第19話 欲求

「明日から夏休みだねえ」


 ジュースのストローをくわえながら、菅原がだらしなく頬を緩ませる。


 ハル、菅原、篠田の三人は、終業式を終えたあと、近場にあるショッピングモールのフードコートに来ていた。

 学校から直接来たため、三人とも制服のままだ。


「私たちは部活三昧だけどね」

「あー今だけはそれ言わないで」


 篠田の指摘に一気に顔を険しくする菅原。二人は女子バスケットボール部に所属している。小学生からバスケをしている経験の長さと技術力で、早くも期待の新人としてビシバシ鍛えられているようだ。


「望月さんは結局部活やらないの?」


 篠田からの問いに、ハルはポテトをつまみながら「うん」と頷く。


「なんかしっくりくるのがなくて」

「そっかー。まあうちの学校、部活必須じゃないしね」


 吹奏楽部や美術部などいくつかの文化部は見学に行ったものの、どれも未経験のものばかりで自分には到底できそうになかった。運動部に関してはそもそもハルの選択肢にない。常に力を抑えてやるスポーツなど、ストレス以外の何物でもないからだ。


「最近翼先輩とはどう?」


 何のけなしに菅原が訊いてくる。翼の家の問題が解決したことは、とっくに二人には伝えていた。


「もう二週間くらい話してない、かも」

「「え?」」


 ハルの答えが予想外だったのだろう。二人してジュースのストローから口を離し、目を瞬かせる。


「え、なになに喧嘩でもした?」


 篠田に言われ、ううん、とハルは首を横に振った。


「ただお互いに、タイミングが合わなくて」


 翼が自宅で食事をするようになってから約一ヶ月。ハルには驚いたことが一つあった。


 それは、翼との交流がほぼゼロになったことだ。


 互いを一方的に知っていただけの四月の状態に戻っただけだが、この一ヶ月ほとんど毎日一緒に過ごす時間があっただけに「こんなに関わりなかったっけ」と強く感じてしまうのだろう。

 しかし普通に考えれば、学年も部活も委員会も違う二人が学校で関わる機会などそうない。


 慎吾とお礼に来てから二度、琥珀を触りに望月家へ来た翼だが、この二週間はお互いに予定が合わず、またテスト期間に入ってしまったことも重なって会話の一つすらもできていなかった。メッセージでのやり取りは数回あったが、面と向かって話したわけではない。


「夏休みに入っちゃうし、余計話せなくなっちゃうね……」

「いや、二人とも部活やってないしむしろいっぱい遊べるんじゃない?」

「どうだろう。わかんない」


 夏休みのことはまだ翼と何も話していない。 

 三津も琥珀も翼のことは大歓迎なので、食事とまではいかなくともまたタイミングが合えば家に呼ぶつもりではあった。


「もしかして、今日私らが誘わなかったら翼先輩と帰れてたりした?」


 篠田が気にするように言ってきたので、ハルは小さく首を横に振った。


「今日は先輩も用事あったみたい」

「ならよかったー」


 安心したように息をつく篠田。

 翼も今日は同じクラスの友達と遊ぶ予定が入っているとメッセージで聞いていた。


「そんじゃ今日は三人で映画とショッピング楽しむぞー!」

「おー!」

「おー」


 菅原がテンション高く拳を上げ、篠田もそれに続く。ハルもやや遅れながら、緩慢とした動きで腕を上げた。




 時間が経つのはあっという間で、雑貨や洋服を見て回るうちに気づけば十七時を回っていた。


「やー良いものが見れたなぁ」

「まじ目の保養だった」

「…………」


 モール内の映画館へ向かう中、三人の表情は満足げなものと疲れ切ったものにきれいさっぱり分かれていた。


「望月さんは中性的な格好ももちろん似合ってるけど、フェミニンな格好も絶対似合うと思ってたんだよなー」

「普段のイメージとちがう系統を着てもらったのは正解だったよね。フレアスカートよく似合ってた……」

「店員さんも途中からノリノリだったよね」

「まちがいなくときめいてたね」

「……楽しんでもらえたならよかったよ」


 菅原と篠田、そして途中から加わったアパレル店員を合わせた女性三人の着せ替え人形として、服を脱いでは着がえ、脱いでは着替えを三十分ほど繰り返したハルはすっかりぐったりとしていた。とはいえ、昔から姉のユウキに似たようなことはされていたし、疲れはするものの嫌なわけではなかったので二人が満足するまで付き合っていたが。


