第28話 息抜き
あの日から、気づけばハルのことを考えている。
──眠れない……。
電気を消してベッドに横になってから、かれこれ二時間ほどが経っていた。
昨日雫に全部吐き出してから自分の気持ちを改めて考えてみたものの、答えは一向に出る気配がない。むしろどんどん沼にハマって、視野が狭くなっているような気もする。
「……風に当たりましょうか」
ベッドから身体を起こした翼は、窓を開けてベランダに出た。
夏真っ盛りといえど、夜はだいぶ気温的にはましに感じる。頬を撫でる風はぬるいが、昼間の具合が悪くなりそうな暑さとは程遠かった。
日付けが変わっておよそ一時間。見える建物の多くは消灯していて、人と一緒に街も眠っているようだった。
──ハルはもう寝たでしょうか。
望月家がある方へ目を向けてそんなことを思う。そしてすぐにハッとした。
──またハルのこと考えてる……。
気分転換でベランダに出たつもりが、何かにつけてハルのことを考えてしまう。今日はもう、彼女の顔が頭の中から離れてくれそうになかった。
「……何が違うんだろう」
星が瞬く空を見上げながらそう呟く。
──あの時涙が出てきたのは、ハルが自分以外の人から血を吸うのが嫌だと思ったから。そこまではわかった。
結局思考からハルを切り離せず、何度繰り返したかわからない自問自答が頭をぐるぐると巡る。
──じゃあなんで私はそれを嫌だと感じた? 仲の良い友達を取られたような気がしたから? じゃあ、もしそれがユウキだったら……私は泣いていた?
少し考えて、いいや、とひとり首を横に振る。
ユウキが他の人から血を吸っているのを想像しても、ハルのときと同じ気持ちにはならなかった。なら、ハルとユウキで感じるこの気持ちの差異は、一体なんなのだろうか。
──単純に付き合いの長さ? ハルと同じだけユウキと仲良くなったら、ユウキにも同じように感じる? でもなんか違う気が……そもそも仲の良い友達だからといって、泣くほど嫌に感じるものなのでしょうか。
うーん、と思考が行き止まる。ここまでは毎回考えつくのに、この先に進むことがいつまで経ってもできなかった。
「……あれ」
ふと、暗い夜道を走る車のライトが目に付く。
よくよく見てみると、それはタクシーのようだった。
何気なく見ていた翼は、日鷹家の前で止まったそれを見て声を上げる。
「お父さん?!」
タクシーから出てきたのは、肩を担がれて
支えている男性は慎吾と同世代の眼鏡をかけた男性で、翼もよく知る慎吾の担当編集だった。
慌ててベランダを出て、翼は小走りで玄関に向かう。
「すみません、
「あぁ翼ちゃん! 久しぶりだね」
玄関の扉を開けると、すぐそこで水野が慎吾のトートバッグを漁っていた。慎吾のバッグから鍵を探していたのだろう。バッグからちらりと、執筆用のノートパソコンが入ってるのが見えた。
「片側支えます」
「助かるよ」
翼は案の定寝てしまっていた慎吾の肩に手を回すと、水野と一緒に慎吾を家の中へ運んでいった。どちらかというと細身の慎吾だが、意識がないだけあって二人がかりでも寝室まで運ぶのはかなりの重労働だ。
「よいしょ」
広々した空間にベッドとタンスしか置かれていない殺風景な寝室で、ゆっくり慎吾をベッドに下ろす二人。だらん、と四肢を投げて横たわる慎吾は一切起きる気配がない。
「あの、本当に父がご迷惑おかけしました」
ようやく軽くなった肩をほぐすように回す水野へ、翼は深々と頭を下げた。
「いやいや気にしないでいいんだよ。ほら頭を上げて」
「でも……」
「仮にこいつが悪かったとしても、翼ちゃんが謝る必要ないから、うん」
ぴっ、と親指を慎吾に向けて水野が笑う。
水野は、人付き合いの苦手な慎吾の数少ない仕事相手兼友人だった。
昔、担当編集と馬が合わずに取っかえひっかえしてた慎吾が、ようやく気に入ったのが水野だったそうだ。以来十年以上パートナーである二人はとても仲が良く、日鷹家にもよく訪れる水野は幼い頃から翼のことも良くしてくれていた。
「普段はこんな泥酔することないんだけど、どうにも執筆で行き詰まってるみたいで」
水野は眠りこける慎吾へ心配の眼差しを向けて言う。
「担当として、友達として助けてあげたいけど、結局最後は作家のこいつが納得しなきゃだからさ。僕ももどかしくて」
「水野さん……」
「締切りまでまだ全然余裕あるから少しリフレッシュしてくればって言っても、頑固だからずっと部屋から出てこないし」
「……たしかに、ここ数日お父さんの顔見てなかったかもしれません」
