだ。転生の概念は僕たちの国の教会の教えには無いけれど。
……僕たちの国を統一する最大宗教の教えに反することを直感的に考えてしまうほど、初対面時の衝撃は大きかった、と表現することもできる。
しかし、それも長くは続かなかった。
華やかな金色の髪。楽し気な光を湛えた青い瞳。少し日に焼けた白い肌。
大まかな目鼻立ちは姉に似ているが、細部は違う。“姉に似ている”という第一印象は、数日の観察で払拭された。
性格にも差異があった。
それは当然のことだ。姉は病弱で父の後継者候補足り得なかったとはいえ、それは実技方面の教育を受けていなかっただけで、知識面では僕より三年分の長があった。
身贔屓抜きの厳然たる事実であると自信を持って言えるが、父は当代最高の医師であり薬師だ。こと人体に関して、彼を上回る知識を持つ者は存在しない。
その父が集めた古今東西の膨大な知識を飲み込み、理解し、後進に教えられるほどだった姉は、今の僕よりも更に賢かったはずだ。僕はまだ姉の享年に並んでいないし、率直に言って、年が並ぶまでに知識面でも並べる気はしない。
一応、僕にも言い分はある。
僕は医者と審問官と処刑人と、ほんの六代前くらいからではあるが“名家”と呼ぶに相応しい家業と資産を持ったライヒハート家の、四つを継ぐことになる。必然的に、僕に課される教育は多岐に亘り、姉のように
話が逸れたが、不要な脱線でもない。
つまり、姉は病弱ながら最低限度「ライヒハート家の長女」として相応しい教育を受け、難解な医学書を読破して得た知識があった。
父がどこぞの寒村で拾ってきた無学で無教養の少女とは、生まれからして違うのだ。
何より姉にとっての僕は“弟”だった。
病弱云々ではなく脆弱であり、無知で愚かで、愛すべき卑小な庇護対象。
遊ぼうとせがみ、分からないことを尋ね、心が傷つけば泣きついて甘える。彼女にとって、僕はそういう弱々しい生き物だった。
しかし、被検体であるジャンヌにとって、僕はそうではない。
僕は一日に三回、殆ど決まった時間に会いに来て、同じ薬を飲ませ、同じ質問をして去っていく少年だ。しかも直接顔を合わせたのは初対面のときだけで、以降はずっとマスクをしている。
正直、寒村育ちの年上の女の子の思考なんて読めないが、「口減らしにちょっとした名家に売られたと思ったら、一か月ほど閉じ込められ、しかしその後は自由な生活が保障される」なんて状況に際して抱く感情は、困惑と歓喜の他は、まあ精々が恐怖くらいのものだろう。
親しみを持たれる要素はない。……そのはずだった。
彼女は投薬の後、度々僕を呼び止めて話をしたがった。
一番最初は、自分が何の薬を飲まされているのか──これに関して、僕は答えなかった。既に
流石に父が基本的な説明をしていたらしく、「どうしてこんなことをさせるのか」という基本的な問いは無かったが、その代わり、彼女は僕という個人について興味を示した。趣味とか、休日に何をするのかとか、習い事についてとか、そういう雑談的なことを尋ねた。
その時点で、僕は彼女に対して抱いていた“姉のようだ”という印象を、むしろ恥じるようになった。
彼女の振る舞いは庶民的であり、思考能力は平均的なものだった。
つまり、一応は名家の部類に入る上に奴隷や魔女を実験動物として扱う家に生まれ、しかしこの世界で僕と同様に“異常な”価値観を持ち、甘えたがりで弱虫な弟の精神的支柱にまでなっていた、儚くも強い少女とは全く異なる存在だった。
ジャンヌが劣っているという話ではない。
いや、相対的評価を下すのなら、そうだ。だが僕の主観からすると、姉が優れている。優れ過ぎている。
故に、二人を比較したのは恥ずべき間違い──そう思った。一度は。
意見を再び覆すことになったのは、一度目からほんの一週間後のことだった。
姉の死以来、僕の精神は決して健全なものではなかった。
