第7話
ジャンヌの能力を詳しく調べることを、僕は暫く躊躇っていた。
未知のものを解き明かしたいという探求心や好奇心もあったし、もっとネガティブな恐怖心もあった。
未知は、怖い。
人間はそれを、本能として持っている。隠されたものを暴きたいという欲求もそうだし、暗闇を嫌うこともそうだ。
何か分からないモノは、何が起こるか分からないから怖い。特に、想像の余地が多い場合には。
グラスに入った水と、ビーカーに入った水。食卓上のグラスと、実験室のビーカー。内容物が全く同じでも、僕は後者を口にしようと思わない。中身が水かどうか分からないし、よしんばただの水だと確信できても、ビーカーに薬剤が残留している可能性を考えてしまう。
両親や使用人が差し出してくれたグラスに入っていれば、口にすることに躊躇いはないし、何か疑いが挟まることもない。
だが先の見通せない暗闇から伸びてきた、手袋をつけて特徴を隠した手に握られたグラスからは、とても飲む気にはならない。そもそも「こいつは何だ」という疑念が先行して、グラスを受け取ろうとも思わないけれど……まあ、ものの喩えだ。
ジャンヌの力は、グラスに入った透明な液体どころではなく不明瞭なものだ。
そして暗闇から伸びた手と同じくらい、出処も定かではない。神か悪魔が最有力候補ではあるけれど。
あの力が何なのか、どういうものなのか、実験と検証を重ねて解き明かしたくはあった。
しかし同時に、彼女を再び実験台に乗せることへの忌避感もあった。
僕は結局、彼女を人体実験の検体にしていた。ほんの四日前まで──あの火刑が行われた日の前日まで。
彼女を姉の代替品のようにして縋りながら、同時に父に言われるがまま、副作用や後遺症リスクの確定していない実験薬のテストに使っていた。
彼女がそれをどう思っていたかは分からない。
一か月後の自由のため、或いはその薬で救われるかもしれない誰かのため、肯定的に許容していたのか。或いは奴隷として買われた以上は仕方ないと、消極的に肯定していたのか。それとも──。
恐怖心や負い目から、僕は彼女に「能力を詳しく調べさせて」と言えずにいた。
……火刑が行われてから、二日の間は。
「ジャンヌ。君がこれからもああいうスタンスでいるなら、自分の力を詳しく把握して、制御を覚えておくべきだ。差し当たって、幾つか実験がしたい」
魔女と暮らし始めてから三度目の朝。
まだ朝食も摂っていないというのに、僕は屋敷の居間で苦々しくなりそうな声と顔を制御する羽目になっていた。
悲鳴と助けを求める叫び声で眠りを妨げられ、ばたばたと廊下を駆けていく足音に跳ね起きたのは一時間ほど前のことだ。
叫び声も悲鳴も遠く、屋敷の外から聞こえた。
だが足音は間違いなくジャンヌのものだ。この家どころか、この町にいる人間は彼女だけなのだから。
二人して寝間着のまま屋敷を飛び出し、声のした方へ廃墟の町を駆け抜けると、そこには二十人ほどの人がいた。
その中の四人には見覚えがある。
ロバに荷車を引かせ、近くの村から農作物や酪農品を運んできた村人だ。ライヒハート家は直接買い付けをしなかったが、この町で売られる食品の何割かは彼らの手によって作られたものだし、僕も口にしたことがあるだろう。
彼らは武装した一団に取り囲まれており、遠目にも怯え切った様子が窺える。
武装集団の方に見覚えは無いが、領主軍といった出で立ちではない。不揃いの防具に旗印もなし、それに農民相手に抜剣して脅しつけているようだ。
傭兵じみた盗賊団か、盗賊化した傭兵団か。
どちらにしても関わり合いになりたくはない手合いだが、僕が制止する暇もなく、ジャンヌは全速力で彼らの方に駆け抜け──そして一言も交わすことなく、彼らを皆殺しにした。
数日前と同じ、見事なまでの鏖殺。
一瞬のうちにただ燃えるだけの肉塊に変わった数十人を一瞥して、彼女は満足そうにするでもなく、朝一番に相応しい大きな伸びをする。
彼女は既に死した人間に対する興味を失い、僕を振り返って「おはようシャルル」と一言。
そして。
「ロバとお野菜は焼かないつもりだったのに、失敗しちゃった」
と、照れ交じりに笑った。
ロバも荷車も人間も等しく、数秒程で燃え尽きる。
