第4話
その日から、僕は暇を見つけては彼女の部屋に足を運んだ。
何でもないような話をした。心に蟠った世界への嫌悪を吐き出した。医学の発展のためにまた奴隷を犠牲にしたことを懺悔した。魔女とされた無辜の民を痛めつけ、処刑台に送る自白を引き出したことを告解した。
彼女は時に宥めるような抱擁と共に、時に共感の涙を流しながら寄り添ってくれた。
眠っている時以外の、どんな時でも優しく迎えてくれた。
そんな日々は、二週間くらい続いた。
ある朝、彼女が部屋から消えるまでは。
「──え?」
部屋の扉には鍵が掛かっていなかった。
そんなはずはない。昨晩の回診後、全ての部屋の施錠点検をしてから本邸に戻った。それは風呂に入るとか歯を磨くのと同じルーチンワークであり、忘却によって欠落するはずがない日常的行動だ。
慌てて扉を開けると、部屋の中には誰もいなかった。
身を隠すような場所はないし、と考え、数少ない家具であるベッドが乱れていることに気付く。寝相が悪いわけでもない彼女にしては珍しいし、寝相が悪いにしても派手過ぎるほどに。
まるで、誰かが寝ていた人間を無理矢理に連れ去ったかのよう。
「……っ」
思考が急速回転を始める。
奴隷が逃亡を試みることは、これまでも稀にはあった。
商人から買った“教育済み品”は勿論、それを試みないよう調教されている。だが彼女は直接買い上げた、調教されていない奴隷だ。逃亡を試みない保証はなかった。
しかし、逃亡奴隷は見つかれば殺されるのがオチだ。
辛い仕事どころか、清潔な部屋でほぼ寝ているだけの毎日。しかも、あと十日ほどで自由が与えられるというこのタイミングで逃亡を図るだろうか。
有り得なくはない。彼女で実験していた薬は副作用が未知数だ。幻覚や譫妄といった症状が現れ、逃亡を試みる可能性はないではない。
だがそれにしても、扉の鍵は外からしか開かないし、そもそも鍵が無ければ開かない。
逃亡は物理的に不可能だったはずだ。
「っ、いや……!」
考えるのは後だ。
僕は意識して思考を切り上げ、本邸に走った。
探していた父は、食堂で見つかった。
昨夜は遅くまで研究室にいたのか、いつもより遅い朝食を摂っていた。
給仕をしていた使用人が先んじて、そして父も穏やかな笑顔を浮かべて、息せき切って食堂に駆け込んだ僕に朝の挨拶をする。
それから「何があったんだい?」と静かに、僕を落ち着かせるように問いかける。家内を走るのは品の無い行為だと教えられている僕がそれを破るのは、相応の理由があるときだけ。最も頻度が高いのは、実験体の誰かが死んだか、投与した薬剤や感染させた病気が予期せぬ反応を示したときだ。
「父さん! ジ──16番検体が居なくなった! 鍵が開いてたし部屋も荒れてるから、もしかしたら泥棒……いや、家族が迎えに来たのかも」
話しながら浮かんだ仮説をそのまま口にする。
よしんば家族が彼女を取り戻しに来たのだとしても、家に侵入して奪い取ったのなら家財略取だ。死刑とまでは行かないが、片腕の切断ぐらいまでなら十分に求刑できる重罪と言える。
父は片手を振り、意を汲んだ使用人が一礼して食堂を出て行く。
名家の主人たるに相応しい威厳のある所作を、意識的に見せている。それは僕を叱り、諫めるときの癖だった。
身体を強張らせ、無言で先を待つ僕に、父は重い溜息を一つ。そして。
「──アレは魔女だった。お前は魅了されていたんだよ」
言い聞かせるように、或いは
「──は?」
思考が一瞬、停止する。
朝からずっと聞こえていた──最近はあまり気にならなくなっていた、広場の喧騒がいやに耳についた。
再起動した思考の表層に真っ先に浮かんだのは、疑問だった。
本当に? なんて、言葉の妥当性を検証してから、無意味なことだと思い直す。
異端審問官でもある父が言うからには、そうなのだろう。
それで?
