第18話 三上雫

 慎吾が翼とともに家を訪ねてきたのは、翼が望月家に来なくなった日の三日後のことだった。


「一ヶ月もの間、娘が大変お世話になりました」


 ブラックスーツにネクタイとフォーマルな格好で訪れた慎吾は、出迎えた三津とハルに開口一番そう言うと「つまらないものですが」と前置きして菓子折りを差し出してきた。


「こちらが強引に娘さんをうちへ呼んだんだ。こんな高そうなもの頂くわけにはいかないよ」


 三津は断ったが、慎吾は差し出した手を引っ込めない。


「どんな経緯であれ、娘があなた方のお世話になったことは事実ですので。どうか受け取って頂ければ」


 有無を言わせぬ雰囲気に、たとえ何度断っても同じ結果だと悟った三津は早々に折れた。


「わかった。じゃあありがたく頂くよ」

「本当にありがとうございました」


 わざわざ休日に制服姿でやってきた翼が深々と頭を下げる。さらりと滑らかな動きで髪が顔の横を流れた。


「私らも楽しかったからいいんだよ。頭を上げて」


 三津の言葉を真横で聞きながら、ハルも同じ気持ちを抱いていた。


 こうして翼と当たり前に話すようになるまで、高嶺の花でありお嬢様でもある彼女に対してハルは近寄りがたい存在というイメージを持っていた。

 しかし実際一緒に過ごしてみれば、思った以上に親しみやすい。


 翼は人との距離を掴むのが上手いのだ。


 ハルは口数は少ないが会話をするのが嫌いというわけでもなく、かといってあまりぐいぐい来られるのも得意ではないというやや面倒くさい性格をしているが、翼はそれをすぐに察し、良い塩梅あんばいに近すぎず遠すぎずの距離を保ってくれた。

 それがハルにとってはとても居心地がよかった。


「では、僕たちはこれで」


 菓子折りを渡し終えた慎吾が早々にそう言った。必要以上のやりとりをしたくないという気持ちを一切隠さない慎吾に、翼とはまったくちがうタイプの人間だなとハルは思う。人に興味がない印象だ。


「時間があるなら少し上がっていかないかい? 粗茶しか出せないが」

「いえ。結構です」


 三津の提案を慎吾は即座に断った。


「これ以上おたくにご迷惑をおかけするわけにはいかないですから。それに、僕は重度の猫アレルギーでして」


 慎吾は言いながら、ちらとハルの足元の琥珀に視線を落とす。

 猫アレルギーという単語を聞いて、ハルは以前翼とした会話を思い出した。家で猫は飼ってないのかというハルの質問に対し、父親がアレルギーだから飼いたくても飼えないと悲しそうに言っていた翼の顔が脳裏に蘇る。


「娘に関しても、今後はしっかりうちで食べさせますので。では」


 帰るぞ、と一言口にして、翼の反応も待たずに踵を返す慎吾。


「あ、ちょっとお父さんっ」


 翼が呼び止めるが、慎吾は構わず外へ出て行ってしまった。


「なかなか変わった親父さんじゃないか」


 三人と猫一匹のいつものメンツになり、最初に口を開いたのは三津だった。


「本当にすみません!」


 ばっ、と勢いよく翼が頭を下げた。


「あーあー責めてるわけじゃないよ。謝らないでいい」


 三津の言葉に翼がゆっくり顔を上げる。


「変わってるとは思ったが、私は親父さんのこと嫌いじゃあないよ。ありゃ自分に正直すぎて忖度そんたくできないタイプだね

「おっしゃる通りで……」


 困ったように眉を下げる翼。


「あの人、本当に小説以外のすべてに興味がなくて。もう少し人付き合いのほうも頑張ってほしいのですが……」


 はあ、と小さく息を吐く翼。もうどちらが親かわからなかった。


「もうごはん食べに来ないですか」


 今後はうちでしっかり食べさせる、という慎吾の言い方が、もうおたくには厄介にならないと言っているようでハルは気になっていた。


「お二人さえよければたまにお邪魔したい、と言いたいところですが……きっと『理由もなく他人の家の世話になるな』と言われるでしょうね」

「そうですか」


 この一ヶ月が特殊だっただけで、食事は自分の家で取るのが当たり前だ。特別な事情もなく今の状態を続ける方がおかしいだろう。

 まるで翼の言葉を理解したかのように急に足元に擦り寄ってきた琥珀を、ハルは何気なく抱き上げた。


「琥珀、先輩来なくなっちゃうって。寂しいね」


 にゃー、と返事をするように琥珀が鳴く。


「……っ」


 あくまで琥珀に向けられた言葉は、しかし正面にいた翼にも大いに刺さったようで。

 琥珀に目を向けているハルは、翼の反応にまったくもって気づいていない。


「たまに猫を触りに来るくらいなら、流石に親父さんも許してくれるんじゃないかい?」


 気づかない孫に変わって、三津がにやつきながら言った。


「……そう、ですね」


 絞り出すように言う翼を見て、一層笑みを強める三津だった。



◇ ◆ ◇



「あ、あったあった」


 広々としたランドリールームの中で、エプロン姿の女が嬉しそうに声を出す。

 メガネに黒髪ロングと真面目そうな見た目とは裏腹に、その顔に浮かぶのは悪い笑みだ。


 いくらするのか分からない高級そうな最新のドラム式洗濯機に、カゴに入れられた洗濯物を入れている最中だった。


「翼ちゃんが丸1日身につけた下着……」


 フリルがあしらわれた純白のブラジャーを手にして、女が静かにつぶやく。

 女はじっくり舐め回すように見たあと、おもむろにそれを自分の顔へと近づけていった。


 鼻と口に下着を押し付け、深呼吸するように大きく息を吸う。


「〜〜〜〜〜!」


 アルバイト中にも関わらず、女のテンションは最高潮に達した。

 学級委員長然とした雰囲気は見る影もなく、そこいるのは恋に狂った変態ひとり。


「あなたに近づくために私、出版社勤めのお父さんにたーくさんお願いしたんだよ。ねぇ、翼ちゃん」


 瞳にハートマークを浮かべながら、女は下着の持ち主へと独り言をつぶやく。

 ここでアルバイトをするようになってから数日、洗濯時にをすることが女の習慣になっていた。

 

「翼ちゃんを紹介してくれた増田くんには感謝しないとね」


 そこまで言ったところで、女はぴくりと耳を震わせる。

 ランドリールームに近づいてくる足音が聞こえたからだ。


 女は持っていた下着を素早く洗濯カゴに戻し、何食わぬ顔で洗濯物を洗濯機へ移し始めた。


「お疲れ様です、三上さん」


 現れたのは、つい今しがた手にしていた下着の持ち主だった。

 女はニヤつきそうな顔を懸命に引き締めて、真面目に仕事をしていたていを装う。


「間に合ってよかった。このタオルもお願いしていいですか?」


 差し出されたのは淡いグリーンのフェイスタオル。使用済みだろうか──そんなことを考えながら、女は「わかりました」と冷静に受け取る。


「いつもありがとうございます。適度に休憩取ってくださいね」


 労いの言葉をかけたあと、すぐに彼女は去っていく。

 再びランドリールームに一人となった女は、すぐさま受け取ったばかりのフェイスタオルを自身の顔に押し当てた。


「あぁ……好き」

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