第21話 お姫様抱っこ


「あ、起きました?」


 目が覚めたのは、翼がちょうど部屋に入ってきたタイミングだった。


「大丈夫ですか? ハル、玄関先でいきなり倒れたんですよ」


 翼はベッド脇までやってくると、身をかがめてハルの顔色を伺うように覗き込む。

 三週間ぶりの対面がこんなことになるなんて、お互いまったく想像もしてなかっただろう。

 

「なんでここに、先輩が……?」

「あーあー起きなくていいですから。そのまま横になっててください」


 身を起こそうとしたハルの肩を、翼が優しく押し返す。

 ぽす、と柔らかい感触が背中に戻った。


「なんでここにいるのか、ですよね」


 んー、と何故か翼は言い淀んだあと「見せた方が早いですね」とおもむろにポケットからスマホを取り出した。


「その、ユウキに送るつもりだったメッセージだと思うんですが」


 見せられた画面には、十二時頃にハルから翼宛に送られたメッセージが並んでいた。


「……え」


 意味がわからないまま、ハルはメッセージに目を通す。


『お姉ちゃん』『おねえちゃん、しんどい』『ねつ出て』『あたま痛い 』『ごめんやっぱなんでもない』『わすれて』


 連投されたメッセージは、まるで小学生が書いたかのようなつたない単語の羅列だった。嘘だと思い送り主を見るが、間違いなく自分から送られているものだ。


「記憶にない……」

「寝ぼけていたか具合悪すぎて記憶が飛んでるか、はたまたその両方か、ですかね……」

「……両方な気がします」


 弱った時の自分の行動に驚きつつ、そう返す。


「……ごめんなさい。わざわざ来てもらって」

「大丈夫ですよ。午後は予定もありませんでしたから」


 言葉を強調するように、翼は謝るハルの手に自分の手を重ねる。手の甲がひんやり冷たい感覚に包まれた。


「先輩の手、冷たいね」


 敬語も忘れて思ったままを口にする。


「よく言われます。冬はもっと酷いですよ」


 末端冷え性というやつです、と翼が続けた。ああだから──そう思いながら、ハルは翼の手を自分の顔の横に持っていく。


 そしてそれを、右頬にぴとりとくっつけた。


「冷たい。気持ちいい」


 張りたての冷えピタみたいに冷たい翼の手が、発火したように熱い肌に心地良い。

 翼は穏やかな笑みを浮かべて、されるがままに手を貸していた。


「……あぁ、そうだ」


 しばらくして、思い出したようにハルは口を開く。


「汗酷いから、服着替えないと」


 ハルは視線を下げ、自分の寝巻きのえりに触れた。汗ばんだ肌に服が張り付いているのが気持ち悪くて、体調の悪さに拍車をかけている。


「手伝いましょうか」


 翼の問いに、ハルはふるふると首を横に振った。

 肌を見られることは別に構わないが、着替えを手伝ってもらうのは小さい子供みたいで少し恥ずかしい。


「わかりました。じゃあ部屋の外で待ってますね」


 言いながら翼が立ち上がる。中にいたたままでいいと言おうとして、ハルは直前でやめた。

 他人の着替えなんてあまり見たいものでもないだろう。


 翼が部屋から出ていくのを見届けたあと、ハルも気怠けだるい身体に鞭を打ってベッドから出た。ふらふらと不安定に揺れながら衣類の入ったタンスまで歩き、中から新しい寝巻きとタオルを手に取る。


 それらを一旦勉強机の上に置いて、ハルは今着ている服を脱ぎ始めた。熱に侵されているせいで、やることすべてがいつもより時間がかかる。


 服を脱ぎ終えたハルは、タオルで可能な限り身体の汗を拭いてから机の上の寝巻きを手に取った。猫のイラストがプリントされたオーバーサイズのTシャツだ。頭から被るとショーツがぎりぎり隠れるような恰好になる。とはいえ下がショーツ一枚はさすがに心もとないので、ハルは机に残った紺のハーフパンツを手に取り、まずは右脚に通そうと脚を上げた。


「……っ!」


 その瞬間、一際強い痛みがハルの頭を襲った。


──あ。


 片脚ではバランスを保てず、ぐらりと身体が後ろへ傾いていく。

 そのまま大きな音を立てて、床に臀部でんぶを強打した。

 

