第5話 吸血鬼

 追いかけっこをしていた。土曜の昼過ぎだ。

 それほど広くない近所の公園を、ハルは幼稚園で一番仲の良い女の子と二人で走り回っている。


 ハルと女の子の母親は少し離れた場所にあるベンチでほのぼのと雑談をしながら、自分の娘たちを見守っていた。


 ハルは追われる側で、鬼役の女の子は必死にハルを追いかけていた。けれどその距離はなかなか縮まらない。


 それもそうだ。吸血鬼の身体能力は人間のそれをはるかに上回る。幼児の段階ではまだその差は大きくないものの、それでもやはり埋まらない差があった。


『ハルは他の子よりも身体がとっても強いから、一緒に遊ぶときお友達が苦しそうにしてたら、ちょっとだけお友達に力を合わせてあげてね』


 いつか母に言われた言葉をハルはふと思い出した。後ろの女の子はぜぇはぁと息苦しそうで、ハルはゆっくり走る速度を落とす。

 ハルと女の子との距離が徐々に縮まっていった。


 もう少しで女の子の手がハルの背に届く──そのときだった。


「──あ」


 女の子が最後のひと踏ん張りと加速したところで、足がもつれたのか転んでしまったのだ。

 後ろで鈍い音がして振り返れば、地面に倒れて泣きそうな顔の女の子がいる。


──だいじょうぶ?


 駆け寄って、そう声をかけるつもりだった。

 けれど。


「…………⁉」


 突然鼻を突き抜ける強く濃い匂い。それを感知すると同時に、脳を揺さぶられたような感覚がハルを襲った。


──なに、これ……?


 女の子の前で膝をつき、不自然に動きを止めるハル。

 ハルの視線は、両目に涙を浮かべながら身を起こす女の子の膝に自然と吸い寄せられた。


 女の子の膝頭にできた大きな擦り傷。そして──そこからじわじわと滲みだす真っ赤な血。


 それが視界に入った途端、目と口、そして爪に違和感を覚えた。吸血欲求を刺激された際に表れる体の変化『変異』だ。瞳は赤く、犬歯は鋭く、爪は長く──ハルが物心ついてから、これが初めての変異だった。


 自分の知らない感覚にわけがわからず固まるハル。涙目の女の子がふと顔を上げて、手を伸ばせば触れる距離でハルを見た。


「……ひっ」


 声というよりかは、空気の漏れるような小さな悲鳴。


 ハルの顔を見た女の子はその顔をみるみる恐怖の色に染めていった。ますます混乱するハルに、女の子が震えた声で言い放つ。


「こ、こないで……!」


 そこで視界が暗転した。




「……っ‼」


 すぐに回復した視界に映ったのは、公園ではなく真っ白な天井だった。

 ハルはすぐに今のが夢だと悟る。

 電気の消えた薄暗い部屋のベッドの上で身を起こし、大きく深く息を吐いた。


──久しぶりに見たな。この夢。


 実際の記憶ではあのあと、母親二人が気づいて駆けつけ、ハルの姿を女の子の母親に見られないよう、ハルの母親がうまく立ち回ったことで事なきを得た。 


 女の子は自分の母親にハルの目が赤かったこと、歯が鋭く伸びていたこと──爪までは見られていなかったようだ──を必死に伝えていたが、幼稚園児の支離滅裂な言葉は真に受けられることはなく、むしろ「ハルちゃんに失礼でしょっ」というお叱りの言葉のあとでペコペコと謝罪されてしまった。


 結局その場では丸く収まったが、その日以降、幼稚園ではその女の子に避けられるようになり、いつしか関わりはなくなってしまった。


──もう一回寝よう。


 時計を見ればまだ時刻は深夜の三時を回ったところだった。今日は休みだ。ハルはもう一度ベッドに横になり、ゆっくり目を閉じた。



 かつて夜行性だった吸血鬼とは思えないほどに夜間はぐっすりと眠り、起きたときには時計の短針が十一を指していた。

 とっくに起きていた三津に廊下でおはようと挨拶し、顔を洗う。


 それほど時間も経たないうちに三津が昼食の支度をし始めたので、ハルもキッチンで手伝いをした。祖母との二人暮らしももう五年が経つ。ハルの料理の腕は一般的な高校生に比べれば高い方だった。


