第17話 帰国

「お父さんが帰ってくる?」


 翼の唐突な報告に、ハルはハンバーグを頬張ろうとしていた手を止めた。

 隣ではい、と翼が頷く。


「今朝連絡が来まして。明日の夜帰ってくるそうです」


 つい昨日、まだ一つの連絡もないと聞いていたハルは静かに驚いた。


「ずいぶん急ですね」

「小説以外に関してはテキトーな人なので……」


 呆れたように翼が笑う。翼が父親の話をするときは必ずと言っていいほど同じセリフが出てくるので、彼女の父が相当な仕事人間であることがわかる。


「ですので、明日からは自宅での食事に戻りたいと思います」


 姿勢を正し、改まった表情で翼が言った。


「約一か月の間、お二人には大変お世話になりました。本当にありがとうございました」


 深く頭を下げる翼に、普段は翼とハルの会話を静かに聞いている三津が珍しく口を開く。


「新しいお手伝いさんは決まったのかい」

「はい。さっそく明日から来られるそうです」

「それなら安心だ」


 目を細め、ゆっくり頷く三津。もはや三人目の孫と言っても過言でないくらい、三津は翼のことを気に入っていた。


「せっかくここで料理を練習させていただいたので、家でも練習は続けたいと思います」

「先輩が料理までできるようになったら、本当に完璧人間になっちゃいますね」


 勉強運動のみならず、美術も音楽も人並み以上にできるのが日鷹翼だ。なぜそこまで器用なのに料理だけできないのかが不思議なくらいだった。


「ハルは本当に、人の自己肯定感を上げるのが上手いですよね」


 始めの頃はハルの直球ストレートな誉め言葉に毎度照れていた翼も、最近ようやく慣れてきたのか冷静に言葉を返せるようになっていた。


「? わたしは思ったことを言っただけですけど」

「そういうところも含めて、です」


 首を傾げるハルを見れば、その言葉が嘘でないことがわかる。打算の末に出た言葉ではなく、本当に思ったことをただ口に出しているだけだと、翼は少なくともそう感じている。


「わ、琥珀っ、くすぐったいですよ」


 何かを察したのか、琥珀が翼の脚に身体を摺り寄せてきた。何度も何度もそのふわふわの毛を翼の素肌に押し付ける琥珀の背を翼が優しく撫でる。


「たまには琥珀のこと、触りにきてあげてください」


 ハルが言うと、翼は顔を上げて微笑んだ。


「喜んで」



◇ ◆ ◇



 学校帰り。いつもはそのままハルと一緒に望月家へ向かうところを、約一ヶ月ぶりに翼は自宅へ直帰した。


 周囲に豪邸だと持てはやされるくらいには広く大きな一軒家だが、一人で過ごすのにこの面積は過剰で、望月家と比べるとどことなく空気の冷たさを感じる。

 リビングの壁掛け時計を確認すると、父──慎吾が知らせてきた帰宅時間まで残り十五分ほどだった。意外と時間がないと自室に向かい、制服から部屋着のワンピースへ着替える。


 リビングに戻ってソファに腰掛け、慎吾が帰ってくるまで時間を潰そうとスマホを持った。

 写真アプリを開いてここ一ヶ月の写真や動画を見る。ほとんどが琥珀のもので、料理の写真や水族館に行った時の写真がぽつぽつとその中に混じっている。


 無意識のうちに口を緩ませていると、がちゃりと玄関の戸が開く音がした。

 足早に玄関へ向かうと、無地の白Tシャツにジーパンというシンプルな服装の慎吾が靴を脱いでいるところだった。


「お父さん、おかえ──」


 翼の言葉が途切れたのは、慎吾の後ろに別の人物がいることに気づいたからだ。 


 ピンと伸びた背筋に身体の前で礼儀正しく合わせられた両手、派手さのないシンプルな眼鏡とロングの黒髪は学級委員長を彷彿とさせる。年齢は翼と同い年くらいに見えた。


「お父さん、そちらの方は?」


 なんとなく予想はついていたが、一応訊いてみる。


「言っておいただろう。今日からうちの家事全般をやってくれる三上みかみさんだ」


 慎吾は表情一つ変えずにそう言った。予想は当たりで、彼女が新しいお手伝いさんのようだ。


「一緒に帰ってくるなんて聞いてなかったです」

「それはすまなかったな」

 

 翼はとがめる視線を送るが、慎吾はまったく悪びれる様子もない。今日から来ることは知っていたが、まさか空港から帰ってくる慎吾とともにやってくるとは思っていなかった。どこで合流したのかわからないが、仮にも日本を代表する作家が女子高校生ほどの女の子と一緒にいるのは不用心すぎないだろうか──そう思う翼だったが、三上のいる前でそれを言うのもはばかられて、一旦胸の中に留める。


「あの、三上しずくです。今日からよろしくお願いします」


 空気の悪さを察してか、二人の間を取り持つように三上が口を開いた。


「こちらこそよろしくお願いします」


 翼は気持ちを切り替え、慎吾から三上へ向き直ると軽く頭を下げる。


──てっきり、もっと年上の方が来ると思っていましたが……。


 前任者が初老の女性だったこともあり、勝手に同じような人物をイメージしていた翼は内心驚いていた。慎吾から聞いていたのは今日から新しいお手伝いさんが来るということだけで、年齢性別その他の情報は一つももらっていない。


「三上さん、早速だが今日の夕食を頼む。キッチンはこっちだ」

「は、はいっ」


 すたすたと歩いていく慎吾のあとを慌てて三上が追う。その背中を見つめながら、翼は小さく息を吐いた。




『新しいお手伝いさん、どうでしたか』


 電気を消した自室のベッドでスマホを開くと、ハルからメッセージが来ていた。

 翼が聞いてほしかったことを正確に突いてくる内容に少し嬉しくなる。


『それがちょっとびっくりで……新しい方、同い年の女子高校生でした』


 あのあと三上と軽く自己紹介をし、判明したことがいくつかある。

 同い年であること、父親が編集者であり、そのツテで日鷹家の家事手伝いを紹介してもらったこと、高校はハルと翼の通う三澄高校の隣の学校で、学校行事や部活動でもよく交流のあるところ、などだ。


 既読の文字はすぐに付いた。


『そうなんですか。主婦くらいの方を想像してました』

『私もです。でも料理の手際はとても良くて、味も美味しかったです』


 さっそく三上の作った料理を夕飯に食べたが、一汁三菜揃ったバランスの良い食事で見た目も味も申し分なかった。


『これで先輩の食事面の心配はなくなりますね』

『本当に。一ヶ月カップ麵やレトルトだけだったらどうなってたことか……』

『細身の体がさらに痩せちゃってたかもですね』


 二人ともメッセージで顔文字やスタンプを滅多に使わないタイプなので、画面には女子高生らしからぬ文字だけのメッセージが連なっている。

 そんななか、しゅぽ、とハルから写真が一枚送られてきた。


『琥珀がねてます。先輩が来なくて』


 そんな文言とともに送られてきたのは、琥珀の身体に手を伸ばすハルからぷいっと顔を背ける琥珀だった。


「か、かわいい……!」


 思わず口に出た言葉をそのまま文字として送る翼。


『ばあちゃんがいつの間にか写真撮ってたみたいです』

『三津さんナイスショットすぎます……!』

『今度ばあちゃんに直接言ってあげてください』

『まだ一日しか経ってないのに、この写真見たらもう琥珀のこと触りたくなっちゃいました』

『琥珀が忘れちゃう前に来てくださいね』

『それはもう、絶対に!』


 父や新しいお手伝いさんのことを忘れ、翼はしばらくハルとのやりとりを楽しんだ。今までハルとは顔を合わせて話していてメッセージを送り合う必要性があまりなかったため、夜中の就寝前にこんな風に話をするのは初めてだった。


『眠くなってきた、そろそろ寝ます』


 話題がひと段落したところで、ハルからそう送られてくる。時刻は二十三時を過ぎたところで、翼もそろそろ寝ようと思っていたところだった。


『私も寝ます。おやすみなさい』

『おやすみなさい』


 すぐにハルからもメッセージが返ってくる。既読をつけたあと、翼はスマホを枕元に置いた。


──この一ヶ月は、本当にあっという間でしたね。


 カーテンの外に広がる夜空を見上げながら、静かに物思いにふける。空に浮かぶ満月がとても綺麗だった。

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