「ハル!?」


 音を聞きつけた翼が慌てて部屋のドアを開ける。

 痛みに声が出せずにいるハルの元へ寄ると、翼は支えるように背中へと右腕を回した。


「大丈夫ですか?」

「……すみません」


 こめかみに手を当てて謝るハル。


「一瞬頭ズキってなって、バランス崩しちゃって」

「どこか怪我は」

「大丈夫、だと思います」

「よかった……」


 ハルの返答に、翼が安心したように息を吐く。

 頭痛はまだ続いていたが、あの強い痛みは一過性のものだったようだ。ぶつけた所も、打撲以上の痛みはない。


「じゃあベッドに戻りましょうか」


 翼はそう言うと、ハルが返事をする前に「ちょっと触りますね」と続けた。


「え」


 膝裏に腕を通され、思わず声が出るハル。

 翼は続けて背中に回していた右腕の位置を少し調整すると、そのままひょい、とハルの身体を抱き上げた。

 いわゆるお姫様抱っこというやつだ。


「????」


 ハルが状況に困惑している間にも、すたすたと危なげなく歩く翼。

 吸血鬼である自分がする可能性はあれ、まさかされる側になる日がくるなんて思っていなかったハルは、なんとも言えない不思議な感情になった。


「先輩、力持ち……ですね」

「ハルが軽すぎるんです」


 もう10キロ太ってもいいと、ハルをベッドに降ろしながら翼は言った。

 

