第5話
千近い人が、それらを収容する数の建物が、獣や賊を阻む柵が、整備された石畳の道が。
“街”を形作る何もかもが、唐突に発火した。
石は、燃えない。でなければ竈や暖炉を作れない。──なのに、燃えている。
人は、燃えない。水分量が多く熱許容力が高いからだ。──なのに、燃えている。
ならばそれは自然の炎ではなく、超常のモノなのだろう。
目を瞠る僕と、恍惚とした笑みを浮かべるジャンヌだけを残し、あらゆる全てが燃えていく。
魔術、なのだろうか。
魔女が悪魔と契約して手に入れた力。その概念だけは知っていたが、実際に見るのは初めて──というか、実在していたとは驚きだ。
街一つを焼くという逸話も、同じく知識の中にはある。
こちらは魔術と言うより奇跡、神罰だが、これは違うと直感的に思った。
だって、炎があまりにも愉しそうだ。
いや、炎それ自体がどうこうではない。具体的に何がどうとは言い表せないが、なんとなく。
道を舐め、家を飲み、人々を食い散らかす炎は、巻かれた人間が声も無く即死する──暴れもせず倒れ伏すほどの極高温らしい。
「……いやいや」
思わず頭を振った。
千人規模の町を火の海にするというのは、どうにも魔術のイメージにそぐわない。
魔術といえば箒に乗って空を飛ぶとか、怪しげな薬で若返るとか、そういうのだろう。これは派手過ぎるし、強力過ぎる。
軍人や傭兵ではないのではっきりしたことは言えないが、町を焼くにはそれなりの資材と人手が要るはずだ。山のような火薬と大量の油に、それを的確に配置する人間が。
それだけのことをたった一人で再現できるのなら、魔術はもっと広く知られて、利用と対策が進んでいるだろう。
魔女の技だから使っちゃ駄目、なんて甘えたことを言っている余裕は、何十年も戦争をしているこの国にはない。騎士団や王宮が率先して研究して、戦争に使うに決まっている。
……とはいえ、火刑の火の粉が原因で火事になった、なんて理屈は通らない火勢だし、爆発的な速度の発火だった。
常識でないなら、やっぱり
どうにか論理立てて目に入る光景を理解しようとする僕の傍で、ジャンヌはぱちりと手を叩いた。
「あっ、シャルルのお屋敷は燃やしちゃ駄目だよね。お姉さんとの思い出が詰まってるだろうし、火傷の手当てをするのにお薬も必要だもん」
その言葉を聞き届けたかのように、広場を睥睨する屋敷を包んでいた炎は幻のように消え去った。
「えー……?」
困った。
炎を自由に制御する──しかも燃え盛るそれを無挙動で消し去る尤もらしい理屈を、僕は何一つ用意できなかった。
「な、なにこれ? ジャンヌがやったの……?」
「そうだよ、凄いでしょ?」
もう殆ど明らかなことを態々尋ねた僕に、彼女は屈託のない笑顔を浮かべた。
今朝の分の薬を飲んでいないから、気怠さや眠気を感じさせない、出会ったその日に近い表情だ。ただ絶対的に違うのは、青い瞳にポジティブさがまるで無いこと。
憎悪の炎が彼女の中で燃え盛っていることが傍目にも分かるギラつきと、
「す、凄いよ。でも……」
僕は魅入られないよう、どうにか視線を外して答えた。尤も、すぐに口籠ったけれど。
──静かだ。
焚刑の炎の只中にいたときは酸素を貪る炎の喘ぎが聞こえていたが、今や街一つを飲み込む大火の中心にいて、悲鳴の一つも聞こえてこない。
家の中にいた人たちがどうなったのかは、近くを見ればすぐ分かる。
広場には声を上げる間もなく息絶え、まだ燃えている人間大の薪が散乱していた。
父も、その中に。
もう、どれが父なのかも分からないけれど。
「っ……」
何を言えばいいのか分からない。何を言いたいのか分からない。自分が何を考えているのか判然としない。
ジャンヌが生きていてくれたことは嬉しい。それは、間違いない。
でも同じくらい間違いなく、両親が死んだことが悲しかった。
分からない。
