第6話 スーパーと先輩
自動ドアをくぐるとスーパー特有の冷たい空気が肌を撫でた。
夕方の混雑する時間帯なこともあり店内はなかなかの賑わいを見せている。三津と同じくらいの老人もいれば、中高生や小さい子供を連れたの姿もあった。
「今日の夕飯なに?」
カートにカゴをセットしながらハルは訊く。
「カレーだよ。ルーはうちにあるから、肉と野菜を買って帰るからね」
「わかった」
「ああ、あとトイレットペーパーも買っていかないとね」
頷き、からからとカートを押しながら三津のあとに続く。はじめににんじん、玉ねぎ、じゃがいもと野菜をカゴに入れていきながら次に肉の並ぶコーナーへと足を進めた。
「今日は豚?
「ハルはどっちがいい?」
「んー、鶏」
「じゃあ鶏にしようかね」
ハルの要望を聞いた三津が鶏もも肉のパックを何個か吟味した後、選んだ一つをかごに入れた。望月家のカレーはそのときどきによってポークカレーだったりチキンカレーだったりするが、今回のようにハルが一緒に買い物にきたときは三津は大抵ハルに選ばせてくれる。
「トイレットペーパー取ってくるから、ばあちゃんは先にレジ並んでて」
「はいよ」
カレーの材料と数日分の食材を見て回ったあと、わざわざ二人で取りにいくほどでもないと三津にカートを預け、ハルはトイレットペーパーを取りに行った。
もう他に買うものはないが、棚に並ぶお菓子やらパンやらをつらつらと眺めながら売り場へ向かう。
「わっ」
「あ、すみません」
途中、自分の少し前を歩いていた男が急に立ち止まり、真っ直ぐ前を向いていなかったハルは男の持っていたかごに軽くぶつかってしまった。眼鏡をかけた気弱そうな雰囲気の若い男はハルに頭を下げると、後ろ髪を引かれるように正面を見つめたあと去っていった。
「?」
なにをそんな風に見ていたのかと、男がいなくなって開けた正面に意識を向ける。
そこにはなるほど、彼が思わず立ち止まってしまうのも納得できてしまうほどの美人がいた。
「翼先輩」
「え?」
名前を呼ぶと、彼女は棚に向けていた顔をハルのほうへ向けた。白いシャツワンピースにショート丈カーディガンを羽織っている。制服じゃない翼の姿をハルは初めて見た。
「望月さん?」
「こんばんは」
ぺこりと頭を下げながら寄っていく。翼が見ていたのはカップ麺の並ぶ棚で、彼女のカートに乗せられたかごには同じくカップ麺が山積みになっていた。よくよく見てみるとレトルト食品やパンなども入っているのがわかる。
「夕飯の買い物ですか?」
「はい。先輩は……カップ麺がいっぱいですね」
翼のイメージとかけ離れた、生鮮食品が一切ないかごにハルは目を向けた。大豪邸の大きなテーブルにカップ麵が並んでいるところはあまり想像ができない。そんなハルの心情を察したのだろう。翼は「少々事情がありまして……」と苦い笑みを零した。
「事情?」
ただ買い溜めしておくわけじゃないのかと首を傾げるハルに翼は律儀に答える。
「普段はお手伝いさんが食事を用意してくれるのですが、先月急遽辞められて……今新しい方を探している最中なんです」
「お手伝いさん」
庶民には一生縁のない単語が出てきてハルは思わずオウム返ししてしまった。
「あれ、でも先輩の家はお父さんがいるんじゃ」
翼の父は小説家だ。世間一般的な会社員よりも家にいる時間は長いだろう。それとも料理が不得意な父親なのだろうか。
「ええ。昨夜までは父が食事を作ってくれていました。ですが……」
「?」
翼の返答にハルは首を傾げる。翼は少し言いにくそうにハルから視線を外して零すように言った。
「今朝、突然『イスタンブールに取材行ってくる』と言って家を出て行ってしまって」
「…………え?」
あまりに予想外の答えが返ってきて、ハルはぱちぱちと目を瞬かせた。
「イスタンブール?」
「はい……」
確認するように繰り返すハルに小さく頷く翼。どうやら聞き間違いでも冗談でもないらしかった。
(でも、先輩のお父さんならあり得そう)
驚きはしたものの、冷静になったハルはそう思う。
国内外問わず人気の超売れっ子作家・
それが翼の父親だ。
一般人では考えられないような行動をしても不思議ではないかもしれない。
「母も今は海外勤務中ですから、今日からしばらく自分で食事を用意しなければいけないんです」
何も言えずにいるハルに、翼は説明を続ける。
「お母さん、外交官でしたっけ」
「ええ」
翼の両親の職業は同じ高校の生徒であればだれもが知っている情報だ。他人や周囲の情報に疎いハルでさえ自然と耳に入ってくるぐらいには周知の事実だった。
「じゃあ、しばらく家に一人ですか」
「そうなりますね」
翼は頷き、「ですので」と続けた。
「さっそく今日の昼食から自炊に挑戦してみたのですが」