「でしょ……息抜きが下手すぎるんだよこの人」
二人で慎吾の顔を見ながら、呆れと憂いの混じった息を吐く。
「今日は『仕事の打ち合わせ』って言ってほとんど騙し討ちみたいな感じで呼び出したんだけど、やっぱり外出させて正解だったよ。酔ったらもう口が止まらない止まらない。相当溜まってたんだろうね」
「それはますます、水野さんにご迷惑だったんじゃ……」
「いやいいのいいの。これが僕の役割みたいなもんだし。ただ、やっぱり今日だけじゃ全然足りないと思ってさ。慎吾にはもっと、息抜きの時間が必要だと思う」
慎吾の仕事のことは翼には分からない。ただ執筆中の慎吾が他のことに目もくれない様子は幼い頃から何度も見てきた。だから水野の言っていることは納得ができる。
「ということで!」
ぱん、と水野が胸の前で手を叩いた。
「慎吾には今週末から強制休暇取ってもらうことにしたから」
「強制休暇?」
「そ! この執筆用PCを僕が二週間預かって、こいつには田舎の実家に帰ってもらう。お盆の時期だしちょうどいいでしょ」
「うわぁ……」
かなり濃いめの内容に、翼は思わず声を出す。
「お父さん発狂しそう」
「うん、絶対するね。でももう決まったことだから」
二週間というと、ちょうど翼の夏休みが終わる頃までは帰ってこないということになる。慎吾が執筆に行き詰まっていることはそれほど珍しくもないが、ここまでするとなると今回は相当なのだろう。
「翼ちゃんになにも相談もせずごめんね。翼ちゃんはどうする? 慎吾と一緒に帰省する?」
「……いえ、私はここにいます」
水野の問いに、翼はふるふると首を横に振った。
「友達と遊ぶ約束もありますし、勉強もこっちの方が集中できるので」
「そっか。じゃあしばらく一人になっちゃうけど大丈夫かな」
「はい」
頷いて「そもそも」と翼は続ける。
「普段お父さんと家の中であまり会わないですし、正直状況としてはあまり変わらないというか……」
「それもそうか……」
はは、と二人顔を合わせて苦笑する。
「三波さんにもこのことは伝えてるから、何か困ったことあったら僕でも三波さんでもすぐ相談してね。すっ飛んでいくから」
「わかりました」
少し驚きはしたが、食事やその他家事については変わらず雫がいるし、生活への変化はさほどないだろう。慎吾のことは気の毒に思うが、ワーカーホリックの彼にはこれくらい強引に休ませるのも時には必要なように思えた。
「さて、そろそろ帰ろうかな。下でタクシー待たせてるし」
腕時計を確認しながら水野が言う。その肩にはしっかり、慎吾の執筆用PCが入ったトートバッグがかけられていた。
「今日は本当にありがとうございました」
「いえいえ。こちらこそ慎吾にはいつもお世話になってるから」
もう一度軽く頭を下げる翼へ、水野がそう応える。
「そうだ」
部屋を出ていく直前で、水野は思い出したように翼を見た。
「もしかして翼ちゃんもさ、今なんか悩みとかあったりする?」
「え?」
「なんかここ着いた時、ベランダで神妙な顔してたのがタクシーから見えたから」
「あ……」
まさか見られていたとはまったく思わなくて、ついそんな声が出てしまう。恥ずかしさでじわじわと頬が熱くなった。
「僕おじさんだから翼ちゃんの悩み聞いてもたぶん助けになれないけど、翼ちゃんも慎吾に似て昔から息抜き苦手じゃん? だからちょっと気になっちゃって」
「そう、ですね」
十年以上慎吾と翼を見てきただけあって、水野は二人のことをよくわかっていた。
「最近ちょっと……友達と喧嘩しちゃって」
「そっか」
「今日もずっとそのことについて考えてたら、一日が終わっちゃってました」
「そういうとこ、ほんと慎吾にそっくりだ」
穏やかに笑って、水野は続ける。
「さっきの繰り返しになっちゃうけどさ、そうやって悩んでるときほど一回頭リセットして外に出てみるといいよ。遠回りに聞こえるかもしれないけど、意外なところでパッと答えに辿り着けたりするんだ」
お節介焼いてごめんね、と水野は胸の前で手のひらを立てた。
「じゃ、僕はこれで」
「……はい、色々とありがとうございました」
改めて礼を言って、玄関まで水野を送る。
パタンと扉が閉じたのを見届けて、翼は自室へと戻った。
──頭リセットして外に出る……か。
ベッドに横になり、枕元に置いていたスマホを手に取る。
「…………」
少し考えたあと、翼は中学から付き合いのある仲の良い六人グループのトーク画面を開いた。
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