自分が笑うべきなのか、泣くべきなのか。ジャンヌを抱きしめるべきなのか、ぶん殴るべきなのか。
何も言えず、何もできずにいると、彼女は困ったように眉尻を下げて首を傾げた。
「皆が死ぬより、私が死んだほうが良かった?」
「それは違う! でも……皆を殺す必要はなかった。君が本当は魔女だったとしても……いや、待って。そもそも魔術で炎を操れるなら、火炙りにされても大丈夫だったんじゃ……いや、これも違う。この質問も、僕が本当に言いたいことじゃない……」
聞きたいことは山のようにあった。
現状が理解できなさ過ぎて説明が欲しいことや、知識欲や好奇心に由来するものが。
だが、まず聞かなければならないことは一つ。絶対に確認する必要があることが一つある。
「君は何だ?」
死んだ人間は生き返らない。
処刑人であり医師でもある──まあ、まだ見習いだが──僕にとって、それは絶対の定義だ。
炎を操るのは何かのトリック。傷が癒えたのは特異体質──実在検証はまだだが、常人を数倍する代謝能力を持つ人間の存在は幾つかの文献で読んだ──として、まあ自分を騙せる程度の理屈は立てられる。
だが死人は生き返らない──人間は死ぬと生き返らない。
この定義に背くモノは、即ち、人間ではない。
そして人間ではないのなら、僕の知る人間的常識も、幾人もの人間を腑分けてきた経験も、何も通じないことになる。
極論、目の前で穏やかな微笑を浮かべている少女が次の瞬間には熊に変わり、僕に襲い掛かる可能性だって棄却できない。
人間は勿論、いきなり熊に変わったりしない。だが人間ではないモノは、その常識の範疇外だ。
パニックに陥りながらそんなことを考えて、僕はゲロを吐きそうになった。
──この思考は、魔女狩りに勤しむ民衆と同じだ。
人間と魔女は違うから、なにをされるか分からない。だから怖い。怖いから迫害して殺す。
僕の思考は、その三段論法の二段目まで登っていた。
「きみ、君は、ジャンヌ……なんだよね?」
「うん、全部説明してあげる。でも、その前にお屋敷に戻って、火傷の手当てをしよう? それに、私も服着たいし」
派手に傷付いた僕の腕を見る彼女の瞳は、いつかと同じく、純粋に僕の身を案じる色をしていた。
「……うん」
どうにか頷き、一糸纏わぬ少女の肌をなるべく見ないように踵を返す。
彼女も僕に裸を見られること自体は風呂や診察で慣れてはいたし、僕も人間の裸体やその下は見慣れている。しかし、だからと言ってジロジロと無遠慮に見つめるほど、僕の育ちは悪くなかった。
ちゃんとした格好だったらジャケットでも貸しているところだが、生憎、僕は実験体たちに食事を配った格好のまま──つまり作業用のツナギだった。別邸を飛び出す前にマスクと手袋だけは外したが、着替える余裕までは無かったから。
僕たちは足早に屋敷に戻り、僕はジャンヌを居間で待たせて離れに走った。
道中、誰にも会うことは無かった。母も使用人も、離れにいたはずの実験体も、誰もいなくなっていた。
壁や絨毯には傷も焦げ跡の一つも無いというのに、人間だけが忽然と消えていた。
仄かに漂う焦げたような臭いを振り切るように走り、実験体たちに与えていた前合わせ型の入院着を持って戻ると、ジャンヌは一先ずそれを身に着ける。
僕が一番見慣れた姿になった後、元実験体の少女はおずおずと、僕の顔色を窺うような目を向けた。
「シャルル、私、ちゃんとしたお洋服が着たいな」
「……あ、そうだよね、ごめん」
どうやら、僕はまだ冷静ではないらしい。
ジャンヌはもう離れの一室に押し込められた実験動物ではない。父も母もいなくなって、僕が思う通り丁重に扱える……どころではなく、力関係は完全に逆転している。
これまで僕がそうしていたように、今は彼女が僕の生殺与奪権を握っているのだから。
相手は死から復活し炎を操る──天使とか聖人とか、或いは悪魔とか魔女とか、そういう形而上学が語るべき存在だ。