跡形もなく、骨も残さず、完膚なきまでに。
独特の臭気と朝の冷たい空気が混ざり合った空間で、僕は大きく嘆息しつつ、どうにか「取り敢えず戻ろう」と絞り出すことが出来た。
そして概ね今に至る。
いくら半不死身でも急にいなくなったら驚くし怖いから止めて欲しいとか、人間を見かけるや飛び出していくのは犬以下とか、そういう説教もした。
身を縮めて聞いていたジャンヌは、怒られ終わったことを察してへらりと笑った。
「……シャルルはやっぱり賢いね。ああいうことは止めろって言わないんだ?」
試すような声と言葉に、少しだけ不安になる。
説教の効果が無いように見えるのもそうだが、何より、彼女の笑顔は見る者を不安にさせるような危うさを孕んでいた。
小さく嘆息し、肩を竦めてみせる。
彼女の態度はともかく、言っていることは正しい。
僕は彼女の暴虐の源泉、出会った人間全てを殺したいという衝動を否定する言葉を持たなかった。
「……同じ力を持っていたら同じことを考えただろう人を、僕は君以外に二人知ってる。そしてその内の一人は僕だ」
僕と姉は異端だった。
自分の感情も感想も感傷も全て心の内に秘し、抱え込んで生きていく必要があった。
大人なら難しくないことかもしれないが、僕たちにはそれがとても辛く、故に僕らはお互いに依存して生きていた。
人間の精神は孤独であることを嫌う。それは精神病に係わる実験の中で証明されているし、僕も実体験として知っている。
だが──周りに敵しかいない状況では、周りに誰もいない方がマシだと思うのもまた事実。
僕たちが秘した本心を公言すれば、たちまち吊し上げにくるだろう相手に囲まれていては、特に。
姉はかつて、僕をベッドの隣に寝かせて言った。
『この毛布の中だけが、世界の全てだったらいいのに』と。そして意図を測りかねて眉尻を下げた僕に気が付くと同時に、彼女は自分の間違いにも気付いたようだった。
続く言葉はこうだった。
『いいえ、違ったわね。貴方は外が好きだもの。太陽の温かさも浴びる風の涼やかさも、馬に乗って感じる跳ねる大地の拍動も、貴方から奪ってしまいたいわけではないのよ。だから──世界が、私と貴方だけならいいのに』
僕が何と答えたのかは覚えていない。
だがそれから僕たちは、遊びの一つとして思考実験をするようになった。
命題はいつも変わらなかった。
即ち──“如何にして人類を根絶するか”。この世界を、僕と姉だけの楽園にする方法についてだ。
「でもね、ジャンヌ。結論はもう出てるんだよ。僕は君より賢く、僕よりもっと賢い人と二人で考えて、それは無理だって結論が出てる」
いや、正確には違う。
姉は僕が諦めかけると、「現在の知識と技術では思いつかないだけよ。未来永劫実現可能性がゼロである事象を、現時点で証明して定義することこそ不可能だわ」と、なんだかそれもそれで矛盾していそうなコトを言った。
しかし少なくとも、ジャンヌの考えている方法では不可能だ。
その方法は既に検討され、結論として棄却された。
「人類の殲滅は不可能だ」
人間が人間を殺すことを、僕は否定しない。
「奴隷は人間じゃないから」「魔女は人間じゃないから」なんて馬鹿げた理論武装をして──理論武装をした気になって、さも自分は正義ですという顔をする裸の猿が気色悪くて仕方がないというだけで、殺人行為それ自体は否定できない。
人類の歴史とは戦争の歴史だ。
聖典が描かれた時代から、戦争は飢餓と疫病に並ぶ災厄として周知されていた。
それに処刑人の後嗣として、公開処刑が持つ社会的意義は知っている。
まあ、現在ほどではなくとも、昔から公開処刑を恐ろしいものではなく楽しむべき娯楽と捉える民衆はいたようで、本当に威圧効果があるかは疑問だけれど。
しかし、それはそれだ。
感情ではなく合理で考えて、大量殺戮は人類根絶に直結しない。
「古い人間は洞窟の中に棲み、それでも絵画や文字を発明するだけの余裕があった。君がこの世の町という町の全てを焼き払ったとしても、逃げ延びた人間がその後も生き続け、再び勢力を拡大することは、そう非現実的な想定じゃない」
考えていたことをズバリ言い当てられたのだろう、ジャンヌは驚いたように目を瞠る。
