魔女の楽園

志生野柱

焚刑の魔女

第1話

 魔術だの魔女だのが出てくるファンタジー作品ですが、念のため。

 

 ※この作品は完全なフィクションであり、現実の歴史、また現実に存在する人物・病気・薬剤・団体等は一切関係がありません。現実に存在するものと同一名称・類似症状の病気が登場しますが、あくまで「名前と症状がよく似た創作上の別物」としてお楽しみください。


──────────────────────────────────────


 幸福と不幸は縄の目のように、交互に来るものらしい。


 僕、シャルル・ライヒハートにとって第一の幸運は、この家に生まれたことだ。


 僕の生まれたライヒハート家は、貴族ではなかったけれど、町で一番裕福だった。

 その町も総人口1000人くらいのものだけれど、近くの街から貴族が金を借りに来たことだってあるくらい。


 真面目で仕事熱心な父と、教育熱心な母、病弱だが心の優しい姉がいた。


 町の中心にある広場に面した大きな屋敷に住んでいて、両親は広場を見下ろせるバルコニーで紅茶を飲むのが好きだった。


 今日も僕が習い事を終えてリビングに行くと、二人はそこにいた。


 リビングから続くバルコニー。

 午後の穏やかな日差しの下、テラステーブルにティーセットを広げて寛いでいるところだ。


 「──あぁ、シャルル。終わったのね、お疲れ様。おやつを用意してあるわよ」

 「今日も頑張っていたね、シャルル。休憩したら、いつもの手伝いを頼むよ」


 優しげで穏やかな笑顔を浮かべた二人。


 語学や舞踏に堪能で、一時は貴族の家庭教師もしていたという母。いつも笑顔を絶やさない心の穏やかな人だ。

 父は三つの職を兼業するほどに多才で、町では町長や長老以上の人望を集めている。家族に関すること以外で怒ったところを見たことがないくらい優しい、自慢の父だ。


 僕は二人に返事をしながらバルコニーへ出て、眼下、広場を見下ろす。

 石畳の敷かれた広場には人だかりができていて、リビングにいる時から喧騒が聞こえてくるほどだった。


 歓声だ。

 歓喜と快楽を吐き出すような大熱狂。


 彼らと、我が家も含めた広場に面した家から覗く富裕層の見つめる先には、広場の真ん中に据えられた太い鉄の柱がある。


 人間の胴より太い鉄の柱。

 美術的に美しいわけでもなく、多用途に使えて便利というわけでもない無骨なオブジェ。


 群衆の見つめる先はそれそのものではなく、そこに縛られた一人の女性だった。


 まだ年若い、金髪の女。

 女性的魅力に溢れた起伏に富んだ肢体は麻の貫頭衣一つだけを纏っているが、その所々には血が滲んでいた。肌の露出した部分には痛々しい青痣が見える。


 ここからでは細部は見えないが、手足の爪が剥がれ、指も何本か折れているだろう。


 死人のような目。土気色の肌。大量の暴行の痕跡。

 あまり家から出ない僕でも知っている町で有名な美女は、今や人々の侮蔑と暴力の的だった。


 彼女の足元に積まれた大量の薪に火が入れられると、群衆の熱狂は最高潮に達した。


 父も母も、その様子を満足そうに見下ろしている。

 掃除を終えた後、綺麗になった部屋を見渡すかのような目で。


 ──僕の第一の不幸は、生まれた時代が悪いことだ。


 僕たちの国は何十年も昔から続く戦争で疲弊していた。

 僕が生まれたのは十二年前だから、僕よりも戦争の方が年上ということになる。それだけでも十分に嫌なのだが、話はそこで終わらない。


 そこに病気の流行や不作による飢饉などの災禍も重なり、民衆の間には社会的な不安が、晴れない霧のようにじっとりと付き纏っている。

 

 彼らには娯楽が必要だった。

 特に、文字を読むだけの学も、劇場のあるような大きな町へ行く金も無い者にも分かりやすく、より原始的な欲求を満たせる娯楽が。


 人々の求めに、世界は応じた。

 世界はお優しいことに、彼らの願望を複数、一気に叶えてくれた。


 「あいつが憎い」「あいつが妬ましい」「あいつが気色悪い」

 「死ねばいい」「消えて欲しい」「なるべく惨く、それでいて後腐れなく」


 そうして世界は、こんなになった。


 告発、裁判、処刑。

 密告、拷問、惨殺。


 根拠のない感情的弾劾。

 他人に不平や不満を持たれることは罪になり、それでいて他人と関わらず孤立することも罪になった。

 