僕は全身全霊で彼女の機嫌を取り、媚び諂うことでしか生存権を得られない。
この場合、僕は屋敷の中で一番高価で豪奢な服を持ってくるか、彼女の好みそうな服を持ってくるべきだった。
実験体用のパジャマなんか論外中の論外、考え得る限り最悪の選択肢と言える。
しかし──ここで態度を変えることこそ死に直結すると、理性でなく本能が叫んでいた。
この場における正解は、あくまでもこれまで通りに接すること。
まだ胸中に蟠る理解不能な存在への恐怖を、一刻も早く忘れ去ることだ。
不思議と、僕はその確信を持っていた。
「服かあ。うーん……うちにある女物の服って、母さんと使用人のものくらいだけど、サイズが合いそうな人はいないな。姉さんの服も残ってると思うけど、こっちは逆に小さいかも」
父の使用人の選定基準は、家格より能力と忠誠心に重きを置いている。
第一に口が堅いこと。次いで主人に余計な口出しをしないこと。正義感や義憤に駆られて実験体を逃がしたり、無闇に接触したりしないこと。
そういう条件を満たすのは、往々にして成熟した大人だ。男女を問わず。
以前に実験体用の病人食をご馳走と評した彼女の体形は、かなり華奢だ。背も低いし、肉付きも良くはない。流石に年下の僕よりは上背があるけれど……ともかく、大人用の服を着てもぶかぶかだろう。
姉の服は、逆に小さい。
彼女の享年は12歳、ジャンヌはいま15歳だ。背丈も肉付きも、僕の記憶が確かならジャンヌの方が勝っている。
とはいえ、一年を通して殆どを屋敷の中で過ごしていた姉の服は、過ごしやすいゆったりとしたものが多かった。探せばジャンヌでも着られるものがあるかもしれない。
姉がどんな格好をしていたか懸命に思い出していると、ツナギの袖がちょいちょいと引かれた。
「……私、メイドさんの服が着てみたいな」
「サイズが合わないと思う。ついて来て。姉さんの服で大き目のなら、多分、丁度いいと思うから」
「……いいの? お姉さんの服、私が着ても」
困惑と遠慮に満ちた声と表情に、思わず破顔する。
彼女が人間かどうかは怪しいが、性格は僕が知っているままらしい。
「むしろ僕が嫌がったら怒るよ、姉さんは」
名家の嫡子らしい振る舞いだとか、男は紳士であるべきだとか、そういう一般論を好む人ではなかったが、それでも女の子には優しく丁寧に接するよう教わった。
……いや、そんな優しげな言葉ではなかったけれど。
とにかく、彼女は僕が思い出を大切にするあまり、少女にまともな服を着せなかったと聞いていい顔はしないだろう。
「ここが姉さんの部屋。クローゼットはこれね」
まだ遠慮しているジャンヌを連れて部屋に入り、服の在りかを開けて示す。
流石の僕も触れていない場所だから、姉の死後、両親が整理したときのままだ。着ているところを思い出せる服も、両親が「大きくなった時のために」と買った服も、そのまま残っている。
姉の残り香は感じられない。消毒液の臭いに混じる冷たい香りは防虫剤のものだ。
懐古に浸る僕の後ろで、ジャンヌは目を輝かせていた。
シックなものからゴージャスなものまで、形状も様々な洋服の列は、年頃の少女には宝石箱みたいなものだろう。というか、職人手製の服は、物によっては本当に宝石くらいの値が付くこともある。
「死人の遺した服が嫌なら、残る選択肢は僕の服だけだよ?」
「い、嫌じゃない! そうじゃないけど……」
ジャンヌはまだ何かぶつぶつ言っていたが、いい加減、火傷の痛みが強くなってきた。女性の服選びに付き合う余裕はないくらいには。
「僕は火傷の手当てをしてくるから、好きなのを選んでいいよ。着替えたらリビングで待ってて」
適当に言って、僕は足早に離れに向かった。
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