第20話 副作用
「ハル……」
顔を赤らめた翼が零すように名前を呼ぶ。
窓から夕焼けが差し込む部屋の中央。正座する翼の膝に乗る格好で、いつもは見上げている美しい顔をハルは見下ろした。その目はすでに人のものではなく、燃えるような夕焼け空よりも深く濃い赤に染まっている。
緊張しているのか、翼の呼吸はやや浅かった。
「…………」
ゆっくり顔を首筋へ近づけると、ほのかなフローラルの香りがハルの鼻腔をくすぐった。いい匂いだな──場違いにもそんなことを思う。
ハルの息が肌に触れるくらいの距離にきて、ピクっと翼の肩が揺れた。
「先輩、力抜いて」
上がったままの肩を見て、ハルは静かにそう口にする。
ふー、と翼が深く息を吐くのが聞こえ、やがて肩が下がっていった。
準備が整い、いよいよハルは口を開ける。吸血鬼の待ち望む瞬間が、もうすぐそこまできている。
「先輩……」
つぶやいて、ハルは鋭く尖った犬歯を翼の柔肌に突き立てた。
「────!」
ぱっと開けた視界が映したのは、翼でも夕焼けでもなかった。
光の落ちたシーリングライトが、今が夜であることを示している。
徐々に脳が覚醒していくのを感じながら、ハルはゆっくり身を起こした。
──今日も、か……。
そう思いながら、おもむろに自分の手を確認する。
「そうだよね」
長く伸びた爪を見ながら、今度は声に出してつぶやいた。
夢の内容に、吸血鬼の本能が刺激されている。
わざわざ目で確認せずとも、疼く身体を思えば変異していることなど自明だった。
「…………」
静かにベッドから降りたハルは、勉強机の中から抑制剤のシートを取り出して部屋を出た。向かった先はキッチンだ。
照明の落ちた暗闇の中、ハルはコップに一杯の水を注ぐ。シートから錠剤を一錠押し出して、コップの水とともにそれを喉の奥へと流し込んだ。
空になったコップを置き、ハルはキッチンの収納にもたれて座り込む。
終業式の日から今日で一週間。一日も欠くことなく、ハルは似たような夢を見続けている。
「……どうしたらいいんだろう」
膝に自分の顔を沈めながら、ひとり静かにそうつぶやいた。
◇ ◆ ◇
「ハル、大丈夫かい」
扉の外から、三津の心配そうな声が聞こえてくる。
「……大丈夫」
ぼんやりと霞がかった頭でそれを聞きながら、ハルはなんとか声を絞り出す。
起床して早々、強烈な吐き気に襲われたハルはかれこれ三十分以上トイレに籠っていた。胃の中のものを出し切ってようやく吐き気は収まってきたが、代わりとでも言うように強烈な頭痛と耳鳴りが襲ってくる。
体温計で測らなくても、尋常じゃないほど熱を持った身体が高熱に侵されていることはすぐにわかった。
発熱の理由に、ハルは大いに心当たりがあった。
──抑制剤の副作用、だろうな……。
このところ毎日服用していたそれを頭の中に思い浮かべる。抑制剤は吸血欲求を即座に抑えることのできる優れモノだが、効果が強いぶん身体への負担も大きい。服用しすぎれば、当然身体に悪影響が出てくる。
最近、抑制剤を飲みすぎている自覚はあった。しかし一日一錠まで、という服用間隔は守っていたので大丈夫だろうと安易に考えていたことを反省する。もともと毎日のように服用する前提で作られているものではない。間隔を守っていても、連続の服用で身体が限界を迎えたのだろう。
副作用を体験するのは今回が初めてだが、二度と抑制剤なんて飲まないと思ってしまうほどには辛い代償だった。楽な体勢でじっと息を整えるが、体調は加速度的に悪くなっていく。
けれど、いつまでも三津をトイレの外に張り付かせているわけにはいかなかった。
「……ばあちゃん、町内会の集まりあるんでしょ。大丈夫だから、行ってきて」
今日は朝から出かける用事があると昨日の夜に三津から聞かされていた。普段であれば体調不良時はきちんと家族を頼るハルだが、ただ風邪を引いたのならいざ知らず、抑制剤の飲みすぎで体調を崩すのは完全に自分の落ち度だ。だから今回は、用事をキャンセルさせてまで三津に自分の看病をさせる気にはなれなかった。
