第9話 放課後に
一日目、二日目は遠慮や緊張を感じさせた翼だったが、今日で約一週間が経ち、ようやく望月家の食事に馴染み始めていた。
料理の腕は壊滅的だが、人の良さと礼儀正しさで翼に対する三津の好感度がさらにアップして、早くも三人目の孫みたいになっている。琥珀もいっぱい構ってもらえてすっかり翼に懐いていた。
今日も学校が終わり次第、二人でそのままハルの家に一緒に帰ることになっていた。
「土日明けからいよいよテストが始まってきます。直前になって一夜漬けなどしないように、余裕をもってテスト勉強しておいてくださいね」
五月も下旬となり、入学後初の定期テストの時期がやってきた。担任の念押しに嫌な顔をする生徒も多い。
「望月さん、今日これから暇だったりしない?」
ホームルームを終えてすぐ、帰り支度をしていたハルに隣の席から声がかかった。
「絵梨とファミレスでテスト勉強でもしよかーって話してるんだけど、望月さんも一緒にどう?」
誘ってきたのは菅原だ。すぐ横には篠田も立っている。二人はバスケ部だが、今日はテスト前で全部活動が休みらしい。
「ごめん。今日も翼先輩と帰るから」
「そうだった」
「望月さんと翼先輩がって、ちょっとまだ信じがたいよね」
二人はハルと翼の事情を知っている。翼に恋人がいるかどうかの答えを伝える際の話の流れで、隠すようなことでもないしと関係を軽く伝えていた。
聞いた直後こそ「羨ましいっ!」と言っていた二人だったが、すぐに「いやでもうちに翼先輩がくるとか普通に緊張して無理」「隣で翼先輩がご飯食べてたら平然としてられる自信ない」と、羨望のまなざしは早々に消えていた。
「じゃあまた休み明けにねー」
「テスト勉強がんばろねー」
またねと軽く手を振る二人にハルも同じように返す。
「うん、ばいばい」
二人が先に帰り、少ししてからハルもリュックを背負って教室を出た。翼と帰るときは、先にホームルームが終わった方が昇降口で相手を待つという話になっている。
──先輩は……まだいないな。
昇降口に着いてざっと辺りを見回したが、翼の姿はまだなかった。しばらくすれば来るだろうとハルは昇降口の隅に移動して待つことにする。
壁に寄りかかり、スマホを取り出して電子書籍のアプリを開いた。様々な漫画の表紙が画面に並ぶ中、昨日発売されたばかりの少年漫画の表紙をタッチする。姉が大の漫画好きで、何度も何度もお気に入りや話題の漫画を布教されるうちに自分もいつの間にか好きになっていた。
「ねーあれ噂の一年生じゃない?」「佐々木が告った子じゃん」「最近翼ちゃんと一緒に帰ってるって聞いた」「まじか」
通り過ぎていく生徒がチラチラとハルを見てくるが、漫画に集中している本人の耳にはまったく届いていない。
続々と生徒らが靴を履き替えて帰っていく中、漫画を読み進めること二十分。
気づけば新刊丸々一冊を読み終えてしまい、昇降口にひとけはなくなっていた。
しかし翼がやってくる気配は一向に見えない。
──さすがに遅すぎる……気がする。
翼のクラスメイトが十分ほど前に外に出たのを確認しているので、彼女のクラスの帰りが特別長引いているわけではなさそうだった。日直の仕事などがもしあるのなら翼の性格的に必ずハルに一報を入れているだろう。しかしスマホのメッセージアプリを確認しても、翼から連絡はきていない。
──教室行ってみよう。
読書を中断し、ハルは翼のクラスの教室へ向かった。
二年生の教室が並ぶ三階の廊下。生徒の姿はなく、普段は外から聞こえる運動部の掛け声も今日は聞こえない。
上級生のフロアにくることは滅多にないが、一年生のフロアと構造がまったく同じだったので迷いなく翼のクラスの教室を見つけることができた。
教室の電気は点いていない。
──先に帰っちゃったのかな。
翼に限ってそんなことはないだろうと思いつつも、実際合流できていないので可能性はゼロじゃない。
電気は点いてないが念のためと、教室を覗こうとしたときだった。
「やっぱりさ、好きな男いんでしょ。翼」
聞こえてきたのは男子生徒の低い声だった。
──翼?
ハルは寸前で足を止め、なんとなく教室のドアの陰に隠れた。
「いないですと、さっきから何度もそう言っています」
高く澄んだ女子生徒の声。それは紛れもなく翼のものだった。
──よかった。帰ってなかった。
しかしハルが安堵したのも束の間。
「あの、いい加減この手を離していただけませんか」
ハルが聞いたことのない、冷たさを感じる翼の声が扉の向こうから聞こえた。
──手……?