 告発が通った時点で確定する有罪に、自白するまで続く拷問。

 尋問は予定調和になった。


 不必要な苦痛を伴う死刑。

 公開処刑は見せしめから娯楽になった。


 ──魔女狩り。


 僕が生まれたのは、その最盛期だった。


 自らが人間であることを証明する。

 古い賢人たちが不可能であると言ったことが、今の世には行われている。


 疑わしき者を十字架に括り付け、火にかける。

 その者が人間であれば神が守ってくださり、熱さを感じることさえない。


 或いは、聖堂の鐘撞き塔から突き落とす。

 落とされたものが人間であれば神が掬い上げてくださり、傷一つなく立ち上がる。


 時には、檻に入れて川に沈める。

 人間であれば以下省略。


 エトセトラ。


 要は、人間かどうかを検める手順その1は、「まずそいつを殺します」だ。


 狂っている。

 何かが。


 狂人の論理に基づいて魔女を狩る教会か?

 その破綻に気付かない、気付いても目を瞑って従う民衆か?


 それとも──。


 「……そろそろ終わりだね。さあ、シャルル、残りの仕事を片付けてしまおう」

 「うん、父さん」


 民衆よりも一足早く娯楽に飽いた父が、僕の肩を叩く。

 熱狂に乗り損ねた僕がぼーっとしているうちに、焚刑の炎は収まり始めていた。


 母に手を振って、僕たちは屋敷の裏手にある離れに入った。


 離れは石造三階建てで、本館とは違って装飾性を一切排した倉庫のような外観だ。

 部屋数は20もあり、それぞれ住人に応じた内装となっている。


 入ってすぐのところにあるのが、一番広く、一番雑然としている父の研究室だ。

 僕の仕事──父が僕に求める手伝いの一つは、そこから各部屋へ、決められたものを決められた通りに運ぶこと。例えば食事や薬なんかを。


 「さて……。それじゃあ、続きをやっていこう。残りの薬を配って、それぞれ経過を記録しておいで」


 頷き、装備を身に付ける。

 撥水性の高い素材で作られたツナギと、顔全体を覆う鳥のようなマスク。それから、水を全く通さない手袋。頭には髪の毛が完全に覆われる帽子をかぶり、露出部位を限りなくゼロにする。靴も専用の物に履き替えた。


 薬瓶の乗ったカートを押して階段を上り、三階まで行く。

 まずは一番近い部屋から順番に回ることにして、扉に掛かった鍵を開けた。


 部屋の内装は極めて簡素で、ベッドとトイレくらいしか物はない。鉄格子の嵌った窓から入る光だけが、部屋の中を照らしている。


 「16番ちゃん、お薬の時間だよ」

 「……はい」


 呼びかけると、ベッドの上で一つの影が起き上がる。

 簡素なシャツとズボンを身に付けた、10歳くらいの少女だ。きめ細やかな肌は血色がよく、動きに遅れる金色の髪も艶めいている。健康そうで何よりだ。


 服装にもう少し洒落っ気があれば、目を惹くような可愛らしさを手に入れるだろうけれど──彼女は奴隷の身分。それが高望みだと、彼女自身が何よりも理解しているだろう。青い双眸は、そんな濁りを帯びている。


 「前回から何か、身体に変わったところはある?」

 「いいえ。あの……」


 問いに対する答えに淀みは無い。

 これまでに何度も繰り返した遣り取りだからだ。


 しかし今日は、追加で何か言いたそうにしていた。


 「ん? なに?」


 努めて優し気に、なんでも話せると思われるような声を出す。

 実際にそうなっているかは不明だが、彼女は口を噤むことなく続けてくれた。


 「わ、わたし、奴隷なのに、働かなくていいんですか? それとも、これから物凄く大変なお仕事を与えられるのでしょうか?」

 「いや、そんなことはないよ。初めて会った時に説明した通り、君の仕事はここで一か月ほど過ごしてもらうこと。やるべきことが終わったら、君は解放だ。近くの農村の人手が足りていないから、一先ずはそこで働いてもらうことになるけれど……お賃金も出るし、引っ越しや結婚の自由も手に入るよ」