奴隷であれ魔女であれ、実験体には変わりない。
彼女を慌てて処分する必要は無く、むしろ一か月で解放するという約束を守る必要が無くなったくらいだ。
その生存に気を払う必要もなくなり、より強度の高い──危険な実験のために使えばいい。
これまではそうしてきた。
「そ、れで……あの子は何処に?」
「あの子、か。シャルル、実験体は大切に、しかし情を移さぬよう扱いなさい。そう教えたね」
震え声の問いに、父は優しく言い聞かせるように返す。
しかし、質問に対する答えはくれなかった。
「っ……!」
血の気が引いたのが分かった。
体中の血液が、全部足から流れてしまったような感覚。背中に雪が入ったような悪寒が走る。
──バレたのか。
姉が存命だった時分と同じように、目を輝かせて自然な笑顔を浮かべるようになった僕に、両親は勿論気が付いていたのだ。
「だろう」なんて推測にはならない。息子の変調に気が付かないほど間抜けな二人ではないし、愛情が欠落しているわけでもない。いや、むしろ深く愛されていることは分かっている。
死んだ姉に囚われ続けていた僕が復調したことを、二人は言葉にせずとも喜んでいた。
しかし、当然のようにその理由が気にかかり──不自然なほど離れに足を運ぶようになった僕を観察し、その原因を突き止めたといったところか。
まあ、二人にとって奴隷とは“人間以下のモノ”だ。
父にとっては実験体。母にしてみれば、そして大半の人にとっては、同じ屋敷に入れるのも憚られる劣等存在。良家の人間であるほど──奴隷と直に接することがない人間ほど、その思想は強い。
二人にとって、僕が奴隷の少女に入れ込んでいることは、とんでもない大事だったのだろう。
跡継ぎが、嫡子が、息子が──薄汚れた最底辺の人間に縋りついて泣いているなど、とても許容できなかったに違いない。
「……」
僕はふらふらと覚束ない足取りで食堂を出て、居間に向かった。
バルコニーから見るまでも無く、外の広場では群衆が歓喜の咆哮をあげているのが分かる。
魔女の断罪。
世界から汚物が一つ消え、神の創りたもう世が綺麗になる。
火刑台に縛られ、ぐったりと俯いた金髪の少女を見て、奴らはそんなことを考えているのだろう。
そう思ったのを最後に、僕の中で何かが千切れた。
怒り、ではない。
強いて近い感情を挙げるなら、諦観だろうか。
ジャンヌは僕にとっては心の拠り所だが、彼らには汚らわしい人間モドキでしかない。
彼らが嬉々として行う善行も、僕にとっては悍ましい蛮行に過ぎない。
あぁ、だから──やっぱり、僕と彼らは違うモノなのだ。
「シャルル──、シャルル!? 待ちなさい!」
駆け出し、追い縋る声を振り切るように加速する。
家の中を走ってはいけないなんて教えも、心配そうな父の声も、すれ違った母の静止もかなぐり捨てて。
「止めろッ!!」
広い家中を走り、靴を引っ掛けて玄関を飛び出し、叫んだ。
だが、遅かった。
人が集まった程度ではありえない熱気が肌を打ち、薪の焼ける臭いにタンパク質の焼ける臭いが混ざって鼻を突く。
僕の叫びを掻き消す熱狂の渦の只中には、煌々と燃え盛る火刑台があった。
「──、ぁ」
──駄目だ、と思った。
一度目は耐えられた。
でも二度目は無理だ。心が千々に砕け散る。
それが分かったのは、この最悪の不運に際した僕の、最大の幸運だった。
お陰で、迷いが消えた。
「っ! ──ジャンヌっ!!」
人混みを掻き分け──幸い、ライヒハート家の長男の顔は知られている。「お、坊ちゃんも見にいらしたんですか」なんて言って道を開けてくれる人ばかりだった──燃え盛る炎の前に立つ。
直後、背後から聞き慣れない怒声が轟いた。
「その子を止めろッ!」
聞いたことのない怒鳴り声。
それが父のものだと振り返ることなく分かったが、僕の心には僅かな逡巡さえ生まなかった。
驚いた群衆が振り返り、僕に向いていて視線が外れる。
その隙に、僕は刑吏の持っていた斧をひったくり、僕の背を優に超すオレンジ色の壁に突撃した。
僕を呼ぶ声が、悲鳴が、轟々と酸素を喰らう炎の唸りに掻き消される。
目を瞑って息を止めた直後、誰かが後ろから水をぶっかけてくれた。バケツに準備してあった消火用水だろう。
薪に掛かっていないのか、火勢は一向に弱まらない。だが、僕が速やかに焼死することは避けてくれた。
目を閉じたまま腕を突き出し、不格好に走って火刑台に取り付く。
焼けた鎖を外すのは無理だ。そんなことは分かっている。触れたが最後、手の肉が焦げ付いて動かなくなる。
そのために、斧を奪ったのだ。
振り抜いた斧が鎖を打ち、鉄柱に当たって跳ね返る。
甲高い音が骨を伝って全身を揺らすのに構わず、二度、三度と繰り返し──じり、と、腕に強烈な痛みが走った。
「つッ!?」
痛みのあまり斧を取り落としたが、その音も炎に巻かれて届かない。
さっきの水が掛かっていなかったのか、もう蒸発してしまったのか。水の膜に守られていなかった腕が炎に触れたらしい。