 昼食は卵と米を消費したいとのことでオムライスだった。食べ終わったあとはハルが二人分の洗い物をして午後が始まる。


 午後は特に予定もなかったので読書をしたり琥珀と遊んだり、三津とテレビを見たりしながらダラダラ過ごした。外に出るのは嫌いじゃないが、休日は家でまったり過ごすことが多い。


「ハル、買い物に行くから付き合ってちょうだい」


 日が傾き、空が橙色に染まり始めたころ。愛用している買い物バッグを手にした三津に言われ、ハルは「わかった」と立ち上がった。


 行先は近所のスーパーで、三津が翼と一緒に帰ってきた雨の日に行っていた場所だ。徒歩で十分ほどの距離で道路を挟んだすぐ向かいにはドラッグストアもある。食材や日用品の買い物は大抵ここにくれば済むので近隣住民に重宝されていた。


 三津の歩調に合わせてスーパーまでの道をゆっくり歩いていく。似たような外観の一軒家やアパートが何件も連なる住宅街は、夕陽に焼かれて昼間とはまた違った雰囲気を漂わせていた。家を囲うブロック塀の上を歩く猫、地域住人御用達の古き良き居酒屋の看板、床屋の前に置かれた赤白青のサインポール……そういったものを眺めながら歩くことには、言い知れぬ心地よさがある。


 いつだかそれを三津に言ったら「お前の父さんもまったく同じことを昔言っていたよ」と懐かしそうに笑っていた。


「「「あー⁉」」」


 突然聞こえてきた幼い声に、ハルはびくっと肩を揺らした。


 その声はたった今通り過ぎようとしていた公園から聞こえたものだった。住宅街の中にある公園だ。


 二人して視線を向けると、小学校低学年くらいの少年三人が困った表情を浮かべながら背の高い木を見上げていた。


 彼らが見上げる先にあるのは、木に引っかかって落ちてくる気配のないサッカーボールだ。


「お、おれはわるくないぞっ、今のはそうちゃんのせいだろ」


 三人の中で一番背の高い少年が隣に立つ少年にそう言い放った。


「えっ、ぼく⁉」

「だって、おまえがへんなとこにパスするから……」

「ええー、ちゃんとまっすぐ返したじゃん」


 責められて、そうちゃんと呼ばれた少年がわかりやすく口をとがらせる。


「ふ、ふたりともけんかはだめだよ……」


 眼鏡の少年があわあわとしながら仲裁を試みるも、弱々しい声は二人の苛立った声にかき消されて意味をなさなかった。


 公園内には彼ら以外誰もいないようで、不毛な言い合いが止まる気配はない。


 その様子を見たハルは何も言わずに三津の顔を見た。


「しょうがないね。行ってきな」


 ハルの言わんとしていることを察した三津が首肯する。


 ハルは道を少し引き返して公園の入り口へと向かった。三津は後を追わずその場で待っている。


 公園に入るとすぐに地面がアスファルトから土に変わり、足裏から伝わる感触が柔らかいものに変わった。


「わたしが取るよ、ボール」


 三人のそばまで歩いたハルは抑揚のない声でそう言った。


「「「え?」」」


 少年三人が一斉にハルのほうへ振り向く。


「あのサッカーボールだよね」


 言いながらハルは、木の枝に引っかかっている白と黒のスタンダードなサッカーボールを指さした。


「うん、そうだけど……」


 背の高い少年がこくんと首を縦に振る。


「本当にとってくれるの?」

「うん」


 小学生相手には少々、いや、かなり無愛想な態度でハルが頷いた。


「でもすごい高いよ?」


 少年たちはハルがボールを取れるとは思っていないようで、まるで期待していない瞳でハルを見た。サッカーボールは背の高い大人の男性でも脚立なしでは到底取れない高さにあるためそれも当然の反応と言える。