 よくもまあスラスラと、と自嘲する。

 何度となく繰り返してきた説明だが、その通りの幸せな生活を手に入れたのは十人くらいだ。


 なんせ全員の顔も名前も覚えている。

 そうはならなかった──この牢屋のような部屋を、終ぞ出ることの無かった者の顔と名前は、もう覚えきれないというのに。


 僕の言葉に、奴隷の少女は何か決心したような面持ちで口を開いた。


 「あ、あの……わたし、このお屋敷で働きたいです! 坊ちゃんのお手伝いをすることは、私には出来ませんか?」


 好意的な──いや、直接的な好意を感じさせる眼差しに、思わず怯む。


 やめてくれ。

 その好意は錯覚だ。


 奴隷商人から君を買い上げた父さんが優しくて、君に食事を持ってくる僕が温和で、この部屋が奴隷に与えられるものにしては凄まじく快適で。だから、幸福であると錯覚しているだけだ。


 ここに君の幸福は無い。

 ここで幸福を感じるのなら、僕は君の好意に応えたくない。


 そう吐き出したいのを堪え、努めて明るい声を出す。


 「使用人が足りないって話は聞いていないけれど……父さんに聞いてみるよ」


 マスクをしていて良かった。

 声は取り繕えても、表情までは制御できない。今の僕の顔を見て、それでも僕の傍に居たいと言うのなら──僕はきっと絆される。


 「ありがとうございます!」

 「うん。はい、お薬はこれね」


 満面の笑みに頷きを返し、当初の目的である丸薬を渡す。


 彼女もこれを飲むのは、もう二十か三十度目くらいになる。慣れたものだ。

 「はい!」とやる気に満ちた返事をして、小指の爪ほどの薬剤を飲み込む。


 少し青みがかった白い丸薬は、別に奴隷を処分するための毒の類ではない。

 父さんが大真面目に研究して作った、人を助けるための薬だ。


 いや──、と言うべきか。


 「ぅっ!? ぁ、かはっ……!」


 少女が胸と喉を押さえながら呻き、ベッドから転がり落ちる。

 

 「出たか……!」


 床の上でのたうつ彼女に駆け寄り、暴れる手足を押さえながら症状を観察し、応急処置を施す。

 しかし──処置の甲斐もなく、少女は数分で息を引き取った。


 ぱったりと動かなくなった身体を見下ろし、カートからクリップボードを取ってペンを走らせる。


 「……服用後数分で激甚な反応。外部から見た限りでは呼吸困難が主症状、と」


 涙を浮かべ、虚空を見つめる少女の骸。

 それに触れることは、僕には許されていない。


 虚ろな瞳を晒す瞼を閉ざしてあげることも、僕を求めて伸ばした手を胸の上で組んであげることも、頬に流れた涙を拭ってあげることも、口から流れた泡を清めてあげることも。何も、僕には許されない。


 それをすると、父の検分が精度を落としてしまうから。

 薬の完成が遅れて、救えるはずの人を、僕の感傷なんかで取りこぼしてしまうから。


 だから──まだ幼い、年下の少女のために、僕は何もしてあげられない。


 してはいけない。

 彼女の犠牲を、意味あるものにするために。


 クリップボードにペンを走らせながら、部屋を出て階下へ降りる。

 振り向いてはいけない。振り向いたらきっと、彼女を思って泣いてしまう。

 

 それは駄目だ。

 それは──父の求める、正しい後継者像ではないから。ライヒハート家の跡継ぎとして、正しい姿ではないから。


 研究室に行くと、父は何か書き物をしていた。

 

 「父さん。16番検体が死んだよ。簡易レポートに書いたけど、体重比が違うって感じじゃないから、過剰反応だと思う」

 「あぁ。お疲れ様、シャルル」


 最低限の会話で済ませ、さっさと部屋を出た。

 声も態度も冷静に見えたはずだ。この報告をするのも、もう何十回目か分からないほどなのだから。


 まだ配っていない薬があったけれど、離れを出てトイレに向かう。

 マスクと手袋は乱雑に脱ぎ、汚物用の洗濯籠に投げ入れた。意識しなくても実行できるくらい、身体に動作が染みついている。


 胃の内容物を便器に流した後、洗面台で見た自分の顔は、吐いてスッキリした直後とは思えない酷い色をしていた。


 母にも使用人にも、誰にも会わないように、素早く自分の部屋──ではなく、その隣に滑り込む。


 元は姉の部屋だったそこは、今は主を持たなかった。


 「ふぅ……」


 深々と息を吐くと、さっき出した胃液の匂いが鼻についた。

 あとで歯を磨こうと心に決めて、ぐったりと床に横たわる。


 もこもこしたカーペットの感触は、二年前と変わらない。

 主人を喪い、その残り香を喪い、消毒薬の匂いに染まり切ったくせに。


 「姉さん……」


 二年前に失った心の拠り所を求める弱音は、白い壁に吸われて消えていった。





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