第23話 それから

 いつまでそうしていただろうか。


 数十秒か、数分か、もっと長かったかもしれないし、もっと短かったかもしれない。

 生まれて初めて満たされた欲求が影を潜めて。


 ふっと浮上してきた理性に、ハルは意識を取り戻した。


「…………ぅあ」


 そして、飛び込んできた光景に絶望した。


──わたしは、何をして……。


 首元にくっきり空いた、血混じりの二つの吸血痕と。

 涙で頬を濡らした放心状態の翼。


 自分が何をしたかなど、一目瞭然だった。


『とうとうやっちゃったね』


 頭の中で、幼い少女がそう言ったような気がした。

 胸の内がじわじわと黒く塗りつぶされていく。


──ああ、終わりだ。


 不思議なほど冷静に、そんなことを思った。


「!」

 

 動けずにいるハルの肩に、下から翼の手が伸びてくる。

 翼はその手でハルの左肩をグッと押し込むと、ハルの身体を退けながら、無言で身体を起こした。


 断頭台に立たされた気分だった。

 ただただ下を向き、審判が下るのを待つ。


 同意のない吸血行為は犯罪だ。

 その重さは、強姦罪と同程度とされている。


 罵られようと殴られようと訴えられようと、翼からもたらされるすべてを、自分は受け入れなければいけない。


「…………」


 何も言わないまま、翼は静かにベッドから降りた。

 ローテーブルのそばに置いていたカバンを拾い、そのままドアの方へと歩いていく。


「……今日は帰ります」


 それだけ言って、翼は部屋を出て行った。

 廊下を歩く音、階段を下りる音、そして間もなく玄関の開閉音が聞こえ、すぐに家からも出て行ったのがわかった。


「…………」

 

 一人になった部屋の中で、呆然と窓の外を眺める。

 皮肉なほどに綺麗な夕焼け空を見ながら、ハルはそっと自分の左肩に手を置いた。


──震えてた。


 自分の肩に触れた翼の手は、怯えるように小刻みに震えていた。

 翼は、どんな目で自分を見ていたのだろう。

 顔は見えなかった。見ないようにしていた。

 あの子と同じ目をしていたら、耐えられそうになかったからだ。

 つくづく自分の弱さに吐き気がした。


──もう、先輩とは……。


 あの子とは、あの公園の事件以来疎遠になった。

 きっと翼ともそうなるのだろう。

 もうすぐ日が落ちる。

 三津が帰ってくるまでに、気持ちを切り替えないといけない。

 全身から力が抜けて、倒れるようにハルはベッドの上に横になった。


「……琥珀」


 しばらく動けずにいたら、今までどこにいたのか、琥珀がぴょん、とベッドの上に飛んできた。

 確認すると、部屋のドアが完全に閉まりきっていなかった。下階から移動してきたのかもしれない。


 ハルのそばまでやってきた琥珀は、おもむろにハルの頬を舐め始めた。

 それは心なしか、ハルを慰めているようで。


「……っ」


 猫のざらついた舌が、何度も何度も頬を撫でる。


「痛いよ……琥珀」

 

 両手でギュッと琥珀の体を抱きしめて。

 そのふわふわしたクリーム色の毛に、ハルはそっと顔をうずめた。



◇ ◆ ◇



 それから5日が経った。

 三津に勘づかれないよう振る舞いながら、家からまったく出ないような日が続いた。


「今日も一日宿題やるのかい?」


 冷蔵庫横で麦茶を飲んでいると、起きてきた三津が廊下からひょっこり顔を出した。


「うん」


 空になったコップから口を離し、頷く。

 この五日間、ハルは毎日三津より早く起きていた。今まではほとんどなかったことだ。


 あの日から、うまく寝付けない日が続いている。


 単純に眠りが浅い日もあれば、嫌な夢に半ば強制的に目が覚める日もあった。


「まだ夏休み始まったばかりだろう。あまり無理しないんだよ」

「うん、ありがとう」


 短くそう返して、リビングを出たハルは二階の自室へと戻った。

 戻るなり、机に広げた英語のプリントに手を付ける。

 夏休みが始まって約二週間。まだ半分も過ぎていないのに、一年生全員が悲鳴を上げた大量の夏休みの宿題を、ハルはもうほぼ終わらせていた。あと二日もあれば、すべて終わらせることができるだろう。

