第13話 水族館
「……綺麗」
水族館特有の薄暗い空間の中、壁面の水槽を眺めながらハルが漏らす。
「大きな水槽も迫力があっていいですが、小さい水槽を見て回るのも楽しいですね」
細かく仕切られた壁の水槽とフロアに点在する小型の水槽を交互に見ながら、二人はゆっくり歩を進めていく。館内は光を巧みに使った展示でどこもかしこもSNS映えするような景色が広がっていた。実際に二人と同年代の少女やカップルたちがスマホを手に写真を撮っている姿があちこちで見受けられる。
「ハルが見たがっていたクラゲのエリア、もうすぐですよ」
「クラゲ……!」
「楽しみですね」
小さな子供のように目を輝かせるハルに翼は微笑ましげに目を細めた。
クラゲエリアは特に力を入れたエリアとしてテレビに紹介されており、ハルが一番楽しみにしていたエリアでもあった。
満を持して向かったそこは、非日常感溢れる幻想的なエリアだった。
「……すごい」
客の誰もが足を止め、目に映るそれを呆けた表情で見つめる。
円柱型の水槽が広々とした空間にいくつも並んでおり、その中をゆらゆらと多種多様のクラゲが漂っていた。水槽一つ一つが異なる色でライトアップされており、中のクラゲまでもがその光の色を反射して鮮やかな光景を作り出している。
「先輩見て。この水槽のクラゲ、すごい小さい」
「ほんとですね。赤ちゃんでしょうか」
「どうなんだろう、こういう種類なのかも」
いつもよりハルの口数が多いのは、それだけこの時間を楽しんでいる証拠だろう。
新しい水槽を見るたびに足を止めながら、二人はクラゲエリアを進んでいく。虹色にライトアップされた巨大な球体型の水槽、水槽上のガラスデッキから見る足元を泳ぐクラゲ、何百匹というクラゲを一度に鑑賞できるクラゲトンネルなど、この水族館の目玉エリアなだけに、終始驚きと感動の連続だった。
「楽しかった……」
「帰る前にもう一回行きますか?」
「! 行きたいです」
「じゃあそうしましょう」
クラゲエリアを抜けたあと、二人はイルカショーを見に行った。水がかかる前列はカッパを着た子供たちが多かったため、後ろの列で安全に楽しみ、満足して会場をあとにする。
その後はジンベエザメが泳ぐ巨大水槽やペンギンエリア、深海魚の生体や標本を見ることが出来る深海魚コーナーなどを見て回った。どこも魚や水槽の見せ方が工夫されており、つい歩みが遅くなってしまう。
「ハル、もしかしてけっこう水族館好きですか?」
小腹が空く時間帯。二人は一息つこうと館内にあるカフェで軽食──ハルはベビーカステラ、翼はミニパフェ──とドリンクを頼み、小さな丸テーブルでひと息ついていた。
テーブルの正面には横長の巨大な水槽があり、飲食をしながら魚たちが泳ぐ様子を間近で楽しむことが出来る。
「好き、だと思います。あんまり来る機会はないけど」
ペンギンの顔がプリントされたベビーカステラを頬張りながらハルは答えた。
「水族館の雰囲気が好きというか」
「雰囲気?」
「こう、非日常的な感覚に浸れる感じがいいなって」
「あぁ、それはわかるかもしれません」
翼が
「そういえば」
今日どこかのタイミングで訊こうと思っていたことを、ハルは今ここで尋ねることにした。
「お父さんからなにか、連絡あったりしましたか」
翼が望月家に来るようになってからもう二週間だ。流石に翼と父親の間で何かしらのやりとりはされているものと思っての問いだったが、
「いえ、なにも」
翼は小さく首を横に振った。
「私のほうから何度かメッセージを送っているのですが、既読すらも付かない状況です。執筆に集中しているんでしょうね」
ミニパフェを食べる手を止めて翼は淡々と答えた。
「二週間あって一度もって、なにかあったんじゃないですか」
娘一人残していきなり海外に行っておいて、二週間もの間メッセージの一つすらも送らない親がいるだろうか。
「執筆中はいつもこんな感じなので……」
呆れ混じりの乾いた笑みが翼の顔に浮かぶ。
「小説を書いているときのあの人の目には、家族すらも映ってないんです。娘の私でも、父の中の小説という存在には勝てない」
そう言うと、翼はおもむろに水槽へと顔を向けた。視線の先には、目を輝かせて水槽に手を付く女児とそれを微笑ましく見守る両親の姿がある。
その光景を見つめる翼の横顔はどこか寂し気だった。
「せんぱ──」