「ハルの体調が酷いなら今回は不参加にするけど……本当に大丈夫かい」
「うん。大丈夫」
三津の確認に、なるべく元気な声を出してそう答える。
「わかった。ただ本当にしんどかったらちゃんと電話するんだよ。町内会の集まりなんかより、孫の身体の方がよっぽど大事なんだから」
「……うん。ありがとう」
「じゃあ行ってくるからね」
ドアの向こうから三津の気配が離れていき、しばらくして玄関扉の開閉音が聞こえた。これでもうこの家に看病してくれる人はいない。三津が帰ってくる夕方まで、一人でこの体調と戦わなければいけない。
「横になろう……」
力なく立ち上がり、ハルはトイレの外に出る。
自室に戻る前に飲み物を持っていこうとリビングに行くと、冷えピタ、ポカリスエット、ゼリー飲料がテーブルの上に綺麗に置かれていた。三津が用意してくれたのだろう。その気遣いに感謝しながら、それらを持ってまたふらふらと歩き出す。
自室に入るなり、倒れるようにハルはベッドに身を投げた。もう歩くのも限界だった。
「……きもち」
持ってきた冷えピタを自分の額に張り付けてつぶやく。ガンガンと脳を直接殴られているかのような強烈な頭痛が、わずかに和らいだような気がした。
「琥珀……きてくれたの」
ぴょん、とベッドに上がってきた琥珀が、心配してくれているのかハルに近づくなり頬をぺろぺろと舐め出した。
「汗汚いよ……大丈夫だから、一緒にいてくれる……?」
頭を撫でてやりながら言うと、琥珀はそろそろとハルの身体にぴったりくっつく形で身体を丸めた。身体のしんどさは相変わらずだが、琥珀が一緒にいてくれるだけで気持ちが少し楽になる。
強い頭痛になかなか寝付けずにいたが、起きている体力もなく、気づけば気絶するように意識を手放していた。
◇ ◆ ◇
何度も身体の不調に目を覚ましながら、短時間の睡眠を繰り返すこと数時間。
ただでさえ浅い眠りがインターホンの鳴る音に遮られ、ハルはゆっくり
置時計が示すのは十四時すぎ。三津が帰ってくるにはまだ早いし、そもそも鍵を持つ三津がインターホンを押すことはない。
──宅配とか、かな……。
高熱で霞んだ意識でぼんやりとそんなことを思う。けれど荷物を受け取りに行く元気はまだなかった。
──ごめんなさい。
申し訳ない気持ちを抱きつつ、このまま居留守を使うことを決めて再び目を閉じる。しかし、ほどなくして二度目のインターホンが鳴った。反応せずにいたら三度目が鳴り、四度、五度と繰り返される。
出てくるまで鳴らし続けるという強い意思を感じて、流石にハルは身を起こした。これでは睡眠どころではない。体力を振り絞って対応したほうがまだマシだった。
緩慢な動きで立ち上がり、冷えピタもそのままに満身創痍の身体で自室を出る。寝巻きのTシャツが汗で湿っていて気持ち悪い。あとで着替えようと思いながら、ハルはゆっくり階段を下りた。
部屋から玄関までがこんなに遠いと感じたのは初めてだ。
「……すみません。遅くなりました」
そう言って、ハルは玄関の扉を開けた。
「ハル……!」
「……え?」
しかし外にいた人物は、荷物を抱えた配達員ではなかった。
毎日夢で見ていた顔が、焦りと安心がない交ぜになった表情を浮かべている。
ここまで走ってきたのだろうか、額には汗が少し滲んでいた。手にはスーパーの袋を提げている。
直接話すのは三週間ぶりだった。
「なんで、先輩がここ、に……」
しかし、そこまで口にしたところで限界を迎えた。
ぎりぎりのところで保っていたものが、翼の顔を見て呆気なく決壊してしまった。
踏ん張り切れず、身体が翼のほうへ傾いていく。
「ハル⁉」
薄れゆく景色の中で、翼が自分の名前を呼んだのがかすかにわかった。
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