第3話 はじまり

「え、望月さん?」

 

 驚くハルと同様に、彼女はもまた、正面に立つハルを見てその大きな双眸を見開いた。


 彼女は三津と自分の間に傘を差し、もう片方の手に見慣れた三津の買い物バッグを提げている。経緯を察するに、傘がなくて困っていた三津に声をかけ、家まで送ってくれたといったところだろうか。


「なんだ、知り合いかい?」


 翼に礼を言い、バッグを受け取った三津がハルにそれを横流ししながら問う。


「うん。学校の先輩」


 肉やら野菜やらが入ったそれを三津から受け取りつつ、ハルは答えた。


「ばあちゃんも知ってるでしょ。あの日鷹さんちのご令嬢だよ」

「日鷹って……あの大豪邸のうちかい⁉」


 驚く三津にハルは「そうそう」と頷く。翼の家はここから徒歩で移動できるほどには近く、それがかなりの豪邸ともなれば三津が知らないはずもなかった。小中学校はちょうど学区の境目だったので同じところに通ってはいないが、彼女の噂はハルの通う学校にも届いていた。


「学校でもすごい人気者なの」

「えっ」


 やや気まずそうに二人の話を聞いていた翼が、ハルのセリフに肩を揺らす。その隣で三津が「そうかそうか」と首を縦に振った。


「こんな美人なうえに性格も良いんだ。そりゃ人気だろうね」

「うん」

「あ、あの……」


 気恥ずかしさそうな表情を浮かべる翼。そこへハルの後ろに隠れていた琥珀がひょこっと顔を出し、誰? とでもいうかのようにニャーと鳴いた。


「猫……?」


 つぶやきながら、翼は確かめるようにハルの足元を見る。


「‼」


 そして琥珀を視界に映した瞬間、その目をわかりやすくキラキラさせた。

 口元に手を当てて琥珀を凝視する翼。よほど猫が好きなのだろう。幼い子供のように目を輝かせる姿は学校での大人びたイメージを少し変えた。 


「触りますか?」


 ハルは買い物バッグを傍らに置き、琥珀をゆっくり抱き上げた。クリーム色の琥珀の毛はブレザーにつくと目立つので普段は制服姿で抱くことはないが、コロコロでどうとでもなると割り切る。