 ましてや身長一五〇センチちょっとのハルがなんの道具もなしにボールを取るなど常識的に不可能だ。


 しかしそれはあくまでの常識の話である。


 であるハルに、人間の常識は通用しない。


 この程度の高さであればジャンプひとつで余裕で手が届くだろうと、引っかかったボールを見上げながらハルは思った。人間よりもはるかに高い身体能力を持つ吸血鬼なら、これぐらいできて当たり前のレベルだ。


 ただあのボールを取るにあたり、高さよりも重大な問題がひとつあった。


「ボールは取れるよ。けど──」


 ハルはまだ疑わしげな様子の三人に向けて言う。


「わたしがボールを取る間、三人には目をつぶっててほしい」


 いくら相手が幼いとはいえ、さすがにこの高さを跳べば人間じゃないことがバレてしまう。


 幸いなことに公園内に他の人の姿はなく、道路も車や人通りはほとんどなかった。加えて公園は等間隔に植えられた木とフェンスで囲まれているため、外側からは中の様子が見えにくい構造になっている。もし誰かが通りがかっても三津がなんとかしてくれるだろう。


 この少年三人の目さえ誤魔化せれば、まだ夕方の時間帯であれどジャンプの一つくらいはできそうだった。


「目?」

「なんでー?」


 しかしそんなことを知る由もない少年たちは、そろって不思議そうな表情を浮かべてハルを見る。


「え、なんで……?」


 問われて、それらしい理由まで考えていなかったハルは言葉に詰まった。


「見られてると集中できない、から?」

 慌てて頭に浮かんだことを口にするも、とっさのことだったのでつい疑問形になってしまう。

 ただ、なんとか誤魔化すことには成功したようで、


「そっか!」

「じゃあつぶってるー」

「これでいいー?」


 少年たちは疑うことなくハルの言うことに素直に従ってくれた。

 ぎゅっと目を瞑るつむ三人を見て安堵しつつ、「うん、ありがとう」と口にする。


「じゃあ、ちょっと待ってて」


 ハルはボールの引っかかっている木の下に立った。ボールは枝の先端付近にあるため、枝や葉に突っ込む心配はなさそうだ。


 あとは跳んでボールを取るだけ。


 念のため最後に周囲と三人が目を閉じていることを確認してから、ハルは両膝を軽く曲げた。

 そのまま助走をつけずに垂直跳びで跳躍。


 あっという間に身体がボールの高さまで浮き上がり、二手に分かれた細い枝の間に挟まっているボールをハルは余裕の面持ちで手の中に収めた。


 音もなく着地をし、目を瞑る三人の少年に声をかける。


「ボール、取れたよ」


 ぱっと少年たちの目が開く。ハルが手に持つサッカーボールを見た少年たちは「おぉ……!」と声に興奮を滲ませた。


「すごいすごい! どうやって取ったの⁉」

「お姉ちゃんすごいね!」

「取ってくれてありがとう!」


 同時にまくしたてる三人に「どういたしまして」と言いながらボールを手渡す。


「じゃあわたし、もう行くね」


 どうやって、という部分は濁して、ハルは足早にその場を離れることにした。ありがとう、ばいばいと手を振る少年たちに小さく手を振って公園を出る。


「うまい具合に誤魔化したじゃないか」

「信じてくれて助かったよ」


 三津のところへ戻り、ほっと一息つくハル。もう少し少年たちの年齢が高ければあれでは誤魔化せなかっただろうが、終わったことを気にしても仕方がないので考えないことにする。


「今日は私がいたからいいけど、あんた一人のときは我慢するんだよ。誰に見られるかわからないからね」

「うん。わかってる」


 三津の忠告にハルは素直に頷いた。


 吸血鬼の存在はごく限られた組織──政府、警察、医療機関の一部など──にしか認知されていない。


 個体数が非常に少ないうえ、一般人に公表してもメリットがないからだ。


 国民の不安を無用に煽り、吸血鬼排斥運動が起こることも十分にあり得る。だがそれは人権尊重の観点と、要人警護や医療の発展等、吸血鬼の卓越した身体能力や治癒力を重宝している国にとっては百害あって一利なしだ。それゆえ、吸血鬼の存在は一般人には隠し続けられている。


「行こうか」


 同じ見た目の、けれど別の生き物である少年たちを横目に、二人の吸血鬼は再びスーパーへ向かって歩き出した。

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