反射的に声をかけそうになって、しかしすぐに口をつぐんだ。今の翼にかけるべき言葉をハルは持ち合わせていない。何を言ってもきっと薄っぺらいものにしかならない気がした。
だけどそのまま何もしないのは違う気がして、少し考えた末にハルはテーブルの上に置かれていた翼の手に自分の手を重ねた。
気づいた翼が水槽から視線を移す。
「嫌だったら離します」
ハルが言うと、翼は穏やかに微笑んで、重ねられた手を
互いの手を通して伝わってくる熱が、とても心地よかった。
「魚、綺麗ですね」
「そうですね」
静かに言葉を交わす二人の前を、大きなエイが悠々と通り過ぎていった。
「お土産、沢山あって目移りしちゃいますね」
「ですね」
陳列された商品を見ながら店内を回る。カフェで休憩したあと、二度目のクラゲコーナーを見て回り、二人は館内のショップに足を運んでいた。店内にはぬいぐるみやストラップなどのグッズやお菓子類といった定番の土産が並んでいる。
「先輩、ぬいぐるみ見てきてもいいですか」
「もちろん」
私も行きます、と翼も一緒にぬいぐるみが並ぶ一角へ向かった。
ぬいぐるみコーナーにはイルカやシャチ、アザラシなどといった多種多様な海の生物の大小さまざまなぬいぐるみが置かれていた。
「……!」
ハルが目を輝かせて並べられたそれらを見る。いつもは無愛想な表情が、幼い子供のように無邪気なものになった。
──ぬいぐるみ、好きなんですね。
ハルの珍しい反応に頬が緩む翼。
「先輩、チンアナゴとニシキアナゴ、どっちの方がいいと思いますか」
真剣な表情でハルが言った。その手に抱えられているのは特大サイズのチンアナゴとニシキアナゴのぬいぐるみ。オレンジと白がニシキアナゴ、白と黒がチンアナゴだ。
「えーと……」
どっちもあまり変わらないのでは……と思った翼だが、あまりにハルが本気の表情だったので、どうにか優劣をつけようと必死に考えた。
「どちらかといえば、白のほう……でしょうか」
「やっぱりチンアナゴですよね」
うんうんと納得顔で頷いて、ハルはニシキアナゴのぬいぐるみを棚に戻した。
──オレンジって言ってたらどうなってたんでしょう……。
ハルの求める答えを出せたことに安堵しながら、チンアナゴのぬいぐるみをレジまで持っていくハルに付いていく翼だった。
行きとは逆のルートで家路を辿り、夕焼けが車窓から差し込む帰りの電車内。
地元の最寄り駅に近づくにつれ、ぎゅうぎゅうだった車内も二人が座れる程度には空き始めていた。
「今日楽しかったですか?」
チンアナゴのぬいぐるみが入った大きな袋を抱きかかえるように持つハルへ翼が問う。
「はい。とても」
「よかった」
友人と遊びに行くことは珍しくない翼だが、自分から遊びに誘い、かつ後輩と二人きりというのは流石に初めてだったので、ハルがちゃんと楽しんでくれたことにホッとした。
「クラゲ、テレビで見るよりずっと綺麗でした」
「あ、私クラゲの水槽動画撮りましたよ」
翼は鞄の中からスマホを取り出し、撮影した動画を再生する。
「けっこう綺麗に撮れた気がします」
「ほんとだ」
画面を横にし、ハルにも見えるよう二人の身体の間にスマホを持っていく翼。穏やかに水の中をクラゲが漂う動画が一分ほど流れた。
「他にもイルカショーとか、チンアナゴの写真とかも撮ったんですよ」
翼はそのまま画面をスライドしていき、今日撮った写真を流していく。翼もハルも自撮りを積極的にするタイプではないので二人が写っているのはあまりなく、全体的に青い写真が多い。
写真をスライドしながら今日一日を思い返していた翼だが、途中からハルの反応がないことに気づき顔を上げた。
「寝ちゃいましたか」
いつの間にかすうすうと寝息を立てていたハルを見てつぶやく。
ハルの寝顔を見たのはこれが初めてだった。
──本当に、綺麗な顔……。
誇張でなく、今まで見た人たちのなかで一番綺麗なんじゃないかとハルの顔を眺めながら思った。顔のパーツ一つ一つもそうだが、なによりそのバランスが良い。
美人顔の黄金比率というものがあるらしいが、ハルは絶対にそれに当てはまっていると根拠もなく思わせるほどに完璧な
翼は電車の動きにつられて不安定に揺れるハルの肩をそっと引き寄せ、自分の肩に頭を乗せてやる。
「家、帰りたくないですね……」
この楽しい時間がずっと続けばいいのにと、流れゆく車窓の景色を眺めながら翼は静かにつぶやいた。
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