「もしかして玄関からここまで運んだのも……」

「ええ、今と同じように」

「本当にごめんなさい」


 先程よりも力の籠った謝罪が出る。いくら体重が軽いほうとはいえ、意識のない人間を女性一人で二階へ運ぶのは相当キツイはずだ。


 けれど翼は、


「今日はもう謝るの禁止」


 そう言って、琥珀にめっ、と叱るときのように、指を揃えた左手をそっとハルの頭に置いた。


「体調悪い時くらい、自分のことだけ考えてください」


 夏用の薄いタオルケットをハルの身体に掛けてやりながら、翼は言う。


「…………」


 優しさをこれでもかと浴びせられて、ハルは不覚にも泣きそうになった。

 その顔を見られたくなくて、掛けてもらったタオルケットを頭の先まで被る。


「なんでそんな優しいんですか……」


 そして布越しに、ボソボソとそう口にした。

 ふふ、と翼は可笑しそうに笑う。


「誰にでもやる訳じゃないですよ。ハルだからです」

「……絶対嘘」


 心の底から出た言葉だった。


「先輩は誰にでも優しいから」

「ハルがそれ言います?」


 翼のいつも以上に柔らかい声が、悲鳴をあげている身体に染み渡る。

 心の中で、ハルは改めて感謝した。


「ね、ハル」


 ベッドの端が僅かに軋む。翼が両肘をついたのだろう。薄い布越しに翼の気配を感じた。


「他になにかして欲しいことはありませんか。私にできることなら、何でもしますよ」

「して欲しいこと……」


 相変わらずタオルケットは頭まで被ったまま、ハルは小さく反芻する。

 ぽやぽやの頭を働かせると、自然と昔の記憶が浮かんできた。

 こういう時、ユウキがよく一緒に寝てくれたことを思い出す。


「じゃあ──」


 ぴら、とハルはタオルケットを持ち上げた。

 自分の横に人一人分のスペースを開けて。


「一緒に寝てくれませんか」

「えっ」


 二人を隔てるものがなくなって、翼の顔が視界に映る。

 翼は驚きと戸惑いと困惑が混じったような、そんな表情を浮かべていた。


──あ。


 やってしまった──翼のその顔を見て思った。

 いくら仲が良くても、高熱を出している人間と同じ布団に入るなんて普通は嫌だろう。

 風邪が移るかもしれないことを承知した上でしてくれていたユウキの方が、むしろ稀有だというのに。


「すみません」


 反射的に口から謝罪が飛び出した。


「こういう時、お姉ちゃんに一緒に寝てもらってたから、その感覚で……」


 段々と尻すぼみになっていく声。恥ずかしさと熱で顔が火傷しそうだった。


「忘れてください」

「あっ……」


 再びタオルケットを被り、ハルは壁側に向かって寝返りを打つ。穴があったら入りたいとは、きっと今のような気持ちを言うのだろうと思った。


「……ハル」


 数秒もしないうちに、背中越しに名前を呼ばれた。翼の手が肩の辺りにそっと置かれたのがわかる。


「……その、ちょっとびっくりしただけで、決して嫌だった訳じゃないですから」


 翼の顔は見えない。声だけでは、翼の言葉が本音なのか気遣いなのか分からなかった。


「…………」


 短い沈黙が部屋に落ちる。

 黙って真っ白い壁を見つめていると、すぐ後ろでベッドがぎしっと音を立てて沈んだ。


「え」


 首だけ振り返れば、ベッドに上がってくる翼の姿が目の前にあった。

 翼はタオルケットの中に自分の身体を滑り込ませると、ハルの背にくっつくようにしてベッドに横になる。


「……ちょっと恥ずかしいですね、これ」


 大胆な行動と裏腹に、翼は照れるように言った。


「あの、無理しなくても……」

「無理じゃないです」


 ハルの言葉に翼は即答した。


「さっきは本当に、驚いて何を言えばいいかわからなかっただけで……」

「でも」

「もう、そんなに信じられませんか」


 翼は少し口を尖らせて、ハルのお腹のほうへ腕を回した。


「……!」


 へその辺りまで伸ばされた手に、きゅっ、と力が込められる。

 腕も脚も上半身も至る所が触れていて、まるでバックハグのような格好になった。


「風邪、移っちゃいますよ」


 壁のほうを向いたまま、背後の翼に言う。

 ふふ、と翼は上品に笑った。


「そのときはハルが看病してくれますか?」

「……断れないやつだ」

「断るつもりないでしょう?」

「自信満々ですね」


 ノータイムで言い切る翼がおかしくて、 ハルも冗談交じりにそう言った。


「私、ハルとけっこう仲良いつもりですから」

「でも先輩、友達多いからなぁ」

「あ、また信じてないですね?」


 顔を合わせないまま、声だけで会話を交わしていく。

 さっきまでの気まずい空気はいつの間にか消えていた。


「……先輩、心臓めっちゃバクバクしてる」

「んぇ?!」


 何気なく口にした言葉が、翼の身体をびくっと揺らした。

 背中越しに伝わる翼の鼓動は、運動をしたあとのようにドクドクと激しく鳴っている。


「緊張してるんだ」


 ふにゃふにゃ声でハルが言うと、うぅ、と翼が声を漏らした。


「ハルは緊張してないんですか」

「してないです」

「ほんとに?」


 背中側にいる翼は、ハルと同じように鼓動を確認することは出来ない。


「ほんとです」


 だからハルは、お腹に回された翼の手を取った。


「ほら」


 そしてそれを、自分の左胸に誘導する。

 翼に自分の鼓動を確かめさせるように。


「?!」


 ふに、と柔らかい感触が手のひらを埋めて、翼は声にならない声を出した。

 細身の体に相応の控えめな、けれどたしかに膨らみを感じる左手に、とても悪いことをしてる気分になる。


「ハル、その、下着は……」


 鼓動なんかよりそちらの方が気になって、翼は思わずそう口にした。

 Tシャツの下に身につけているはずの下着の感触がない。着替えの時に寝苦しいからと外したのだろうか。

 薄いTシャツ一枚を挟んで、翼はハルの、安易に触れてはいけない所に触れていた。

 

「……ハル?」


 本人の誘導とはいえ、いつまでも触っているわけにはいかない。 そう思いながら、翼はもう一度ハルに声をかけた。


「…………」


 しかし、しばらく待ってもハルからの返事はなかった。

 少し苦しげな浅い呼吸に合わせて、胸が上下に動いている。


──まさか。


 翼は左腕を極力動かさないよう注意しながら、そっと身を起こしてハルの様子を伺った。


「…………」


 目に映ったハルのまぶたは、しっかりその瞳に蓋をしていて。

 翼の左手をまるで宝物みたいに胸に抱いたまま、ハルはすっかり眠ってしまっていた。

 

「……これは、ズルいなぁ」


 右手でハルの前髪を梳きながら、翼は静かにそう呟いた。

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