どういう状況? と脳内にはてなマークを浮かべるハルの耳に、軽薄そうな男の声が届く。
「だーから、オッケーしてくれたら離すって言ってんじゃん」
「なんと言われようと、私は増田くんとは付き合えません」
二人の口調から、同じやり取りを何度も繰り返しているのがなんとなくわかった。
ハルはばれないようにそっと中の様子を窺う。
「!」
視界に映ったのは、翼の手首を逃がさないとばかりに掴む男子生徒の姿だった。爽やかイケメンという言葉がよく似合う整った容姿をしており、髪は明るめの茶髪。身長は一七〇センチ半ばだろうか。今回は告白する側だったようだが、きっと告白されることも多いだろう。
──増田って、たしか。
その男子生徒の名前をハルは知っていた。
『サッカー部の三年生だよ。ジャニーズ系のイケメン。この学校の男子じゃ一番モテるんじゃないかな』
以前、昼食を食べているときに篠田がそう言っていたのを思い出す。顔を見るのは初めてだったが、たしかに校内一のイケメンと言われるのも納得のルックスをしていた。
「かったいなぁ。今フリーなんでしょ? なら付き合うくらい良くね? 付き合ってから好きになることってよくあるし」
増田はまったく引き下がる気配を見せず、余裕の表情だ。
「だからさっきから何度も──」
「高校生なのに恋愛しないなんてもったいないって」
有無を言わさず食い気味に言い放つ増田。態度や言葉選びから女慣れしているのが
「そもそも、なんでこんなテスト直前に……」
「思い立ったが吉日っていうだろ? 先延ばしにしたっていいことないし」
思い立ったその日に告白できるのは相当自分に自信がある人間だけだろう。断られるという考えが増田にはそもそもなさそうだった。
「人を待たせてるんです。離してください」
しかし翼は意思の強さを感じさせる声音できっぱりと答えを告げた。
直後。
「いっ……」
増田が、掴んでいた翼の手首をぐんっと彼女の身体ごと引き寄せた。
翼の口から小さく漏れる声。
増田は本人に見せつけるように、掴んだままの手首を翼の顔の前に持ちあげた。
「いいからさっさとOKしろよ」
一段と低い声で増田が言う。
「─────」
瞬間、ハルは止めていた足を動かした。
「先輩」
淡々とした声音で翼の名前を呼ぶ。
「「‼」」
突然現れた第三者に動きを止める翼と増田。
先に状況を理解したのは翼のほうだった。
「ハル……」
待たせたことへの申し訳なさか、こんな場面を後輩に見られたことへの羞恥か、ハルの名を呼ぶ翼の声は弱々しい。
ハルは言葉で応える代わりに、スタスタと二人のもとへ歩き出した。
「誰、おまえ」
「…………」
増田が翼の手首をしっかり掴んだまま、無言で近づいてくるハルを
「……ってよく見たら一年の望月ハルじゃん!」
しかしハルの顔を認識した途端、増田の険しい表情は崩れた。一転して興味津々そうな目をハルに向ける。
「え、なに、きみ翼と仲いいの? どういう繋がり?」
「…………」
「ってか噂の十倍美人じゃん。翼とタメ張るんじゃない?」
値踏みするようにハルの顔をのぞき込んでくる増田。ハルの増田に対する嫌悪感がどんどん膨れ上がっていく。
「俺のこと知ってる? この前男子高生ミスターコンで県代表まで残ったんだけど」
「…………」
「ちょ、無視しないでよ。一応オレ先輩──」
なんだけど、という増田の言葉は、最後まで紡がれることはなかった。
ハルの右手が翼の手首を掴む増田の腕にかけられたからだ。
「?」
増田が眉を寄せた瞬間──ハルは右手に力を込めて、ぎゅうっ、と増田の腕を締め付けた。
「いっ⁉」
あまりの痛みに増田が苦悶の声を上げる。同時に、翼の手首を掴んでいた手が勢いよく離された。
「ってえ! なにすんだよ!」
ハルは三割ほどの力で軽く握っただけだが、それでも人間基準では十分怪力の域だ。骨折はしないよう加減はしたが、増田は顔をしかめて握られた左腕を痛そうにさすっている。
「……………」
その様子を無機質な表情で見つめたあと、ハルは呆気に取られている翼の手を今度は優しく取った。
「いきましょう」
「え、あの、」
まだ混乱している様子の翼の手を引き、教室の出口へ向かう。
「ちょ、待っ! まだ話は──」
増田の静止の声を無視して、二人は足早に教室を去った。
「もっと早く助けに入るべきでした」
家に向かって歩く途中でハルが言う。
「ああいう話は極力邪魔しないようにって、しばらく様子を見ちゃいました」
最初からあまり良い雰囲気でないことはわかっていたのに、と反省するハルに、翼は小さく首を横に振る。
「ハルが来てくれなかったらもっと悪い結果になってたかもしれません。だから、ありがとうございます」
翼は意外にも落ち着いた様子で、ああいったことをされるのは初めてじゃないのかもしれないとハルは思った。
「手首大丈夫ですか」
ふと、強く握られていた手首が心配になって訊く。
「ああ、少し
翼が見せるように出してきた手首を、ハルは両手で包むように触れた。
二人の足が自然と止まる。
ハルはそのまま無言で、翼の
「…………」
ハルはそっとその痕に触れた。すぐに消えそうではあるものの、翼の人並み以上に白い肌に場違いに存在する赤は痛々しい。
「痛かったですか」
ハルの言葉に翼は苦々しく笑った。
「少し」
「…………」
痕が付くほどの力で手首を握られることなどそうそうない。翼は少しというが、実際は相当痛かったんじゃないだろうか。
自分がもっと早く出ていればと、やはりそう思ってしまう。
「ハルは優しいですね」
言われて、ハルは顔を持ち上げて翼を見た。翼はハルより十センチ背が高い。距離が近い分、いつもより身長差を感じやすかった。
「普通じゃないですか」
「優しいですよ」
透明感のある声で翼は同じ言葉を重ねた。
「ねぇハル」
長いまつ毛に縁取られた瞳が、ハルを真っすぐに見つめる。
「少し寄り道しませんか」
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