第22話 初めての
「気持ち悪い」
真っ暗な闇の中で、幼い女の子が言い放つ。
一緒に楽しく遊んでいた頃の表情は見る影もなく、こちらに向けられるのはひたすらに
「なんなのその目。化け物みたい」
小さな身体に見合わない強い言葉で、こちらを糾弾する彼女。
ハルは自身の手を確認した。爪が鋭く伸びている。どうやら変異しているらしい。
「ずっとあたしに隠してたんでしょ」
続いた彼女の言葉に、ハルは反射的に顔を上げた。
「そんなつもりじゃ……!」
「じゃあなに? あの日の出来事がなかったとして、あなたはあたしに本当のことを言ってくれた?」
「……それは」
鋭い質問が飛んできて、言葉に詰まる。
「あたしだけがあなたを友達だと思ってた。でもあなたは違った。ずっと隠し事をして、あたしを騙してた」
淡々と、冷たい声音で彼女は続ける。
「外で遊んでるときだって手抜いてやってたんでしょ。本気で楽しんでたのはあたしだけ。それを知った時のあたしの気持ち、あなたにわかる?」
「…………」
「一番仲がいいと思ってた友達に隠し事されて、手を抜かれて、挙句の果てには欲のはけ口にされそうになった。お母さんにも信じてもらえなくて、あのときほど怒りと悲しみでいっぱいになったことはないわ」
「……………………」
「ねぇ何か言ったら?」
次々にかけられる攻撃的な内容に、けれどハルは何も返せない。返す言葉がない。
「そうやって、今も大事にしてくれてる先輩にもだんまり決め込むんだ?」
「!」
頭を殴られたような衝撃に、体が跳ねる。
「その化け物じみた瞳を見たら、先輩はどんな顔をするだろうね?」
「……っ」
「見えないとこで、先輩にもその醜い欲求向けたことあるんじゃないの? あたしと同じようにさ」
身体の横で、ハルはぎゅう、と両の拳を握った。
「図星だ。やっぱり最低だね」
その通りだ──そう思った。
毎夜夢の中で自分の欲を満たすために翼の血を吸う自分は、最低以外の何者でもない。
「あなたはやっぱり人間じゃない。化け物だよ」
言い切る彼女の言葉を否定する何かを、ハルは持ち合わせていなかった。
「うん、そうだね」
言われるがまま頷く自分を、正面にいる彼女はどんな顔で見ていただろうか。
俯くハルには、知る由もなかった。
瞼を上げると、真っ先に視界に入ってきたのは自室の壁だった。
──夢……。
点灯したままの部屋の明かりに目を細める。
気づいてしまえばもう、夢としか思えない内容だった。当時五歳の彼女が言うセリフにしては、内容も言葉選びも大人すぎる。
──あれはきっと、わたしが自分に対して思ってること……。
自責の念が彼女の形を成して襲ってきたのだと、ハルはそう結論づける。
──体調は……少しだけ良くなったかな。
まだ頭痛は続いているものの、立ち上がるのさえキツかったさっきまでに比べれば体調は
「?」
ふと胸の辺りに違和感を感じて、ハルは視線を落とす。
「?????」
視線の先に見えたのは、翼の手を胸に抱く自分の手だった。
思いがけない状況に動きが止まる。
寝ぼけた頭がまだ、寝落ち前のことを思い出していなかった。
──そうだ。わたし、先輩と一緒に……。
すぐに、自分が誘って一緒に寝たことを思い出す。背後からすぅすぅと規則正しい呼吸音が聞こえて、翼がすぐ後ろで寝ているのがわかった。
──あ。
そこまで考えたところで、ハルは今の状況の危うさに気づく。
「────!」
一瞬にして、身体中から汗が吹き出してきた。
ハルの身体は変異している。
爪や目を確認せずとも、感覚でわかる。
夢の中での変異が現実の身体にも表れることは、そう珍しいことじゃない。
問題は、すぐそこに翼がいることだ。
──離れないとっ…………。
ドクドクと痛いくらいに心臓が鳴る。
この姿を見られたらおしまいだと、警鐘を鳴らすように。
『気持ち悪い』
あの子の声が脳裏をよぎる。
早くこの場から離れなければ。
離れて、抑制剤を飲まなければ。
抑制剤の飲みすぎで身体を壊している状況で、追加で服用するなんて馬鹿のすることだ──わかっていても、今はただ一刻も早くこの身を元に戻したかった。
頭痛も気だるさも熱っぽさも何もかも忘れて、胸に抱いていた翼の手を慎重に離す。壁側のハルがベッドから降りるには、翼を
息を殺して、ハルは身体を起こした。
──お願い、起きないで。
翼を起こさずに部屋から出ることさえできれば、あとはどうとでもなる。
祈りながら、跨ぎやすい足下の方へ移動しようと体勢を整えた。
「……んん」
動き出そうとしたその時。