 充希や絵梨が聞いたら卒倒するレベルで、この早さは異常だった。


 それもこれもこの五日間、起きてる時間をすべて宿題に費やした結果だ。


 毎回学年一位の翼には到底適わないが、ハルも学年順位一桁の成績優秀者であり、宿題にかかる時間は他の生徒よりも短い。そこに一日十時間以上も時間をかけたなら、この短期間で宿題を終わらせるのも不可能じゃなかった。

 不可能じゃないだけで、正気なら到底できることではないが。


 ただ大量の宿題が、今だけはハルにとって救いだった。

 勉強をしてる間は他のことを考えずに済む。

 逃げたい現実から目を逸らすことができる。

 スマホはあれから、一度も電源を入れていなかった。


 英文を訳して、単語の意味を書いて、和文を英語に直して──一枚目のプリントが終わり、すぐに二枚目に取りかかる。


 五枚あった英語のプリントをすべて終えて、休憩を挟むことなく今度は数学のワークを進め始めた。

 

「……わ」


 ワークを進め始めてからしばらく経ったあと。

 琥珀が急に勉強机に飛び乗ってきて、シャーペンを握る手が思わず止まった。

 琥珀はハルの正面にくると、ぐでん、とワークの真上に寝転がる。

 一旦休憩とでも言うように、じっとそこから動かなかった。


「……わかったよ」


 観念してペンを置くと、琥珀はどこか満足げに喉を鳴らした。

 

「え、もうお昼か……」


 ふと時計に目をやったハルは、自分が四時間以上もぶっ通しで宿題をやっていたことにようやく気づいた。

 琥珀がストップをかけてくる訳だ。


「ハルーご飯だよー。降りてきなー」


 タイミングよく、階下から三津の声が聞こえてくる。


「はーい」


 ハルが立ち上がると、琥珀もすぐに起き上がって勉強机から飛び降りた。


炒飯チャーハンでよかったかい」


 リビングのテーブルにはすでに、平皿に盛られたチャーハンが二つ用意されていた。


「うん、ありがとう」


 椅子を引き、三津の対面の席に腰を下ろす。

 出来たてを主張する湯気とともに、香辛料のいい匂いが鼻をくすぐった。


「「いただきます」」


 二人で手を合わせたあと、早速スプーンを手に取る。具はチャーシュー、ネギ、卵だけの、シンプルで王道な炒飯だ。


「美味しい」

「そりゃよかった」

「ごめん、なんも手伝わないで」

「宿題やってたんだろう。かまやしないよ」


 三津の言葉に、少し胸が痛くなる。宿題をやっていたのは間違いないが、それは翼とのことを思い出さないようにするためだ。早めに宿題を片付けたいなんて真面目な理由からではない。


「あぁそうだ」


 思い出したように、三津はテーブルの端に置いてあったA4サイズの封筒を手に取った。


「ハル、明日何か予定あるかい?」

「? 特にないけど」

「ならちょうどいい」


 ハルの答えを聞いた三津は、その茶封筒をスっと差し出してきた。


「明日、健康診断行ってきなさい」

「え」


 いきなり言われて、思わず食事の手が止まる。


「毎年センターに受けに行ってるだろう。体力測定と一緒に。昨日封筒がきてね」

「それはわかるけど……なんで明日?」

「ユウキが明日明後日しか休み取れなくて、明日健康診断に行くんだとさ。だから、用がないならハルも一緒に行けばと思ってね」


 困惑気味に封筒を受け取るハルへ、三津はそう説明した。


 吸血鬼の健康診断は、東京と京都の二箇所にある吸血鬼コミュニティセンターにて受診するのが義務になっている。通常の学校健診や会社の健康診断で人間と混じってはできないからだ。もしうっかり混じってしまったら、血液検査や尿検査で有り得ない数値が出てしまって現場を混乱させてしまう。

 同時に、人と同じ基準で測れない体力テストも、学生限定で実施することが義務となっていた。


「でも……」


 正直まだ、外に出てなにかするほどの気力はなかった。健康診断なら1ヶ月ほど期限がある。別に明日である必要はないと、ハルは一度保留にしようとした。


「あんまり引きこもってちゃ、晴れる気持ちも晴れないよ」


 しかし、ハルの心を見透かしたように三津が先に口を開いた。


「たまには陽の光を浴びないと。どんどん沈んで落ちていってしまうからね」


 何があったかは聞いてこない。ただ、ハルが思い悩んでいることには、間違いなく気づいているようだった。

 

「……わかった」


 これは拒否できないやつだと察して、ハルは弱々しく頷いた。


「明日、お姉ちゃんと行ってくる」

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