そこまで言うと、翼はおもむろに自分の両手を胸の高さまで上げて見せた。
「恥ずかしながら今まで料理というものを経験してこなくて……少し挑戦してみただけでこの有様です」
その手を見て、ハルはカップ麺やレトルト食品が大量にカゴに積まれた理由を理解した。
色白で線の細い指先に目立つ痛々しく巻かれた何枚もの
「…………」
「そういうわけで、しばらく食事はインスタントやレトルトで
自嘲気味に笑う翼。学校での翼はどの教科であってもトップクラスの成績の持ち主で、誰もが認める天才だが、まさか料理が苦手だとはハルも思っていなかった。
そんな彼女のこんな表情なんてもちろん見たことがなくて、その原因である手をハルは無言で手に取った。
「えっ」
驚く翼にお構いなしに絆創膏の上を撫でるように触れる。ほんのり熱を持った滑らかな肌に似つかわしくない、ざらりと冷たい感触が指を通して伝わってきた。
「深い傷とかないですか」
「は、はい。大した怪我じゃありません」
「よかった」
軽く見た様子では、絆創膏のガーゼ部分に血が滲んでいるような箇所はなかった。よほどの出血であれば絆創膏をしていても吸血鬼の鼻が反応するが、それもないので、本人の言う通り一つ一つの怪我は大したことがないのだろう。
心配が解け、ハルはゆっくりと手を離す。
「お父さんはいつ帰ってくるんですか」
ハルの問いに、いつの間にか調子を戻した翼は「わかりません」と首を振った。
「いつもは長くても四、五日で帰ってくるのですが、今回は少し長くなりそうとのことで……詳しい日数もまだ未定のようです」
「……そうなんですね」
日数が未定となると余計にこの食生活ではよくないだろう。
「新しいお手伝いさん、なかなか見つからないんですか」
「何人か面接はしていそうなのですが……ピンとくる方がまだいないようです。取材も始まったので、余計に時間がかかるかも……」
そうなると翼に残された道は外食か自炊の二択になる。だが翼の料理スキルはお世辞にも高くないようだ。
ならば。
「あの、もし先輩さえよければ──」
「誰かと思ったら、翼じゃないか」
しかしハルが言い終わる前に別の声がかかった。からからとカートを押してやってきた三津だ。
カゴの中身はまだレジを通る前の状態で「あ」とハルは声を出す。
「ごめんばあちゃん。トイレットペーパー遅かったよね」
「そうさね。ハルが遅いからレジの順番が回ってきちゃって、せっかく並んだのに抜けてきたんだから」
やれやれといった様子で三津は息を吐く。
「それで」
三津は視線をハルから翼へと移した。
「翼はそんなにカップ麺をカゴに入れてどうしたんだい? その手も」
口調は優しかったが三津の声には「きちんと説明しなさい」という圧が含まれていた。傷だらけの指先に山積みのカップ麺を見れば気にもなるだろう。
「えっと、実は──」
翼は若干恥じらいながらもハルへ説明したことを繰り返した。両親が不在であること、自分で食事を用意しなければいけないこと、しかし自分は料理ができないこと──翼の話を三津は時折相槌を打ちながら聞いていた。
「なんだ、そんなことかい」
事情を聞いた三津は顎に手を当てながらあっけらかんと言う。
「なら、親父さんが帰ってくるまでうちで食事をするといい」
「え?」
三津の提案に翼は目を丸くした。
(まぁそう言うだろうな)
一方のハルはさして驚きはしなかった。三津の性格は十分すぎるほどわかっている。
「育ち盛りに毎食カップ麺は流石に見逃せないからね」
「で、でも」
「ばあちゃん」
流石に二つ返事とはいかないようなのでハルも三津の後押しをすることにした。
「わたしも同じこと言おうと思ってた」
ぐっ、とサムズアップ──相変わらずの無表情で──をしてハルは言う。
「そうだろう」
グッ、と三津もハルに返した。
「いや、あの、ほんとに大丈夫ですから──って、商品を元に戻さないで……」
気づけば勝手にカップ麺をカゴから棚へ戻していた二人を見て翼が慌てる。
「問答無用だよ。ハル、翼を捕まえてな」
「らじゃ」
がし、とハルは三津の背を取り羽交い締めにした。
「ちょ、望月さん」
「うちに来たらコハク撫で放題ですよ」
「‼」
ハルがぼそっと零した一言に翼の抵抗がピタリと止まった。
「…………」
「コハクの寝姿、見たくないですか」
「っ…………」
「膝の上に乗ってきたり、身体にスリスリしたりしてくれるかもしれませんよ」
抑揚のない声で、しかし悪魔のようにハルは囁く。
翼は目を閉じ、数秒葛藤した様子を見せたあとで 、
「わ……かりました」
と絞り出すように言った。
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