自分の身体のすぐ横で、もぞもぞと翼が動きだした。
「────」
呼吸が止まる。
翼にまで聞こえてるんじゃないかと思うほどに、鼓動が強く激しく鳴る。
すぐに翼の動きは止まって、また静かになった。
恐る恐る、翼の顔を見る。
「…………」
翼の両目は閉じたままだった。
「…………はっ」
ただの寝返りだとわかって、ハルは思わず息を吐く。
──大丈夫。
言い聞かせるように心の中でつぶやいた。
仰向けになった翼の寝顔が、先程よりもよく見えた。
「……あ」
このとき、もっと早く彼女の顔から目を離せば良かったと、後にハルは酷く後悔することになる。
窓から差し込む夕焼けの光。見下ろす先には翼の顔──似たような光景を、つい最近、夢の中で見たばかりで。
そこまで思い至ってしまえば、意識せずとも夢の内容が頭に浮かんだ。
己の欲求のまま、翼の首筋に噛み付いた光景が脳裏に蘇る。
「……っ」
自分の奥底にある本能が、首をもたげるのがわかった。
早く離れなきゃいけないのに、彼女の肌から目が離れない。離せない。
──早く、行かなきゃ。
熱と本能で
こんなにも動くのが怖いことなんて、何十年とある人生の中でいったい何度あるだろう。
「…………」
なんとか翼を起こさずに跨いだハルは、ベッドの
止めていた呼吸を再開してゆっくり息を吸う。吐く。
それを何度か繰り返す。
早く離れなければいけない──そう思いつつも、強烈な欲求と心労、そして思い出したかのようにやってきた体調不良に、身体が一時の休息を求めていた。
──薬、飲まないと。
けれど一分もしないうちに、それらを恐怖心が上回る。
できることなら、しばらく動かず安静にしていたい。でももしこの姿を見られてしまったら、きっとあの日の繰り返しになってしまう。
それだけは絶対に避けなければいけない。
だからハルは、休みたい気持ちに鞭を打ち、足に力を入れて立ち上がった。
リビングに行って抑制剤を飲めば、もっと辛い体調不良に襲われるだろう。けれど、最悪の展開は回避することが出来る。
ベッドから離れようとハルが一歩足を踏み出そうとした、その時だった。
「……え」
何かに掴まれた左手が、ぐい、と後ろに引かれて。
前に出るはずの身体は、気づけば後ろへ倒れていた。
「っ……!」
それは
──あ。
真正面の翼の顔が視界に入って。
彼女の澄んだ瞳の中には、赤い目をした吸血鬼の姿が映っていた。
「……もう、寝てなきゃダメじゃないですか」
少し掠れた寝起き声が、ハルを
けれど、ハルの耳には何も聞こえていなかった。
自分の心臓の音のほうが、よっぽどうるさかった。
「────」
頭が真っ白になって、何も考えられない。
目を逸らすことにさえ頭が回らない。
手も足も口も何もかも、時が止まってしまったかのように動かない。
『なんなのその目。化け物みたい』
頭の中であの子の言葉が蘇る。
軽蔑の眼差しで、幼い女の子がこちらを見ている。
すぐに似たような言葉と眼差しが、目の前の彼女から放たれるのだろう。
──怖い。
上手く息が吸えなくて、浅い呼吸を繰り返した。
──拒絶されるのが怖い。
伸びた爪が目立つ手のひらで、ぎゅっとシーツを握る。
──なのに。
翼の顔が見れなくて、逃げるように俯いた。
──こんな状況でも先輩の血を吸いたいと思ってる自分が、1番怖い。
もう、頭がどうにかなりそうだった。
熱に侵された身体、膨れ上がる欲求、拒絶されることへの恐怖感──それら全部がぐちゃぐちゃになって、胸の内をかき乱す。
姿を見られたことにこんなにも怯えているのに、それでも彼女の血を吸いたいと思う自分はどこまでも吸血鬼で。
『最低だね』
幼い声が突き刺さる。
まるで全身に重りを付けているかのように身体が重い。
もう何もしたくない。考えたくない。
「……?」
思考を放棄しようとした時。
両頬を、温かい熱がふわりと包み込んだ。
俯いていた顔を優しく持ち上げられて、その熱が翼の両手だと気づく。
「……綺麗」
目の前の女の子がなにを言ったのか、ハルにはわからなかった。
言葉の意味はわかる。
でも、そんなはずはない。
化け物みたいなこの瞳を、綺麗だなんて言うはずがない。
美しい宝石でも見るかのような眼差しで、彼女がこちらを見るわけない。
「なんだか、吸血鬼みたい」
ふにゃふにゃした声と表情で、彼女は言う。
──あぁ、そうか。
そこでようやく気づいた。
──寝ぼけてるんだ、先輩は。
だから何も怖がらない。
目の前に赤い目の化け物がいても、泣き叫ばない。
