第2話
姉は生まれつき身体が弱かった。
先天性
透けるように白い肌、月光のような銀の髪、澄んだ水色の瞳。
傍目には美しく、僕も小さい頃は何も知らず綺麗だと褒めていたそれらはしかし、日の光にとても弱かった。
僕が外で遊びたい日には、決まって申し訳なさそうな顔をしていた。
「ごめんなさい。お友達と遊んでいらっしゃいね」なんて言われて、
曇りや雨の日に「いい天気ね」なんて言う彼女を笑ったことさえある。
それがどれほど愚かなことかを知ったのは、父の手伝いをするようになってから──物事の分別が付くようになってからだ。
幸いにして、僕は謝るという難しくも簡単なことを実行できるだけの素直さと、姉への愛情という強い動機を持っていて、彼女もそれをすんなりと受け入れてくれた。
一年の殆どを屋敷の中で過ごす彼女は家の蔵書の殆どを読破していて、とても博識だった。
子供の時分であることを鑑みれば喧嘩になってもおかしくなかったのに、僕の涙ながらの謝罪なんて安い贖罪で許してくれたのは、その賢しさのお陰だろう。
重ねて幸いなことに、姉は僕と同じ価値観だった。
つまり──父の研究、いや研究のための手段に、少なからぬ精神的ストレスを感じる心を持っていた。
父は、医者だ。
それ以外にも三つの職を持っている。
祖父から継いだ医者。父から継いだ異端審問官。そして義父から継いだ死刑執行人。
この時代、医師といっても医学よりは宗教に重きを置いた祈祷師や、迷信じみた半偽薬を処方する、僕たちに言わせれば詐欺師みたいな連中が多い。王立大学を出た正規の医者なんか、「医者を名乗る者」のうち二割くらいだろう。
けれど、父は違った。
彼には知見があった。知見を得るための努力を惜しまなかった。
実家にあった百の書物だけでは満足できず、古今東西、国の内外を問わず、可能な限りの文献を集めた。医学や薬学に関するものだけでなく、それが科学か信仰かを見極めるため、伝承や神話に関するものも数多く。時に翻訳家まで呼び寄せるほどの大事業は、ほんの一歩目に過ぎなかった。
収集した膨大な知識は、膨大な疑問や矛盾を孕んでいた。
ある国では毒とされるものが、別の国では薬とされる。ある国では正当な医学とされるものが、同じ国の別の時代には愚かな風習として否定される。最新のものこそ正しいわけではなく、古くから続くことが正しさを意味しない。
そんなことは想定済みだった。
父は次に、その膨大な情報の検証に取り掛かった。
検証。つまり実験だ。
どうやってかは言うまでもない。人間の治療をするためなのだから、人間を使って確かめる。
……と、言いたいところだけれど、実験は過酷だ。
内臓の機能を確かめるための解剖なんかは早々に終わらせたものの、例えばある病気に対して効くという三種の薬を検証するために、年齢や性別、体格の近しい人間三人をわざと病気に罹らせることもある。病気になる要因を確かめるのに、極めて劣悪な環境に置いたり、敢えて重傷を負わせることもあった。
そんな残酷な行為は、医師である父には到底許容できるものではなかった。
人を救うために人を傷つけるなど、本末転倒だと。
だから、人間のようなものを使った。
一つは奴隷。
この国の法律上、人間ではなく物品として扱われる「人間の形をした家具」。
一つは魔女。
異端審問にて有罪と判決された、「人間の姿をした化け物」。
大量の書物を集めるのと同じくらいの金を使い、その内容を精査し、検証した。
いや……している、が正しい。
その道程は未だ半ばだ。
それでも、幾つかの革新的な知見は得られた。例えば、病気を引き起こす要因である『病原』と、他人への『感染』、病原の種類によって異なる『感染経路』に、感染を防ぐための『衛生観念』など。
父に言わせれば、それは遠い国の古い学者が見つけたことの再発見に過ぎないらしいけれど。
彼の仕事に対する真摯さや熱心さは、何も自分一人の研究ばかりに向けられたものではなく、後継者である僕への教育にも余念が無かった。
僕が初めて剣を握ったのは、四歳のとき。
護身術の先生に渡された木剣ではなく、父に渡された、罪人の首を落とす断頭剣だった。
でも、初めて人を殺したのはそれより前、三歳のときだ。
父が用意した試験薬を奴隷に投与するように言われて、分量を間違えた。
父は僕を叱らなかった。
そんなミスをしたのは初めてだったし、「メモを渡しておけばよかったな」と、少し困ったように笑っただけ。父にとっては子供に仕事に興味を持たせるため、慣れさせるための小さなお使いみたいなものだった。世間一般の子供が、間違ったものを買ってきたくらいのミスだ。
僕はそのとき、大泣きした。
叱るどころか声を荒らげさえしなかった父は大層慌てて、母を呼びに行った。けれど母も僕を宥められなかった。
当たり前だ。
僕自身でさえ、自分が何を悲しんでいるのか分からなかったのだから。
