第10話 海と先輩と後輩と
バスに揺られて二人がやってきたのは、ひとけのない静かな海だった。
「お気に入りの場所なんです」
波打ち際、ハルと並んで歩きながらふと翼が口を開く。荷物は防波堤の上に置き、二人とも手ぶらの状態だ。
「人が少なくて、静かで、落ち着けて……気分転換したいときとか、考えごとをしたいときなんかによく来ます」
あぁそれで、とハルは納得した。落ち着いているように見えるが、あんなことのあとで翼も気が沈んでいるのだろう。
「昇降口ですごく待たせてしまいましたよね。すみません」
「いえ、それは全然」
「あんなに長く引き止められるとは思っていなくて」
翼の言葉はもっともだった。ハルが待っていた時間は約二十分。告白を断るだけにそれだけの時間がかかるとは誰も思わない。
少しの間を空けて、翼が再び口を開く。
「……手を掴まれたとき、実を言うとけっこう怖かったんです」
無意識だろうか、翼が掴まれたほうの手首をさすった。
「でも悟られたら駄目だって、必死にいつも通りを装いました」
だから、と翼は続けた。
「ハルが助けに来てくれたとき、なんでって思いもあったけど……同時にすごく安心したんです」
波が打ち寄せる心地よい音とともに、翼の声がハルの
「なのに──」
「?」
そこで翼はおもむろにハルの前に一歩出て、両手を後ろで組みながら向かい合うようにして立った。
「ハルが自分を責めているようだったので、どうしたものかと」
「え」
そこでようやく、ハルは自分が勘違いしていたことに気づいた。
「ここに来たのは、わたしのためですか」
「……少しは気が紛れていたらいいのですが」
眉尻を下げて頬をかく翼。
自分のためとは露ほども思っていなかったハルは呆気に取られた。人が少なくて静かなところが気に入っているという場所だ。あまり人には教えたくないだろうに。
言葉が出ないハルを翼が正面から見つめる。
「ハルは少し優しすぎると思います」
投げかけられた言葉は、今まさにハルが翼に対して抱いていたものとまったく同じだった。
「……先輩が言いますか、それ」
ハルは思わず笑ってしまった。
「……!」
くつくつと控えめに笑うハルの姿に、翼は軽く目を見開いた。
普段は滅多に表情を変えないハルの、無垢な笑顔に思わず目を奪われる。
「? どうかしましたか」
「い、いえ、なんでも」
翼は慌てて視線を逸らした。ハルが首を傾けるが、さすがに「見入ってしまって」とは言えない。
「?」
そっぽを向いて黙ってしまった翼の後ろを不思議そうに付いていくハル。心なしか翼の歩調は早足ぎみだ。
しばらく黙って付いていたハルだが、ふと進行方向に見えたものに目を剥いた。
「!」
砂上でキラリと光る小さいなにか。それは砂に埋まり、先端が砂上に飛び出たガラスだった。
「先輩、そこ、ガラスが──」
ハルは慌てて翼の手を掴み、くんっと自分のほうへ引き寄せた。
「え? ……わっ⁉」
翼の身体が後ろへ傾いていく。
砂に足をとられたか、意識が別のところに向いていたか。それほど強く引っ張ったわけではないのに、翼は背中側から地面へ倒れていった。
「……!」
しかし、翼の背が砂に触れるすんでのところでハルの左腕が彼女の身体の下に滑り込んだ。
「あぶな……」
ハルが安堵のつぶやきを漏らす。いま翼の全体重はハルの左腕にかかっていた。
「大丈夫ですか」
至近距離で視線が交わる。
翼の頬がわずかに朱に染まった。
「す、すみませんっ」
翼は一瞬固まったあと、慌てた様子で体勢を立て直した。
「わたしも急に引っ張っちゃって、すみません」
腕から翼の重みが消える。ハルも支える体勢から元の姿勢に戻った。
翼を支えていた左腕に視線を落としながらハルは真顔で口を開く。
「先輩、体重何キロですか」
「えっ」
翼がぎょっとしてハルのほうを見た。体を支えられた直後にそう聞かれたら、そんな反応にもなるだろう。
「軽すぎる。ちゃんと肉ついてますか」
しかし続いたハルの言葉に、あぁそっちかと安堵の息を吐いた。
「……って、いやいや。それを言うならハルのほうでしょうっ」
これは照れ隠しからの発言だったが、同時に翼の本心でもあった。身長一五四センチという小柄な
「わたしは付いてますよ」
大真面目にそう言って、ハルは翼の手を取った。
「ほら」
そしてそのまま手をブレザーの下に潜らせると、自分の腹筋のあたりへそれを誘導した。
「……⁉」
「腹筋はちょっと自信あります」
突然のことに声が出せずにいる翼の手を、そうとは知らずに自分の腹の上でさわさわと動かすハル。
「ワイシャツの上からじゃ伝わらないか」
ぽそりとハルがつぶやく。
「いえ、十分伝わりましたっ」
翼は慌ててそう答えた。実際はハルの言う通りワイシャツの上からではあまり筋肉の質感はわからなかったが、かなりの天然なハルのこと、素直にそう言ったら今度はワイシャツの下から直接触らせるかもしれない。それは翼的にちょっと、いやだいぶ避けたかった。
そのとき、制服のポケットの中からピロンとハルのスマホが鳴った。
「ばあちゃんからだ」
ハルはスマホを取り出して画面を見る。そしてすぐにその画面を翼に向けてみせた。
「しょうゆ買ってきてほしいそうです」
「わかりました──って、もうこんな時間だったんですね」
スマホに表示されていた時刻は十八時近かった。夕焼けの始まりを告げる淡いオレンジに、濃紺の海が淡く照らされている。
「帰りましょうか」
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