護身剣術や舞踏といった強度の高い運動で気を散らしている時と、脳内をそれ一色にしてもまだ足りない難解な父の講義を受けている時を除いて、僕の精神は徐々に蝕まれていた。
孤独感によって。
狂っているのは僕ではなく、世界の方。僕がおかしいのではなく、僕以外の全てがおかしい。
姉の言葉によるその自己暗示が効力を薄れさせていたのは、何もつい最近始まったことではない。
姉の言葉に縋ったこの暗示の本質は、結局のところ、「僕がおかしいか否か」という点には無いのだ。
重要なのは、姉の言葉という部分。僕は彼女に肯定され、その結果、強い自己肯定感を得ていたに過ぎない。そして姉は病没し、僕は理解者であり精神的支柱を喪った。
世界に、異常なモノは僕一人だけになってしまった。
或いはその瞬間、僕は本当に“異常”になってしまった。世界に二人という“稀有”から、唯一の“異常”になった。
魔女狩りを見たわけでもなく、奴隷が死んだわけでもなく、そんなことをなんとなく考え、発作的にゲロを吐いて姉の部屋に駆け込んだのはいつも通り。「さあやろう」と気合を入れて、まだ残っていた投薬のために離れに戻ったとき、彼女は僕を見咎めた。
「どうしたの?」
端的で言葉足らずな、そしてどこか棘のある声に、どうしてか僕は怯んだ。
相手は教育を受けていないとはいえ、奴隷だ。その身分の何たるかを知らない齢でもなく、得体の知れない薬を飲まされる仕事に文句を付けない辺り、立場を弁えている。
しかも彼女で実験中の薬は強力な抑制作用があり、彼女が家に来た日に見せた活発さは消え失せている。それだけでなく、本来は殺してやりたいと感じるほどの侮辱を受けたとしても、今の彼女では精々「うるさいなあ」程度の情動にしかならない。
加えて言えば、被検体と接する以上は衛生観念に基づき、マスクを着けている。
要は、僕の口がゲロ臭くて不快だったとか──勿論、清潔にしてはいるけれど──、土気色の顔をしているのがバレたとか、そういう一見して分かるような異常を、僕は纏っていなかったはずだ。
外見的に、僕はいつも通り、カラスのような恰好をして薬を持ってきた不気味な少年でしかなかったはずだ。
なのに彼女は呼び止めた。それも強く。
いや、ただの質問を、僕が勝手に「強制力を感じさせる命令」のように感じただけだ。
ベッドの上で上体を起こした格好で、薬の副作用で眠そうに気怠そうに。けれど僕が反抗するなどとは考えても居ない口調で──そして、僕を慮っていることがありありと分かる声色で。
二人が似ているという評価は姉に対して無礼だとさえ思っていたが、その声音は、もう思い出せなくなってしまった姉の声を想起させた。
もう限界だったのだろう。
「この世界をどう思う?」
気が付くと、そんな問いを放っていた。
澄んだ青色の双眸が揺れ、怪訝そうに細められる。
少し乾いた唇が緩慢に動き、薬剤で鈍化した思考を言葉に纏めて紡ぎ出すのには少しだけ時間がかかった。
そして。
「──、──」
迂遠と言うほど長くはなく、簡潔とは言えない程度に長い。
聞き覚えのあるその答えに、知らず、マスクに覆われた両目が潤んだ。
「……っ」
乱暴にマスクを脱ぎ、視界を煩わせる涙を拭う。
ジャンヌは薬剤試験用の検体であって、感染実験用ではない。だからマスクを外しても害はない──そんな冷静な思考をする余地も無く、ただ反射的に動いていた。
「……おいで」
簡素な入院着姿の少女は、小さく腕を広げて呼ぶ。
その仕草が、声が、かつて僕を抱擁してくれた姉と重なる。記憶の奥底に仕舞い込まれていた思い出が、彼女を呼び水にして怒涛の如くに溢れ出す。
姉どころか血の繋がりさえない三つ年上の女の子に、僕は縋りつくようにして泣いた。
薬のせいで体温の下がった華奢な身体は、石鹸と消毒薬の懐かしい匂いがした。僕を包み撫でる手つきは、記憶と違って不慣れで不器用だったけれど。