僕は泣きながら姉の部屋に行った。
今と殆ど変わっていない。いや、今も、と言うべきか。もう十二歳になったというのに。
それが僕の、生まれついての不幸の一つ。
僕はどうも、適応能力に欠けている。
我が強い、と言ってもいいかもしれない。
世間一般で常識とされ、娯楽になっている魔女狩りが、僕には気色悪くて仕方がない。
「殺してみて死んだら魔女、死ななければ人間」なんて論理、破綻しているなんて表現が穏当すぎる。
父が当たり前のように言う、
世界の“普通”に、僕は適応できない。
なにか論理立った理由があるわけでなく、直感、感情的に「それは違う」と感じている。
しかし幸いなことに、僕は──自分で言うのもなんだが──馬鹿ではなかった。
僕から見て異常なものが大多数を占めるのなら、本当に異常なものがどちらなのかを考えて理解できた。そしてこの世界の、「異常なもの」に対する拒絶反応の強さも分かっている。
つい先刻、外の広場で焼き殺されたお姉さんは、僕から見ると普通の人間だった。
ただ、都会の舞台女優みたいに綺麗だった。簡素な服を着ても、着飾った貴婦人みたいに華があった。そして、死ぬほど運が悪かった。
彼女は数日前、同時に四人の男性から求婚されたそうだ。
本当に同時に。広場で友人と話していたところに四人の男性が集まり、示し合わせたかのような完璧なタイミングで声を揃えて。
そして彼女は異端審問に掛けられた。
主要な罪状は、魔術によって四人の男を誘惑した罪だ。魔術でもなければ、そのようなことが起こるはずはないと。
その日が恋人たちの守護聖人を記念した祭日であったこと、彼らがガチガチに緊張していて周りが見えていなかったこと、そして彼女が華のある美人だということは、全て都合よく忘れ去られた。
殴る蹴るなどの原始的な暴行を加えられ、爪を剥がされ、指を折られ、遂に彼女は自白した。
だが救いは無い。行きつく先は火刑台だ。
或いは、彼女は一抹の期待を持っていたのかもしれない。自白はしたが、自分は魔女ではない。だから神様が助けてくれるはず、と。
そんなわけがない。
本当に神様がいて、この世界と人間をお創りになったのだとしたら、そいつはとんでもないクソ野郎だ。
僕より年上の戦争も、僕の祖母を殺した疫病も、ここではない町が苦しめられているという飢饉も、魔女狩りの大流行も、何もかも神様の思し召しなのだろう?
そんな奴が──僕なんかよりもっと多くの人間を殺している奴が、今更人間一人を助けるわけがない。
……とまあ、この信仰の時代にそんなことを考えているのだから、そりゃあ世間一般の常識に適応できないわけだ。それは分かっているが、感情的な思考を止めるのは難しい。少なくとも僕には出来ない。
それはともかく。
僕は今でも、自分が正常だと思っている。自分の考えこそが正しいと。
世界から見て、一般常識から見て、自分が異常なことは分かっている。
しかしそれは、“異常”が蔓延した中に“正常”があるからだ。要は多数派がどちらかというだけのこと。羊の群れに混ざった狼は異常だが、狼の群れに混ざれば羊の方が異常になる。そういう話。
間違っているのは、狂っているのは世界の方だと、本気で思っている。
それは、ただ一人、僕を肯定してくれた姉のお陰だ。
だから僕は、自分の異常性を受け入れられた。
僕は異常だが、それは異常の中の正常であるだけだと。
だが──その自己暗示も限界が近い。
姉は二年前に死んでしまって、もう声を思い出せなくなっている。
精神に負荷がかかるたびトイレでゲロを吐いて、無人の部屋で弱音を吐いて、どうにか過ごしてきたが、そろそろ本当の意味で狂ってしまいそうだ。
無人の部屋に弱音を吐いている時点で、実はもうちょっと怪しい。
それは分かっている。壁と話すようになって治験対象を外れた実験体を、もう何度も処分しているのだから。
「……っ」
また口を突きそうになった弱音を飲み込み、立ち上がる。
今日の分の手伝いが、まだいくつか残っていた。
「よし……やろう!」
父が気合を入れるときの真似をして、姉の部屋を後にした。
そんな日々を送っていたある日。
父が、また新しい検体を買ってきた。近くの村へ巡回診察に行った折、口減らしの買取を打診されたのだとか。
そういう手合いは一応は奴隷の身分に当たるが、奴隷商による“教育”を受けていない分、心身が健康。ただし苦痛を伴う実験に対して強い拒否反応を示し、時に自殺する場合もあるので、一概に良い検体とは言えない。
よく笑い、よく喋るのも良くない。僕の弱い心では、簡単に情が移ってしまう。
しかも、最悪なことに。
「ジャンヌと申します。姓も無い卑賎の身ですが、精一杯働きます!」
やる気に満ちた笑みを浮かべたその少女は、姉とよく似た顔をしていた。
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