「え、でも……」

「人に撫でられるの好きな子なので、よければ」


 遠慮する翼にそう言えば、翼はその整った顔を綻ばせた。


「じゃあ、ちょっとだけ」


 翼の手がゆるゆると持ち上がり、そっと琥珀の額へ乗せられた。琥珀が嫌がらないことを確かめると翼はゆっくり撫で始める。


「ふわふわ……」


 感動したように翼がつぶやく。頭、耳、顎、後頭部と夢中で夢中で琥珀を撫でる翼に、三津が横から声をかけた。


「お嬢さん、名前はなんと言ったかね」

「日鷹翼といいます」

「そうだそうだ、翼だったね」


 すぐに撫でる手を止め三津に向き合うあたり、翼の真面目さが見て取れる。


「翼、このあと時間あるかい?」

「え?」

「よかったら上がっていきなさい。琥珀とも沢山遊んでいくといい」


 お礼もしたいからね、と三津は続けた。まだまだ琥珀を撫でたりないだろう。ハルもそれには賛成だった。


「でも……」


 いいんですか? という目で翼が三津を見る。


「ちょうど昨日いいお菓子をもらったんだ。もちろん強制はしないけどね」


 三津の提案に翼は少し逡巡しゅんじゅんした様子を見せたものの、すぐに「では、お言葉に甘えて」と受け入れた。



「………………」


 玄関でのやりとりから数分後。

 リビングのカーペットの上で正座をした翼が、猫じゃらしを手に真剣な表情を浮かべている。

 視線の先には身を低くし、じっと狙いを定める琥珀。


 ゆらゆらと絶妙な動きで翼が猫じゃらしを動かすと、おしりをふりふり揺らした琥珀が勢いよく飛び込んでいった。

 見事猫じゃらしを捕らえてみせた琥珀に「おお……」と感嘆の声を漏らす翼。


 ソファでその様子を眺めていたハルはそろそろいいかな、とそばに用意していたものを手に取った。


「先輩」


 呼びかけ、琥珀から視線を移した翼へそれを見せる。


「ちゅーる、あげてみますか?」

「えっ、いいんですかっ」

「どうぞ」


 ハルがちゅーるを差し出すと、まるで高価なアクセサリーでも渡されたように翼が両手で受け取った。


「わっ」


 すると、ちゅーるの気配を察知した琥珀がちょうだいちょうだい! と興奮した様子で翼の膝に足を乗せた。

 いいですか? と視線で問いかけてくる翼にハルは小さく頷く。


 翼は封を切り、開いた口を琥珀へと向けた。ゆっくり押し出されるペースト状のおやつを琥珀がざらついた舌でちろちろ舐める。それを尊いものを見るようなまなざしで静かに翼が見つめていた。


「本当に猫、好きなんですね」


 はい、と翼が頷く。


「一番好きな動物かもしれないです」


 毎日猫動画三本は見てます、と翼はやや自慢げに言ってみせた。意外とおちゃめな表情もするんだなとハルは心の中で思う。


「琥珀、もう終わりですよ」


 最後の最後まで舐めとろうとする琥珀に微笑みながら、翼がちゅーるのスティックを離す。


「ごみ、もらいます」

「ありがとうございます」


 受け取ったちゅーるのごみをハルが台所へ持っていくと、お盆を持った三津が入れ替わるようにやってきた。


「私らもおやつにしようかの」


 三津が用意したのはクレームブリュレのようなパリッとしたカラメルの下に、ふわりとした厚みのある層が広がるバウムクーヘンだった。元々はホールの形だったのだろう。今は切り分けられたケーキのように扇形になっている。


「わ、おいしそう」


 三つの皿に取り分けられたそれを見て翼が零す。


「甘いのは平気かい」

「大好きです」

「ならよかった」


 四人掛けテーブルに腰掛け、いただきますと手を合わせてからそれぞれフォークに手を伸ばす。ハルはフォークの先端で慎重にカラメルを割り、その下の生地と一緒に一口頬張った。


「ん、おいしい」


 ほろ苦いカラメルとほどよい甘さの生地の絶妙なバランスに舌鼓を打つ。翼ももくもくと口を動かしたあとで相好を崩した。


「今まで食べたバウムクーヘンの中で一番おいしいかもしれません」


 二人の感想に三津が微笑む。


「翼、今日は本当に助かったよ。ありがとう。荷物も傘も持って大変だったろう」

「いえそんな。お役に立てたならよかったです」


 三津の言葉に大したことじゃありませんと翼が謙遜する。


「こんなおいしいものまで頂いてしまって」

「二人で食べるにはちょいと大きかったからね、翼が食べてくれてむしろ助かったよ」

「ありがとうございます」


 言ってから、翼は「それにしても」と隣に座るハルへ目を向けた。


「まさか望月さんのご家族だったなんて。びっくりしました」


 まるで自分を知っているかのような翼の口ぶりにハルは首を傾げた。


「わたしのこと知ってるんですか」


 そういえば玄関でも名乗る前に名字を呼ばれたなとハルは思い出す。だが学校ではもちろん、それ以外の場でも翼と会話をしたことはなかった。


「望月さんは有名ですから」

「有名?」

「はい」


 翼は頷いた。


「入学式の日に望月さん、二、三年生の間ですごい噂になったんですよ。新入生に信じられないくらい綺麗な子がいるって。私もたまたま望月さんを廊下で見かけたことがあって、本当に綺麗な子だなと。それで知っていました」

「なるほど」


 平坦な声でハルが納得を示す。翼の発言に驚きや喜びは特になかった。それは決してハルが自信家やナルシストであるからではない。


 であるハルにとって、容姿が整っていることは生物としてのだからだ。

 

 数多のフィクションで題材となっている吸血鬼──その存在は、一般人には秘匿されているがたしかにこの世界に存在する。時代を経るごとにその数は減っており、世界的に絶滅の危機に瀕しているが、まだまだ多くの吸血鬼が人間社会に溶け込んで暮らしている。