僕は泣きながら、彼女は時折それを宥めながら、しばらく話をした。僕の家族の話と、彼女の家族の話を。
僕は本当に恵まれているのだと、彼女の話を聞いて改めて感じた。
彼女の家はここから少し離れた農村にあって、基本的には自給自足の生活をしているらしい。しかし数年前から作物にかかる病気が流行り、遂に両親と彼女の三人が食い繋ぐことも出来ないほどになったのだとか。
村の家はどこも同じような状況で、助け合おうにも、そもそも他人に手を差し伸べられる余裕がなかった。
そこに現れたのが、別の街まで出張していた父だ。
村には気紛れに──善性に基づく高潔さを発揮し、巡回診察のために立ち寄ったらしい。
この国の医学界で、父はかなりの異端だ。
医師は一般的には王立大学に通って学び、その後、既に開業している先達の下で弟子として学ぶ。そうして漸く独り立ちだ。
優れた医者ほど、大都市の教会や修道院に併設された病院、或いは貴族の専属医師のような“王道路線”に進む。
対して、父は幼少期から祖父という偉大な医師の弟子であり、王立大学にはコネを作るためだけに行った。その知識や治療法は、古今東西の文献と自らの実験によって確立されたものであり──一般的な、信仰に古典医学を混ぜたようなオカルトチックなものではない。
拠点はそこそこの規模の町だし、腰を据えて患者を待つ営業形態ではなく、自ら医者のいない寒村などに赴いて巡回診察をしている。
父が蔑視や迫害、或いは最先端医療の開拓者として崇拝を受けていないのは、王立大学で作った
独り立ちして長い父だが、弟子は息子の僕だけだ。
王立大学や学生時代の友人から「弟子にどうか」と何人も紹介されてはいるそうだが、如何せん、父の手法は特異すぎる。その全てを断り、一子相伝を決めている。
祖父の名が知られていることもあり、父は「優秀だが家に縛り付けられた医者」として、医学界の片隅に生きている。
そんなことは知らないジャンヌの両親は、単に父の提示した金額だけで──医者が人格を信用されやすい職業ということもあるかもしれないけれど──彼女を手放した。
罪悪感はあっただろう。
けれど、その金がなければ三人とも飢えて死ぬ。だから仕方がない。──そんな論理で、親が子を売り渡す。
そんな世界なのだ、ここは。
その中で、僕はとても恵まれた環境に生まれた。
裕福で愛情に満ちた家庭に生まれ、衣食住の満ち足りた生活を送り、様々なことを学んでいる。
僕は幸運だ。そんなことは分かっている。誰に言われるまでも無く、考える頭があれば否応なく理解できる。
なのに──「ならば善し」と割り切れない。
金と法で人間を辞めさせる馬鹿げた奴隷制については、ある程度は理解できる。
人間が他者に仕事を委託し、効率化するのは当然のことだ。他の獣と比較して突出したスペックを誇るわけでもないヒトは、共同体を作ることで繫栄してきた。
父と子、師匠と弟子、地主と農民、雇用者と労働者。
上下関係のある共同体は珍しくなく、主人と奴隷もまた、その一形態に過ぎないと。衣食住と最低限の生存の保証を報酬とした、関係性の一種であると。
だが魔女狩りは──あれは、なんだ?
感情的迫害は、非合理、非論理の塊だ。何より、僕の心の説明しようのない部分が、あれが気色悪くて仕方が無いと叫んでいる。
その不可解な悲鳴ゆえに、たった一つの瑕疵ゆえに、僕はこの世界を認められない。
父も母も、この世界の何もかもが、異常なものに見えて仕方がないのだ。
さながら一滴の泥水のせいで、樽一杯のワインが泥水に変わるように。
「僕は──」
心に溜まり、心そのものを腐食していた澱を吐き出すのは二年ぶりだ。
懺悔のような会話は語り手を僕からジャンヌへと移し、また僕に戻る。
そうして僕は、“異常”から“稀有”へ戻ることが出来た。
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