「今更だけどさ」


 ふいに菅原が口を開く。


「そろそろ望月さんのこと、ハルって呼んでいいかな?」


 言いながら、反応を伺うようにハルの顔を覗き込む菅原。


「あ、私もそれ思ってた!」


 慌てたように篠田が便乗してくる。拒否する理由もないのでハルは「もちろん」と答えた。


「じゃあわたしも、充希みつき絵梨えりって呼んでいい?」


 ハルが言うと、二人はぱあぁ、と花が咲いたように顔を綻ばせた。


「「もちろんだよ~」」

「わっ」


 両脇から二人が抱き着いてくる。運動部女子にありがちな距離感の近さを感じながら、そっとハルは歩調を緩めた。




──よりにもよって吸血鬼モノだったなんて。


 大きなスクリーンを前にして、ハルは心の中で呟く。


 今回の映画は篠田が公開前から楽しみにしていたものらしく、「この映画でいい?」と聞かれて内容もよく知らずにOKしたものだった。


 恋愛ものの映画だとは聞いていたが、吸血鬼が出てくる作品だとは思っておらず、事前に調べておけばよかったとハルは反省する。

 調べたからといって「その作品はちょっと」と断るつもりもなかったが、事前に知って身構えることができるのとそうでないのとでは、気の持ちようがまったくちがってくる。


──あ、くる。


 映画が開始して約三十分。塩顔イケメンとして人気を博する俳優が、ヒロイン役の女優を抱きしめ、その首元に顔を近づけた。


 映画が始まってから初の吸血シーンが今、始まろうとしている。


「…………」


 映画やドラマの吸血シーンにおいて、ハルたち本物の吸血鬼がどう感じるかは個体差が大きい。


 どんなにリアルなシーンでもフィクションだと割り切って平然と視聴できる吸血鬼もいれば、アニメーションですら欲求を刺激され、見ていられない吸血鬼もいる。


 ハルはといえば、後者に近かった。


 アニメーションは問題ないが、ドラマや映画などのリアルな吸血シーンの場合、長く見続けるのは少々キツいところがある。


「…………」


 大きなスクリーンの中で、俳優が女優の首筋に鋭くなった歯を立てた。

 直後──ぐっとその歯が皮膚を押し込み、やがて突き破る。


 女優の口から小さな声が漏れると同時に、その首筋からつーと一筋血が流れた。


「…………っ」


 鼓動がどんどん速くなっていくのを感じながら、ハルは二人に悟られないようにスクリーンから視線を外す。


 意識を無理やり逸らそうとするが、映画に没入できる最良の環境でそれをするのはかなり難しいものがあった。


──早く終わって……。


 呼吸を落ちつけてそう願うが、ハルの思いとは裏腹になかなか吸血シーンは終わってくれない。それどころかどんどん盛り上がり、濃厚になっていく勢いだった。


 吸血鬼モノの映画にとって一番の見どころである吸血鬼シーンに観客が釘付けになる中で、ハルは懸命に感覚を鈍くする。

 しかしそれももう、辛くなってきてしまった。


「ごめん。ちょっとトイレ行ってくる」


 隣の絵梨へ小声で伝える。平静を装ったつもりだが、隠しきれていなかったのか大丈夫? と絵梨が小声で訊いてきた。


「大丈夫」


 短く応えて、ハルは静かに座席を立った。




 ばたん、とやや乱雑にトイレのドアを閉める。

 目を閉じてドアに背を預け、ハルは深く息を吐いた。上映中だからかトイレ内に自分以外の気配はない。ハルの耳には自分の忙しい鼓動しか聞こえなかった。


 息を大きく吸うと同時にまぶたを上げる。


 あらわになった双眸は、人ではあり得ない濃密な赤を宿していた。


 瞳だけじゃない。犬歯も爪も、まるでコスプレのように長く鋭くなっている。ここに来るまでは気を張って耐えていたが、誰にも見られることのない安全地帯に着いたことで気が抜けてしまった。


「…………」


 ハルは静かにスカートのポケットに手を伸ばすと、中に入っていたものを掴んだ。


 取り出されたのは白い錠剤が二錠入った薬のシート。何も知らない人が見れば、頭痛薬の一回分を携帯用に切り離したように見えるだろう。


 二錠あるうちの一つを手に出し、残った一錠はポケットに戻して、ハルはその錠剤を口に含んだ。すぐに右手に持っていたペットボトルの水で錠剤を流し込む。

 錠剤が喉を落ちていく感覚を覚えながら、ペットボトルを口から離し、息をついた。


 数秒後。


──早速効いてきた、かな。


 何かをする間もなく、薬の効果はすぐ表れた。


 早鐘を打っていた心臓はわかりやすく落ち着きを取り戻し、赤かった瞳はいつの間にか黒に戻っている。その他の変異もすっかり身を潜めていた。


──久しぶりに飲んだな、抑制剤。


 ハルが今飲んだのは吸血欲求を無理やり抑え込む薬だ。即効性が高く、外出する吸血鬼の必需品となっている。


 ただし吸血鬼の本能を抑え込む強い薬のため、あまり多用すると吐き気や頭痛、高熱といった副作用が出る。服用の間隔には十分注意が必要な薬だ。


──あの女優さん、先輩に少し似てたな。


 考え事ができるほどには身体が正常に戻ってきて、ふとハルはそんなことを思った。


 さっきまではそれどころじゃなかったが、よくよく映画を思い返すと、メインヒロインを演じる女優の整った顔立ちやスタイルが、翼と似ているように感じる。


──もし先輩に受け入れてもらえたら、わたしもいつか……。


 あんな風に血を飲めるのかな──そこまで考えたところで、はたと我に返った。


──いま何考えた、わたし。


 冷静になったあとで、自分の思考に驚く。


 今まで「いつか飲んでみたい」と思う事はあっても、具体的な吸血相手まで想像したことはなかった。女優が翼に似ていたといっても、仮に似ていたのが絵里や充希だったとしたら、吸血相手として想像することはなかっただろう。


 以前公園でユウキと話したことが、無意識に想像の吸血相手を翼に結びつけたのかもしれない。


「……忘れなきゃ」


 このまま続きを考えるのは良くない気がして、思考を切り替えるように頭を振る。


「戻ろう」


 じっとしていたら駄目だと思い、脚を動かしてトイレを出る。抑制剤で欲求が抑えられてることもあり、歩くことに集中すれば続きを考えずに済んだ。


 吸血シーンが終わっていることを願いながら、ハルは足早にシアターへと戻っていく。


 しかし一度翼で想像してしまったことが、その夜以降自分を苦しめる羽目になることを、この時のハルはまだ知る由もなかった。

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