 三津とハルもそのうちの一人。吸血鬼の両親から生まれた、正真正銘の吸血鬼だ。


 そして吸血鬼は吸血対象の人間から吸血しやすいよう、好感を得やすい優れた容姿を持って産まれてくる。よって容姿が優れているという言葉は吸血鬼からすれば「そういう生き物だから」の一言に尽きてしまい、誉め言葉にはならないのだ。


「わたしも翼先輩のことは同じ理由で知っていました」


 入学して早々に翼の噂は耳に入った。その時のことを思い出しながらハルは言う。


「同じ理由?」

「はい。二年生にすごい美人な先輩がいるって。先輩と同じ学校に通いたかったから三澄に入学したって人もいました」

「直接そう言われると、ちょっと気恥ずかしいですね」


 ハルの言葉に翼は照れるように頬をかく。厳密に言えば翼の存在自体は小学校の頃から噂で聞いていたが、名前と顔が一致したのは入学してからのことなので間違いでもない。三澄はハルたちが通っている高校の名だ。


──あまりに綺麗だったから、最初は吸血鬼かと思ったけど。


 心の中でハルはそう付け足す。


 初めて翼を見たとき、その非の打ちどころのない容姿にハルは「もしかしたら」と翼に吸血鬼の可能性を感じていた。実のところ翼のことがかなり気になっていたのだ。


 しかし最近、彼女がグラウンドで体育をしている姿を見て気づいた。


──先輩は人間だ。


 相手が吸血鬼か人間かを判断する確実な方法は二つしかない。一つは吸血、もう一つは相手の血の匂いを嗅ぐことだ。だが、大抵の吸血鬼は普段の挙動から相手が同族かどうかをなんとなく察することができる。特に運動をしているときはわかりやすい。吸血鬼は人間よりも身体能力がはるかに高いため、公衆の面前で身体を動かす際には力をセーブしているのだが、その力の抜き具合やセーブしているがゆえの動きのようなものが吸血鬼当人たちにはなんとなくわかるのだ。


──吸血鬼だったらよかったのにな。


 ほろ苦いバウムクーヘンを頬張りながら、ハルは心の内でそうつぶやいた。




 天気予報に反して降った雨は通り雨だったようで、翼が帰るころにはぱたっと止んでいた。


「えらい懐かれたね」


 玄関の上がりかまちでローファーを履く翼を見ながら三津が微笑む。翼が帰る気配を察した琥珀がゴロゴロと喉を鳴らしながら翼の身体に身をすり寄せていた。


「制服に毛が……」

「大丈夫ですよ。毛なんてすぐ取れますから」


 琥珀の毛を気にするハルに「むしろ幸せです」と微笑み、名残惜しそうに琥珀をひと撫でしてから翼は立ち上がった。


「すみません、長いこと居座ってしまって。バウムクーヘンもご馳走様でした」

「礼を言うのはこっちさね。今日は色々とありがとう」


 丁寧にお辞儀をする翼に三津が言う。


「翼さえよければ、また遊びに来るといい」

「本当ですか?」

「もちろん。また琥珀と遊んでやってちょうだいな」


 三津に同意するようにハルもうんうんと首を動かした。


「じゃあまた、近いうちにぜひ」


 琥珀だけじゃなく三津もすっかり翼のことを気に入ったようだった。


「家まで送りましょうか?」


 まだ外は明るいが、相手は美少女なうえにお嬢様だ。万が一ということもあるかもしれない。だが翼は小さく首を横に振った。


「ありがとうございます。でもお構いなく。すぐそこですから」

「わかりました」


 翼の返事にすぐ引き下がったハルは、おもむろに足元の琥珀を抱き上げると招き猫のように琥珀の前足を持ち上げた。


「ばいばいにゃ」


 相変わらず変化のない表情と平坦な声だった。


「……っ⁉」


 しかし表情とセリフのギャップが、吸血鬼の整った顔に大好きな猫のその動きが、翼にはやや──いやだいぶ刺激が強かったようで。


「先輩?」

「……えっ、あ、はいっ?」

「帰らないんですか?」

「あ……か、帰ります帰ります」


 ようやく我に返った翼が慌ててそう返す。


「ごめんね。こういう子なんだ」


 ハルの横で翼の心情を察した三津が、困った孫だとでも言うようにつぶやいた。

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