第12話 痴漢もナンパも許しません
少し早く着いた待ち合わせ場所の駅前で、ハルはスマホ片手に翼を待っていた。
テスト明けの日曜日。今日は翼と二人で水族館に行く日だ。叔母にチケットをもらったからと誘われ、ハルは二つ返事でOKした。
誘われたのは最近リニューアルオープンした水族館で、テレビで特集をしていたのを見て近いうちに行きたいと思っていたところだった。クラゲの展示にかなり力を入れており、SNS映えすると若者の間でも人気のようだ。
「すみません、待たせちゃいましたか?」
待ち合わせ五分前。聞こえた翼の声にハルはスマホから顔を上げた。
「いえ、わたしもいま来たところです」
実際は十分ほど待っていたが、自分が早く着きすぎただけなのでそう答える。
翼は首元のリボンが印象的な長袖のボウタイブラウスに紺のテーパードパンツといった格好で、ブラウスがタックインされているからか彼女の細く長い脚がひと際目立っていた。
「テスト直後の休日にすみません」
「いえ全然」
翼の言葉にハルは首を横に振る。
「水族館久しぶりなのですごく楽しみです」
「それはよかった」
翼がほっとしたように表情を和らげる。テストの感想を言い合いながら二人は駅のホームへ進んでいった。
「……先輩、大丈夫ですか」
揺れる満員電車の中、正面に立つ翼に小声で問う。
人がすし詰めになった車両のドア前、背中をドアにつける翼に、まるで壁ドンするような体勢──身長はハルの方が低いが──でハルが立っている。息が触れてしまいそうな距離に一歩下がろうとするハルだが、後ろにそんなスペースなどなく、そのまま姿勢が固定されてしまった。
「大丈夫ですよ。ハルこそ、その体勢きつくないですか?」
「わたしは大丈夫です」
迷惑にならない程度の声量で言葉を交わす。多少の踏ん張りにくさはあるものの、我慢できないほどの辛さはなかった。
──近くで見ると本当にお人形さんみたいですね。
いつもより近くにあるハルの顔を見て、翼は改めてそう思う。
ハルは女性にしては短いショートヘアで、今日の恰好も上は無地のパーカー、下はゆったりめのワイドパンツと全体的に中性的な雰囲気だ。見る人によっては細身な少年と思われることも少なくないだろう。
けれどそんな性別の括りなんて関係ないと言い切れるほど、ハルはただただ「綺麗」という表現が合う。
もはや人間味がない、とさえ思うほどだ。
学校で注目の的になっていたのも大いに頷ける。
「あと二駅ですから、もう少し頑張りま──」
言いかけて、翼は不自然に言葉を切る。
ハルの背後に立っている腹の出た男が、鼻息を荒くしながらハルのうなじあたりをギラついた目で見ていたからだ。
それだけじゃない。男の手が今まさに、ハルの臀部へ触れようとしていた。
「っ!」
翼は反射的にハルの腰に手を回し、自分のほうへ彼女を抱き寄せた。
「っわ」
突然のことに踏ん張りの利かないハルは、身長差もあってあっさり翼の腕の中に納まってしまう。
二人の間の隙間が0になり、ハルの頬が翼の胸にぎゅうと抑えられる。二人の体がこれまでにないくらいに密着した。
「先輩?」
なにもわかっていないハルが、不思議そうに翼を見上げる。が、翼はそれには応えず、正面の男に
男は焦りを顔に滲ませ、ちょうど着いた駅で逃げるように車両の外へ出て行った。
「先輩?」
ふう、と安堵の息を吐く翼に、抱き寄せられたままのハルが再び声をかける。
「あ、すみません」
翼はようやく警戒心を解き、ぱっとハルの腰から腕を離した。
「やっぱり体勢、辛そうだなと思って。急にごめんなさい」
ハルに不快な気持ちになってほしくなかった翼は、本当のことは言わず適当にごまかした。
「そろそろ着きますね」
翼自身もまた嫌な気持ちを切り替えるようにつぶやく。ほどなくして電車は目的の駅に着いた。
「さすが都会。人がいっぱい」
「日曜日ですしね……」
さっきまでの満員電車と比べれば密度はマシなものの、それでも地元の駅とは比べ物にならない人の多さに思わず口が開いてしまう。改札に着くまでも一苦労だ。
「すみません。ちょっとお手洗いに行ってきてもいいですか?」
改札を抜けてすぐの場所にあるトイレを指差して翼が言う。
「わかりました。待ってます」
トイレの出入口にある柱の前でハルが足を止めたのを確認して、翼はトイレに入っていく。バスの時間までは余裕があるのでそれほど急ぐ必要もない。
中はそこそこ混んではいたが、タイミングが良かったのかどんどん列が
──痴漢、未遂で終わって本当によかった……。
個室を出て手を洗いながら翼は思う。
──ハルはああいうことに鈍感そうだから、誰かが気づいてあげないといけませんね……。
ハンカチで濡れた手を拭きつつトイレを出て、ハルの待つ所へ向かう。
──いや、痴漢のことは一旦忘れましょう。せっかくハルと遊びに来たのですから、楽しまなきゃ損──。
そう思った矢先だった。
「お兄さん達がなんでも奢ってあげるからさ、一緒に遊ぼうよ」「お友達もいるならその子も一緒でいいし」
翼の視界に映ったのは、大学生くらいの男二人に声をかけられているハルだった。
ハルはいつもの淡白な表情で「いいです」「大丈夫です」と拒否しているが、なかなか男達は離れようとしない。
──たった十分足らずでこれとかもう……!
翼はハルが並外れた容姿の持ち主であることを再確認すると同時に、足早に彼女の元へ向かった。
「あの」
そしてハルと男たちの間に入り、ハルの手をぎゅっと握ると、翼は男たちに見せつけるように繋いだ手を胸の高さまで持ち上げた。
「この子は私の連れなので。失礼します」
「え……あ、ちょ⁉」
男たちが驚いてる間に翼はハルの手を引き、その場から離れていく。増田の時とはまったく逆の構図だった。
「え、友達の子もやばい可愛くね?」
置いてけぼりを食らった男たちのつぶやきは、構内の喧騒に呆気なくかきけされた。
駅構内を出てバスターミナルに着いたところで、ようやく翼はハルの手を離した。
そして後ろを振り返り、今度はハルの肩をがしっと掴む。
「ハル、今日は私から絶対離れないでくださいね! 都会はどんな人がいるかわかりませんから!」
ものすごい剣幕で言う翼に、ハルは一瞬驚きつつも「わかりました」と頷いた。今まで聞いた翼の声の中で、今のが1番声量があった気がした。
今度こそ本当にハルを解放した翼は、一転して落ち着いた声で「バス乗り場確認しますね」とスマホを取り出す。
「あの」
そんな翼の服の袖を、くいっと掴んでハルが言った。
「ありがとうございました。先輩、めちゃくちゃ頼りになる」
わずかに口角を上げるハルの不意打ちの表情、タメ口混じりの喋り方、そして何より本やドラマで見るようなあざとい仕草のギャップに「え、あ、はい」と、しどろもどろな返答をしてしまう翼。
──ほんっっっとうにこの子は!
心の中の叫びは当然、ハルの耳に届くことはなかった。
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