安堵の気持ちが生まれて、同時に同じだけ胸が痛くなった。
今の言葉は幻聴じゃない。
でも、寝ぼけていたから出た言葉だ。それ以上でもそれ以下でもない。
「……もし」
気づけばハルは口を開いていた。
「……もし、本物の吸血鬼だって言ったら、どうしますか」
強まり続ける吸血欲求を懸命に無視して、声を震わせながらそう口にした。
こんなことを聞いても、意味が無いことなんてわかっている。
ここで望んだ答えがこようとこまいと、明日同じ問いをして、同じ答えが返ってくる保証はない。
それでも訊きたかった。
ただの自己満だ。
「……どうするも何も」
自分で訊いておきながら、答えを聞くのが怖かった。
だけど当然、時間は止まってくれない。
いつもより舌っ足らずな口調で、それでも翼ははっきり言った。
「変わらないです。ずっと大切で大好きな、後輩で友達」
すっ、と身体が軽くなったような気がした。
「……っ」
目頭が熱くなる。
口元が震えそうになる。
──泣くな。
心の中でつぶやいた。
これは寝言みたいなものだと、自分自身に言い聞かせる。
喜んじゃいけない。真に受けてはいけない。
だけど、寝言でもなんでもいいから、夢の中じゃない現実で言われてみたかった。
吸血鬼だって構わないと。
人間じゃなくても友達だと。
ずっと誰かに、そう言って欲しかった。
──離れなきゃ。
本当はもっと浸っていたい。
もう二度と味わえないかもしれないこの感情を、ゆっくり心に植え付けたかった。
けれど、こんな時でも吸血鬼の本能は眠ってくれなくて。
ただでさえ熱で自制が弱まっている中、これ以上一緒にいては何をしてしまうか分からなかった。
「あぁでも」
ハルが動き出そうとした、その瞬間だった。
「ハルになら血、吸われてもいいなぁ」
まるで独り言のように、翼はぽつりとそう零した。
「──────」
ぷつん、と何かが千切れる音がして。
すんでのところで抑えていたものが、
熱も気だるさも恐怖心も、そのすべてを軽々と飛び越して。
──吸血鬼の本能が、ハルのすべてを支配する。
「……先輩、ごめん」
「?」
残った理性でそれだけを口にした。
必死な思いで越えた翼の身体に、ハルは再び四つん這いで覆いかぶさる。
状況を理解するほどまだ覚醒してないのだろう、翼の反応は薄い。
直後。
タイミングが良いのか悪いのか──枕の横に置かれた翼のスマホから、バイブレーションと共にアラームが鳴った。
「!!」
一呼吸置いて、寝ぼけ眼だった翼の両目がぱちりと開く。
半分寝ているような状態からようやく覚醒した翼は、ぱちぱちとその大きな
「……え?」
第一声はそれだった。
何がなんだかわからない──翼の瞳はそう言っているようだった。
それもそうだろう。
体調不良だったはずの後輩が四つん這いで自分を見下ろしていて、しかもその瞳が赤く染まっているのだから。
だけどハルには関係なかった。
気にするほどの余裕がなかった。
燃えるように熱い全身が、発熱によるものか吸血欲求によるものか、それすらももうわからなかった。
「ハル……?」
戸惑いの滲んだ声が、ハルの名を呼ぶ。
荒い呼吸を繰り返しながら、徐々に身を低くしていく。自分より十センチほど背が高い翼の、雪のように白い首筋をめがけて近づいていった。
途中、翼の華奢な身体が強張るのがわかった。けれど止まることはできなかった。
身体が、本能が、細胞が。彼女の血を欲している。
「ハ、ハル? あの、どうし……ひゃっ」
舌先で首を舐められた翼が、びくっ、と身体を揺らした。
──もう、だめだ。
眼前に迫った翼の美しい首筋に、欠片の理性も吹き飛んでいく。
本能に従うまま、ハルは翼の首筋に歯を突き立てた。
ぷつっ、と皮膚を貫いて、翼の身体から生暖かい血液が零れる。
「いっ──」
噛まれた翼が痛みに顔を歪める。
ハルはその声に気づかない。
「~~~~~~~~⁉」
舌に翼の血が触れた途端、生まれて初めての感覚がハルの身体を襲った。
脳天から雷を食らったような、衝撃にも近い感覚が全身を巡り、頭が真っ白になる。
──あ……これ、やばい。
味覚と嗅覚が狂いそうなほどの強烈な味と匂いが身体を支配して、まるでマタタビを前にした猫のようになる。
──もっと。もっと欲しい。
たらりと一筋赤い線を描く翼の首元へ、一度離した口元を再び近づける。
欲望の向くままに、ハルは翼の肌に牙を立てた。
彼女の頬を涙が伝っていることにも気づかずに。
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