第2話 日鷹翼

 一日の授業をつつがなく終え、一年五組の教室では帰りのホームルームが行われていた。


「連絡事項は以上です。他になにか連絡のある人はいますか?」


 教壇に立つ担任の島田しまだがクラスに問いかけた。二十代半ばの若い女性教師で担当科目は国語。親しみやすい教師として生徒からの人気が高く、「島ちゃん」というニックネームで呼ぶ生徒も多い。


「……いませんね。では今日のホームルームを終わります」


 特に誰も手を上げることなく、そのまま帰りのホームルームが終了する。椅子から立ち上がる音がそこかしこから聞こえ、静かだった教室内が一気に音で溢れた。


「んじゃ望月さん、また明日ね」

「また明日~」


 ハルが帰り支度をしていると、そばにいた菅原と篠田が手を振ってきた。菅原はハルの隣の席で、そこへ篠田がやってきた形だ。二人は中学までバスケをしていたようで、入学早々にバスケ部に入部している。これから体育館に向かうのだろう。


「また明日」


 軽く手を挙げて応えると二人は満足げな顔で教室を出ていった。クラスメイトの半分ほどは二人と同じように部活に向かい、もう半分は「今日どこ行くー?」と放課後の予定を立てたりしている。

 部活に入っていないハルは筆箱やらノートやらをしまったリュックを背負い、席を立った。


「あ、望月さんまたねー」

「ばいばーい」


 時々かけられる声に「ばいばい」と返しながら教室を出る。

 ぞろぞろと生徒で溢れかえる昇降口で靴に履き替え外に出ると、灰色の曇り空が目に入った。天気予報は一日晴れだったが、もしかすると雨が降るかもしれない。


 学校の正門を出たハルは最寄りの駅とは逆方向の道へ進む。駅方面へ向かう生徒が多いので帰りはいつも一人だ。学校から少し離れると周囲に制服姿は見えなくなった。


「桜、もう散っちゃったんだ」


 時間にしておよそ十五分の通学路には、つい数日前まで美しい桜の花が咲いていた。けれど、見上げた先にあったそれは今は地面を点々と桃色に染めている。

 感傷的な気分とともに、ふと昔の母の言葉が蘇ってきた。


『この儚さも含めて、日本人はきっと桜が好きなんだよ』


 ひらひらと舞う桜の花びらを愛おしそうに見つめる母を、繋いだ手の先からどういうこと? とでも言いたげな表情で見上げれば、それに気づいた母がハルの頭にぽんと優しく手を乗せた。


『ハルにはまだ早かったかな』


 優しく耳を抜けるその声をまだはっきりと覚えている。

 おーい、と飲み物を手に後ろからやってきた父の、母よりずっと低い声を覚えている。


「今ならお母さんの言った意味、わかるかも」


 ぽつりと独り言を落として再び歩き出す。桜の花びらを踏まないように避けて歩いていたら、ぽつんと脳天のあたりに冷たいものが落ちた。


「雨だ」




 すぐに止むかと思った雨はどんどん勢いを増して、家に着くころには土砂降りになっていた。

 長い時間雨にさらされたわけではないので幸いにも髪や制服が少し濡れた程度で済んでいる。早めに学校を出てよかったと思いながらハルは玄関扉の取っ手に手をかけた。


「あれ」


 手前に引こうとして、しかしすぐに扉が引っかかったように動かなくなった。鍵がかかっているみたいだ。祖母の三津みつが家にいるときは鍵をかけないので、今は誰もいないということになる。


 リュックの中から鍵を取り出しながら、あぁ、とハルは気づいた。


──今日買い物行くって言ってたっけ。


 かちゃん、と鍵を開けて家に入る。中の照明は一つもついておらず、やはり人の気配はなかった。

 けれど人よりもずっと小さな気配がチリチリと鈴の音を鳴らしながら近づいてきた。


琥珀こはく、ただいま」


 靴を脱ぎ、ハルは出迎えてくれたクリーム色の愛猫の頭を撫でた。琥珀が気持ちよさそうに目を細める。真冬の寒空の下、近所の公園でぐったりしていたところを保護してからもう三年が経ち、すっかり家族の一員になっている。

 とことことぴったり付いてくる琥珀を足にまとわせながらハルは真っ直ぐ洗面所に向かった。


──ばあちゃん、傘持っていったかな。


 髪の水気をタオルで拭きながらふとそんなことを思い、ハルは玄関の傘立てを確認した。三津の傘は持ち出されていない。天気予報では今日一日晴れと言っていたし、一時間ほど前までは快晴だったので当然といえば当然だった。


「迎えに行かないと」


 ハルはリュックをリビングの隅に置き、湿ったタオルを洗濯機に放り込んでから玄関へ足を向けた。


 ──サンダルの方がいいかな。


 靴を履くと中まで雨が染みてあとが大変そうだと、ハルは靴棚からサンダルを取り出した。


「本当に助かったよ。ありがとうね」


 そのとき、玄関扉の向こうから聞き慣れた声が聞こえた。

 ん? とハルが動きを止めた直後──。

 ガチャ、と目の前の扉が開いた。


「おおハル、帰ってきてたのかい」


 はきはきとした口調で白髪の老人が言う。

 帰ってきたのはもちろん三津だった。

 もう腰が曲がっていてもおかしくない年齢だが、その背筋は今もぴんと伸びている。


「おかえり、ばあちゃ──」


 言いかけて、しかし三津の隣に立っている人物を見て言葉が止まった。


「翼先輩?」


 間違いようもなかった。

 今朝も見かけた学校のアイドル的存在の美少女が、祖母のすぐ横に立っていた。

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