そして僕が何を語るのか興味を持ってくれたようで、青い瞳は好奇心の輝きを湛えていた。
ありがたい。
知性と合理で思考し判断できる相手でなければ、会話など意味がないのだから。
「仮に君が不老不死でも不可能だ。香辛料類の主要産地である東方領域に伸びる交易路は、全長6000キロ以上あると言われてる。君がこの王国を潰してから、最東端まで道中の村々を順番に潰し回りながら向かったとしよう。帰ってくる頃には、ここにはきっと別の王国が出来上がっている」
聞けば、その東方領域では過去の大戦によって3000万もの死者が出たそうだが、今でも平然と茶器や織物を作って交易をしている。
文化を育む余裕があるどころか、他国に誇示し、遠く離れた僕らの国でさえ優れた美術品として知られる品を作り上げるまでになったのだ。
「それに、父さんと僕はこれまでに100人以上の実験体を殺してるし、戦争や疫病はもっと多く殺してる。なのに僕らは罪に問われるどころかお上からの小言の一つもなく、人間は未だに絶滅していない。何千年も前から同族同士で殺し合っていて、今や魔女狩りなんて馬鹿げた祭りをやってる僕たちは、不思議なことに技術や知識を発達させながら地に満ちている」
人類は繫栄している。
戦争があろうと、疫病が流行しようと、天変地異によって飢饉が起ころうと、克服して版図を広げている。
数千どころか数千万が死んでも、少し離れた国では全く無関心でいられる。
つまり──数千万を殺したところで、人類という総体に及ぼす影響は決して致命的なものにはならない。
人類を根絶したければ、数千万を殺す力程度では足りないのだ。
「君は一秒か二秒くらいで、この町にいた1000人ほどを殺した。時間対効果を見るなら凄い成果だけど、南方聖戦のときには500万人以上死んでる。1000人なんか、ペストが流行れば誤差の範囲だ」
誰かが千人殺した。
そう聞くと、とんでもない大罪人だし、同じことを出来る人間は極めて稀だろう。戦争の最前線にいる万夫不当の大将軍とかなら分からないが。
だが、僕が生まれるより前に大流行したペストは、千人を一日で殺した。最盛期には連日五千から一万の死者を出したとも言われている。
しかし、人類はこうして健在だ。
絶滅する気配なんか微塵も無い。
「常に移動し続け、訪れた街の悉くを焼くくらいじゃあ間に合わない。訪れたことも無い場所を、見てもいない人を殺せるくらいの力が必要なんだ。遍く大地を飲み込む洪水のような」
創世記における神の過ち、そして神の過ちの清算でもある大洪水。
悪しきものと穢れたものが溢れてしまった大地を洗い流す、百五十日、或いは二百三十日もの大掃除。
罪業に塗れた都市を焼き払った天使ではなく、神が自ら手を下した奇跡だ。
それが下限とまでは言わないが、そのくらいの豪快さが無ければ種の根絶は叶わない。
そして恐ろしいことに、あの逸話では人間が八人しか生き残らない。
神の寵愛を受けた老人とその妻。三人の息子とその妻たち。
たったそれだけの生存者から、人間はこうまで繁栄した。まあ原初の人間からして二人なのだが、流石に彼らは別格としても、八人残せば絶滅し損じるということになる。
「まあ、君が悪魔の力を手にした魔女ではなく、神の御業を代行する天使や聖女である可能性もないではないけれど……人類を掃討する使命を帯びているにしては、街一つを焼く力はくだらないな」
聖人や預言者と呼ばれる超常の力を持った存在は、古今東西の文献に必ずと言っていいほど現れる。
まあ僕も父も、そんな文字通りの意味で毒にも薬にもならない存在の実在証明には興味を惹かれなかったので、普通に伝説上の存在である可能性も十分にあるけれど。
しかし5000の兵を率いて200万の大軍勢を返り討ちにした猛将は実在の人物らしいし、広大な東方領域はかつてただ一人の勇者王によって統べられていたという。そんな冗談じみた存在の実在が確からしいものである以上、胡散臭い聖人も「いなかった」と断言することは難しい。
いや、僕は最近まで「海を割った」とか「石をパンに変えた」とか、そういう逸話は創作だと思っていた。