そして足が、脇腹が、顔が、次々と炎の舌に舐められる。
連続する激痛に思わず呻き、息を吸うことも出来ずに口と鼻を覆って硬直する。
止まっている暇はない。
今すぐ斧を拾え。僕が死ぬより、ジャンヌが死ぬ方が絶対に早いのだから。
頭ではそう分かっていても、痛みは身体のコントロールを奪う。強張り、突っ張り、熱源から離れようと反射で動く。
のたうつように数秒を過ごし──そして、四方八方から大量の水が浴びせられた。
「っ、あ……」
「シャルル!! だい──、っ」
漸く鎮火した火刑台の傍で、僕は跪くように頭を下げて荒い息を零す。
空気はまだ熱を持ち、煙臭かったが、直ちに喉を焼くほどではなくなっていた。
瞼を閉じていても目が乾いてしまったのか、むしろ涙が溢れているのか、視界はぼんやりと霞んでいた。
白む視界の中、僕は自分の怪我より先に火刑台を見上げた。
間に合っただろうか。
そんな問いに、僕は心のどこかで冷静に否定を下した。
炭化するような時間は、まだ経っていないはずだ。
だが全身火傷によるショックや、大量の煙による呼吸困難、中毒、気道火傷。この数分間に彼女を襲った死因は幾つもある。
生きていたら、きっと、それはむしろ不幸だろう。
僕のように軽微な火傷で済むはずもなく、それこそ致命的なほどの重傷であることは想像に難くない。僕と父とで全霊を注いで治療しても、助かる可能性は限りなくゼロに近い。そんな有様だ。
──その、はずだった。
「──、え?」
慮る声を途切れさせた父に、先の喧騒を忘れ去ったように沈黙する群衆。
彼らと同じものを見て、僕も、彼らと同じく言葉を失った。
火刑台に縛られた少女は、傷一つない綺麗な姿でそこにいた。
麻の貫頭衣はとうに焼け落ち、白い素肌が晒されているが、火傷も痣もなにもない。
そんなことは有り得ない。
火の中に居た時間が圧倒的に短く、完全ではなかったとはいえ水を被って守られていた僕が、髪を焦がし身体の数か所に火傷を負っているのだ。
焼けた鉄杭に鎖で縛られ、炎に巻かれた少女が無傷であるはずがない。
いや、そもそも、彼女は火刑執行の前に満身創痍であったはずだ。異端審問の──父による拷問の痕跡があったはずだ。
それが、ない。
あるべき傷が、何一つとして。
「っ……」
どくん、と心臓の跳ねた音を聞く。
それは僕だけでなく、この場の全員が同じだった。手足が震え、歯の根が合わずガチガチと音が鳴る。
なのに一歩も動けない。
「か、神の奇跡だ……」
「あ、あぁ、神がお守りくださった。彼女は違ったんだ……」
群衆の中から、そんな呟きが漏れる。
魔女ならぬ善良な者が火刑に処されたとき、神は決してお見捨てにならず、そのものを包み守られるであろう。
それは、「故に焼死したのなら魔女である」という論理を成立させるための、方便とも呼べない暴論だ。
そのはずなのに──炎に巻かれて生きていられるどころか無傷で、剰え傷までが治るなどとは、誰も想像していなかった。
火刑台に縛られた少女が、声に反応したように瞼を開く。
厳かに首を振り、青い双眸が自らを取り囲む集団を睥睨する。
その視線はすぐ傍にいた僕に留まり、複雑な光を湛えた。
まず驚きが浮かび、すぐに消える。怒り、困惑、安堵、そして。
僕から離れ、再び群衆を見据えた目には、燃え上がるような憎悪と殺意が宿っていた。
「っ……」
思わず怯む。
僕にも殺人の経験はある。
誤って実験体を死なせたことも、異端審問の練習中にやり過ぎてしまったことも、罪人の処刑をしたこともある。
だがそれらは全て事故か、儀礼的で機械的な処刑というプロセスを経たもの。僕自身が殺意を持って、僕自身の殺意に従って人を殺したことは、これまで一度も無い。
そして幸運にも、他人の殺意を目の当たりにする危険な状況に陥ったこともない。
彼女のそれは、僕が初めて触れた本物の殺意であり、憎悪だった。
そしてそれは僕に限った話ではなく、群衆の誰もが──このそれなりに大きく安全な街に住む彼らにとってもまた、そうだった。
大型の肉食獣を前にしたかのように、誰も、一歩も動けない。
言葉を失い硬直する僕たちが作り出した静寂の中に、ジュウジュウと熱された水が弾けるような音が混ざる。
見ると、ジャンヌを戒めていた鉄の鎖が赤熱し、どろりと垂れて石畳や薪の上に落ちていた。
ほんの数秒で鎖を焼き切った彼女は、水に濡れた石畳をぴちゃぴちゃと音を立てて歩き、僕の傍に立つ。
青い双眸が僕の全身を舐めると、乾いた唇がふっと緩んだ。
「髪、ちりちりになってる」
「──、えっ? あ、あぁ、うん……」
くすくすと可笑しそうに、場違いな笑みをこぼす少女に、僕は気の利いた返しも出来ずに頷いた。
暫く笑っていたジャンヌは慈愛を感じさせる目で僕を見て、そして。
──何の前触れもなく、町が炎に包まれた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます