第16話 今はまだ
結果は一勝一敗の引き分けだった。
「あー楽しかった」
公園の北側。盛り土で人工的に作られた小さな丘の、芝生の広がる緩やかな斜面。鬼ごっこを終えた二人は、そこにどさっと大の字に寝転がっていた。
視界いっぱいに広がる夜空。光源が近くにないため、ここでは星がよく見える。
全力で体を動かしたあと、最後にここで一休みして帰るのがいつもの流れだ。
互いの息遣いが聞こえるほどの静寂があたりを包む。ぬるい風が吹いて、木の葉の擦れる音がやけに大きく聞こえた。
しばらくして、沈黙を破ったのはユウキだった。
「ところでさ」
空からハルへと視線を移して、ユウキは言う。
「翼に言った? 自分は吸血鬼だって」
唐突なその問いに、ハルは目を
「言ってない、けど」
「やっぱそうだよねー」
わかっていたようにユウキは頷く。
「十年前のこと、まだ気にしてるの?」
なんてことのない、雑談のような口調だった。
十年前──詳しく説明されずとも、その単語だけでユウキがなんのことを指しているのかわかる。
今もたまに夢に見る、記憶に焼き付いて離れない幼いころの失敗。
何も言わないハルを見て、ユウキは続けた。
「あれ、ハルが五歳のときでしょ? そんなちっちゃいときに人の血を間近で見たら、ハルじゃなくても抑えるのは無理だよ」
ハルが幼児のとき、転んだ友人を危うく襲いかけたことを、姉であるユウキは当然知っていた。
そして吸血鬼にとって吸血欲求がどれほどのものなのかも、当事者であるユウキはもちろんわかっている。
「大人だって目の前で血見たらけっこうキツイんだから」
「……でも、トラウマになってもおかしくないくらい怖がらせたのは事実だから」
大人ならまだしも、五歳の女児に吸血鬼の変異した姿は相当怖かっただろうと、あの時の彼女の顔を思い出しながらハルは思う。
「トラウマになったのはハルもでしょ」
表情を変えず、ハルの瞳を真っすぐに見つめるユウキ。
「…………」
すべてを見通すような姉の目に、
『こないで!』
泣きながら叫ぶかつての友達の姿が脳裏に
自分に向けられる、まるで怪物でも見るかのように怯えた目が鮮明に浮かんだ。
「どんなに仲いい友達ができても吸血鬼であることをカミングアウトしてこなかったのは、昔みたいに拒絶されるのが怖いから。ちがう?」
ちがう? と聞いておきながら、ユウキの目はハルの答えをわかっているようだった。
人間社会で生きる吸血鬼は、信頼の置けるごく少数の人間に自身の正体を明かすことが少なくない。
いざ何かが起きたときに、頼れる相手や自分の事情を理解してくれる人間がいるだけで日常生活における生きやすさとストレスがグッと減るからだ。
親友や恋人といった関係の人間にカミングアウトする吸血鬼が多く、そこから吸血相手に発展することも珍しくない。
だがハルはこれまで一度も自身の正体を人間に明かしたことがなかった。
理由はユウキの言った通りだ。
「お姉ちゃんには隠し事できないね」
「お姉ちゃんだからね」
「普段は全然姉っぽくないけど」
「なんだとう」
くしゃ、とユウキがハルの頭に触れる。自由人で
「普段こういう話しないのに、今日はどうしたの」
ユウキの意図がわからず、ハルは自分の頭を撫でる姉を見た。姉妹仲は良い方だが、これまで吸血に関してユウキと深く話はしたことはない。
「んー? なんでだと思う?」
「わからないから聞いてる」
「それもそっか」
もったいぶるつもりないようで、ユウキは
「そんなに怖がらなくても、翼なら受け入れてくれるんじゃないかって思ったから」
急に翼の名前が出てきて、ハルはすぐに言葉を返せなかった。
「……なんでそう思ったの」
数秒の間のあと、そう口にする。
翼とユウキは今日が初対面だ。何を根拠にユウキがそう言うのかハルにはわからなかった。
「え、直感」
しかし返ってきた答えは、根拠からもっともかけ離れたものだった。
「…………」
「いや待ってハルの気持ちもわかる。今日ちょっと喋っただけのくせに何言ってんのって言いたいんでしょ」
妹の冷ややかな目に、ユウキが「でもね」と弁明を始める。
「人間関係を構築する上で直感ってめちゃくちゃ大事だと思うのよ。芸能界でもさ、『この人いい人そう』『この人なんか腹黒そう』みたいな感覚、私は結構大事にしてるし、これが意外と当たるのさ。それで言うと翼は、私の感覚的に『めちゃくちゃ良い人そう』なわけ」
ユウキの意見を聞いて、それはたしかに一理あるとハルは思った。相手がどんなに大物芸能人だろうとぐいぐい絡んでいくユウキは一見考えなしにも見えるが、実は昔から、人との距離感を掴むのが上手い彼女だ。同時に人を見る目もたしかだとハルは思っている。
「仮にそれを抜きにしてもさ、ばあちゃんと琥珀があんだけ翼のこと気に入ってるんだもん。もう答え出てるようなもんじゃない?」
流石に直感の一言では理由として弱いと感じたのか、ユウキがそう付け加える。
「…………」
ここまではっきりユウキが言うのなら、きっとその言い分は間違っていないのだと思う。
──でも。
翼なら受け入れてくれるかも、とハル自身思わなかったわけじゃない。
驚くことこそすれ、きっと拒絶されることはないだろうという淡い期待がないわけでもない。
頭ではわかっている。
それでも。
「……わざわざ伝えなくても、今のままで苦労してないよ」
少し考えて、結局いつもと同じ結論を出す。
どれだけポジティブに考えても、最後には過去の記憶がカミングアウトの選択肢を消してしまう。拒絶されて、会話もしなくなって、友達ですらなくなってしまった過去を繰り返すことが怖かった。
ハルの答えに、ユウキは穏やかな声音で言う。
「今はそうだろうね。でもさ、付き合いが長く深くなっていくほど自分を
私がそうだった、とおもむろに身を起こしてユウキは続ける。
「マネージャーに打ち明けてからは格段に過ごしやすくなったよ。トラブルが毎日起こるわけじゃないけど、とにかく気苦労が減った。何かあってもフォローしてくれる人がいるからね。だからハルにも、一人でいいからそういう人を作って欲しいなって」
「……それは」
身を起こしながら口を開くが、続く言葉が出てこない。
ユウキが言っていることは正しくて、それも自分を心配しての言葉だとわかるから余計に言い淀んでしまう。
「もちろん無理にとは言わないよ。ハルがどうしても言いたくなければ、私も翼に気づかれないようにできる限り協力するし。ただ……」
「ただ?」
眉を寄せ、真剣な表情を浮かべるユウキにハルは何を言われるのかと身構えた。
「それだと一生、誰からも吸血できないけど大丈夫?」
「…………」
まったく予想外の発言に、ハルは目を
はぁ、と息を吐き、目の前の姉を呆れた顔で見た。
「……身構えて損した」
「いやいや大事なことでしょ」
「抑制剤があればどうとでもなるし」
淡々とそう言い返すハル。
抑制剤は読んで字のごとく、刺激された吸血欲求を無理やり抑え込むための錠剤だ。
吸血鬼が自力で変異を抑えることが難しい状態になったときなどに服用するもので、ハルも過去に数度服用したことがある。
「はいはい抑制剤ね〜」
言うと思ったとでも言いたげな顔でユウキは続ける。
「たしかに抑制剤があれば一生吸血しなくたって問題ないよ? そういう生き方をしてる吸血鬼だってけっこういるだろうし」
でもね、とユウキは一層真剣な表情で、独り言を呟くように静かに言った。
「血が舌に触れた瞬間にさ、本気で思っちゃうんだよ──私たち吸血鬼は、これを飲むために生まれてきたんだって」
冗談を一切感じさせないユウキの声に、ハルは思わずごく、と息を
「……そんなに?」
「そんなに」
ハルの心情を目ざとく察したユウキが口角を上げた。
「カミングアウトが怖いっていっても、吸血鬼である以上ハルも一度は人の血、飲んでみたいでしょ?」
「言い方がちょっとやだけど……それは、まぁ」
人の血は吸血鬼が口にするものの中で最も美味なものである──それは吸血鬼たちの共通認識だ。ハルの中に血を飲んでみたい欲がまったくないといえば、それは嘘になる。
「でも」
それを認めた上で、ハルの結論は変わらなかった。
「やっぱりまだ、怖い」
「ん、わかった」
「え?」
あっさりと自分の答えを受け止めたユウキに、ハルは目を丸くする。
「私も翼に気づかれないように動くよ」
「いいの?」
「当たり前じゃん」
ユウキは即答した。
「アドバイスはするけど、ハルのことを決めるのはハルだもん。押し付けたりはしないよ」
自身が縛りを嫌う、自由人のユウキらしい言葉だった。
「ありがとう」
「いーえ。とはいえ私はこの休みが終わったら東京戻るし、翼ともしばらくは会わないだろうけど」
「それもそうだね」
たまたま連休ができて今回帰ってきたユウキだが、Irisの活動が忙しい今、そう何度もこういう機会はないだろう。次に翼とユウキが直接会うことができるのは数か月先かもしれない。
「それより問題はハルだよ」
「え」
どういう意味? と首を傾げるハルに、声を大にしてユウキが言う。
「だってハル嘘下手くそじゃん! びっくりするくらい下手じゃん!」
「別にそんなことないと思うけど」
「あるから! たぶん今日本に住んでる高校一年生の中でハルが一番嘘下手くそだから!」
「……そんなに?」
「うんそんなに!」
「とにかく‼ 今まではなんとかなったかもだけど、毎日家で過ごしてたら勘づかれる可能性も高いからね。気をつけないと!」
「……わかった」
有無を言わせぬユウキの圧に、素直に頷くハル。昔まったく同じような構図で父が母に注意を受けていたことを、ハルはおぼろげに思い出した。
「わかったならよし」
満足げに言ったあと、一呼吸おいて「……さて」とユウキが立ち上がった。
「明るくなる前にここ出なきゃだし、そろそろ帰ろうか」
んーと腕を上げて伸びをするユウキの横で、ハルもゆっくり立ち上がる。
──この話をするために誘ってくれたんだろうな。
姉の横顔をちらと見ながら、心の中でそうつぶやく。
姉っぽくないところのほうが目立つが、なんだかんだで面倒見がいいユウキはまちがいなく良いお姉ちゃんと言えるだろう。
ありがとうと言ったら「なんのこと?」ととぼける未来が見えるので、ここは黙って姉の優しさに甘えることにした。
互いの背中を軽く払って芝を落としてから、二人はお茶とスマホを置いた屋根付きのベンチに向かって歩き出す。
「なんか無性にコーラ飲みたい!」
公園を出る間際にユウキが言った。
時刻はもうすぐ四時を回るところだ。
「わたしも炭酸飲みたい」
「帰り自販機で買うか~」
そんなことを言いながら、行きよりゆったりとした歩調で公園を出る。
少し公園から離れれば、まだ眠りから覚めない住宅街の静けさが二人を迎えた。
「あ、猫」
帰路の途中、電柱のそばで自分の顔を洗う三毛猫を見つけた。どこかで餌をもらっているのか、しっかりした体に綺麗な毛並みを持っている。
ひと撫でしたいと、ハルはそっと近寄り三毛猫に手を伸ばした。
「琥珀に嫌がられるぞー」
「……う」
しかし姉の言葉にすんでのところで手を引っ込める。ペットは飼い主の浮気に敏感だ。じとーっと自分を見つめる琥珀の顔が頭に浮かんで、ハルはそっと立ち上がった。
「早く帰って琥珀触る」
「うんうんそうしな」
「にやにや気持ち悪いよ」
「わあ辛辣ぅ」
妹の可愛い言動ににやついていたユウキへ淡々と言い放つハル。オブラートを知らない妹の言葉にユウキが思わず笑う。
「あ、あったよ自販機」
数分後、
「どれにする?」
「んーこれ」
「OK。私はコーラにしよーっと」
ハルは炭酸のオレンジ、ユウキはコーラを選ぶ。スマホをかざし、電子マネーのポップな支払い音が鳴ったあとで、がこっとペットボトルが落ちてきた。
取り出したペットボトルをそれぞれに持って、同時にぷしゅ、とキャップを緩める。
「「かんぱーい」」
どちらからともなくそう言って、ペットボトル同士を優しく当てる。腰に手を当て、二人まったく同じ格好で喉に炭酸を流し込んだ。
爽快なしゅわしゅわ感が一気に喉を突き抜ける。
「あー運動後の炭酸うまぁ!」
ビールを飲んだあとの社会人のようなテンションでユウキが言う。口には出さなかったが、ハルも同じ気持ちだった。
「また近いうちにやろうね、鬼ごっこ」
「うん」
どんどん活動が忙しくなっていくユウキのことだ。きっと次やれるのはまた数か月後だろうなと思いながらハルは頷く。
「次はわたしが完勝するから」
早く帰ってきてね──喉まででかかったその言葉を子供っぽいなと飲み込んで、代わりに挑戦的な言葉を口にするハルだった。
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