だがジャンヌの力を目の当たりにして、過去にはそういう謎の力を持った人物が居なかったと考えることは難しい。
その上で、伝説上に語られる最高火力──地表を洗い流す大洪水以外では、他のどの伝説を考えても人類根絶は不可能だ。
悍ましい罪業都市を焼き払った熾天使の御業でも、まだまだ全然足りない。「振り向いたら塩の柱になる」という天罰が全人類に同時に適用され、かつ「呼吸したら塩の柱になる」くらい強化されたら話は別だが。
ジャンヌの発火・炎操作能力なんか、それに比べたら可愛らしいものだ。
「……それでも、「だから止めろ」とは言わないの?」
かなり強いことを言った自覚はあったが、ジャンヌは何故か上機嫌だった。
愉快そうに表情を綻ばせ、さっきと同じ好奇心に輝いた目で僕を見つめている。
不思議な反応だと苦笑しつつ、僕は彼女の疑問に答えた。
「僕は今、君の大目標が決して実現し得ないものであると言っただけなんだ。君が出会った人間、見かけた人間、人間が作り出したモノの全てを焼き尽くしたいという衝動を抱くことを、僕は否定し得ない。君の憎悪を否定することは……他人の感情を他人が否定することは、できない」
人類種の根絶は不可能だ。
だが──見つけた人間を殺し尽くすくらいなら、彼女には出来る。
その能力も事実も、彼女がそうしたいと思う源泉たる感情も、僕には否定できない。
……しかし、それはそれとして。
彼女はさっき、焼くつもりではなかったモノまで燃やしていた。
炎なんて実体のないもの、燃えるという現象を制御するのは想像しただけで難しかろうが、難しいから出来ないでは困るのだ。割と切実に。
「けれどね、ジャンヌ。僕たちには食料を生産する力が無く、衣類を製作する技能が無い。住環境はともかく、“衣”と“食”を欠く動物じみた生活をしたくないなら、商人やその商品を焼かないくらいの制御は出来ないと困る」
農村育ち、生産者側であるジャンヌは、僕よりも飢餓の恐ろしさを知っているはず。
その読みは当たっていたようで、彼女は「確かに」と頻りに頷いて同意してくれた。
「……だったら、シャルルが教えてよ。誰を殺しちゃいけないのか、どうすれば殺さないで済むのか。あなたは私より賢くて、頭の回転も速いでしょ?」
「それは馬に乗ったことが無い人間に乗馬を教わるようなものだよ。……まあ、出来る限りの手伝いはするよ。君が望まぬ「ついうっかり」で僕を焼き殺しても困るからね」
頷いて返しながら、僕は努めて笑顔を形作った。
能力を詳しく調べるのはいい。習熟に練習が必要なら、その方法だって考えよう。彼女がその身を焦がすほどの憎悪を遺憾なく発揮し晴らせるように、僕の知恵と思索の全てを費やそう。
けれど他人を殺すかどうかまでは、僕に委ねないで欲しい。
僕の中に、他人の命に対する確たる価値観はないのだ。
病気に苦しんでいる人が居れば、僕は持ちうる限りの知識と経験を使って助けたい。救えたはずの人が間違った知識のせいで救われないことなど、あってはならないと思う。
そのために、僕たちは数多の魔女と数多の奴隷を腑分け、知見を集めてきた。大を生かすため小を切り、多数を生かすため寡数を殺し、脈々と続く人類のため個人を犠牲にしてきた。
人々が疫病に苦しめられない、普通に生きて、普通に死ねる世界。
そんな世界になればいいと、本気で思う。
でもそれと同じくらいの強さで、みんな死ねばいいと思う瞬間がある。
僕と姉の二人だけでは、或いは僕とジャンヌの二人だけではまともに生きていくことも難しい。そんなことは承知の上で、それでも、この世界には僕たち二人だけが在ればいいと思う瞬間が。
そんな一貫性のない非合理的な判断をする奴に、意思決定を委ねてはいけない。
それはそうだが──手当たり次第に殺しまわるジャンヌよりはマシだろう。
僕がそう、自分自身を説き伏せて納得した時だった。
硬質な音が三度、居間の外から微かに聞こえる。
ジャンヌは何の音かと顔を向けるだけだったが、僕は思わず苦々しく顔を歪めてしまった。
それは、玄関から聞こえたドアノッカーの音だった。
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