第2話 顔のよさを自覚しない距離の詰め方
今日、駅に来たのが思いつきなら、コーヒーショップに入ったのも思いつきだった。
約束なんてしていなくって、誰かに行くなんて言ってもいない。なのに、この女は黒いマスクを顎までずらして、ストローでアイスコーヒーを飲んでいる。俺の目の前で。
なぜだ。
「ストーカーなの?」
待ち合わせなんてしてないのに、遭遇率が高すぎる。
恐ろしさを伴う疑問を投げかけてみたら、ぶくっと吹くようにグラスの中であぶくが立った。けほっと、喉を整えてから、「……ち、違う」と否定する。
ただその反応が誤魔化しているようにも見えて、疑惑は増すばかりだ。怖いなぁ。
「仕事の帰り」
「そうなんだ。……そうなんだ?」
納得しかけたけど、シノの整った顔を見て、納得に固まっていた気持ちが氷解するように溶けていく。
いつもの黒マスクはともかく。
黒のアイシャドウに、暗い色の唇。厳ついドクロの描かれたシャツを見て、仕事帰りという言葉が疑わしく映る。
一応、周囲がこちらを気にしてないのを確認してから、声を潜めて訊く。
「清楚なアイドル系の見た目をしてないのに?」
「……それ、受け取り方にはよっては戦争なんだけど?」
ひくっと口の端が引き攣っている。
それはあれか。今は清楚じゃないとか、見た目だけで中身は違うとかそういう受け取り方だろうか。そんな意味を込めたつもりはないけど、思ってはいるので声から滲み出ていたのかもしれない。清楚ではないだろう。
まったくと悪態をついたシノが、顎のマスクを指先で叩く。
「プライベードで絡まれたくないの」
「この前はアイドルだったのに?」
「あれは急いでて、現場からそのまま……あんたのせいでしょ」
急かしたつもりはないんだけど。
「アイドルも大変だね」
「格好は趣味だけど」
同情を返してほしい。
とはいえ、変装の意味合いもあることはわかった。そうするぐらいには人気で、面倒なことが多いことも。
「忙しいんだ」
せっかくの夏休みなのに、隙あらば仕事を詰め込まれる。アイドルは水物。人気や知名度があるうちに仕事を入れるというのは間違ってないんだろうけど、いずれ来る大人の先取りなようで俺には考えられなかった。
子どもの時間を大人で埋める。そのことに、説明できない忌避感がある。
「そうでもないわよ。
学生だから抑えてる。
じゃなかったら、この後も仕事だったわね」
「忙しいんだ」
同じ言葉をもう一度口にする。「ボットか」とツッコまれるけど、俺からすると忙しそうにしか見えないし、詳細を聞けば聞くほど忙しいんだという言葉の重みが増していく。
「考えられないな。
俺はバイトでも働きたくないから」
「いいんじゃない。学生なんだから」
「ふーん?」
意外な反応。
「なにがよ」
あん? と目をすがめるシノ。どうしてこう、この子は一挙一動に威圧感があるんだろうか。アイドルならもっとほわほわ柔らかくあってくれ。
「働けって言われると思ったから」
「言わないわよ。
……働くのも、いいことばかりじゃないもの」
重い言葉だ。
実際に働いているシノから言われると、実感が伴う。アイドルともなれば、いいことは多く、それ以外はより多いなんてこともありそうだ。
「それでもアイドルは続けるのはなんのため?」
「お金」
「夢も希望もないなー」
「売ってるからね」
ただの軽口なんだろうけど、真実の一片を突いている言葉だ。確かに、夢と希望を売っているのであれば、アイドルの手元に返ってくるのはお金だけだ。本人に夢も希望もないのも頷ける。
売りに出した夢と希望が受け取ったお金と等価かは、人それぞれの価値観に寄るのだろうけど。
「それで、なんの用?
どうせユウさんのことなんだろうけど」
シノとの邂逅は全部が全部妹のユウさんに関わることだ。今日も大好きな妹について話があったのだろう。
この前のプラネタリウムのことかな?
それについては俺からも訊きたいことがあったし、丁度よかったかもしれないと思ったけど、
「なにも。
見かけたから声をかけただけ」
「……」
みかけたからこえをかけただけ? そんなバカな。
「妹の話はどうした?
病気? これから病院付き添う?」
「本気で心配するのやめてくれない?
キレそう」
額に青筋が浮かんだ顔はもう怒っているのだけど、ここからさらに上があるのか。
さすがに怒らせたくないので言葉を選ぶ。でも、驚いたのは本当だ。
「だって、そうだろ。
シノが俺と話すのは、ユウさんのことを訊きたいからでしょ。
友達でも、クラスメートでもない。
用件なく話しかける理由ってある?」
「……なんでよ。
友達でしょ」
不満そうに下唇を尖らせる。
テーブルに肘を突いて、手の平に顎を乗せる。そっぽを向きながら、ストローで意味もなくコーヒーをかき回す姿は拗ねているという表現がピッタリだった。
友達。ともだち……?
どうにも咀嚼できない。初めて目にする食べ物を口にしたような不思議な感覚だった。
ここで友達の定義とはなんぞやと言ったら蹴られそうなので自重するけれど、シノとの関係が友達と名札を付けられるのは変な感じだ。
「妹の情報を引き出せる、都合のいい男だとばかり」
「それはそう」
本当にこの女はアイドルなのだろうか。顔色を窺うとか、本音をオブラートで包むとか、そうした大人の交流がいる世界でアイドルやってるんじゃなかったの?
「彼氏を財布と呼ぶような感じ……?」
「違う。そのこっわぁみたいな目をやめなさい」
だって、そうとしか受け取れないだろ今の流れ。
「そうじゃなくって」
苛立つように、それとも照れるようにか。妹と同じ艶のある黒髪をかき乱す。
「私は友達だと思ってる。だから、見かけて声をかけた。
変なこと言ってる?」
「いや別に」
ただ互いの認識に齟齬があるだけで。
「ふーん。
そうなんだ。なら、今日は本当にたまたまだったのか」
「……」
なんでそこで黙って、コーヒーをすするのか。だから、疑いたくなるんだって。
「まぁ、うん。
そんなことはどうでもいいわ」
「よくないけども」
ストーカー疑惑が晴れない。
「ただ、わたしが一方的にヨゾラを友達と思っているのは気に食わない」
「基本、詰め寄るしかしてこなかった相手を友人と思えるのかという議論を」
「しないから」
暴君かな。少しは悪びれてほしい。
「こんなところで一人寂しくコーヒー飲んでるぐらいだもの。
暇よね?」
「わぁお。君は人の神経を逆撫でるのじょうずなフレンドなんだね?」
事実だけど、そんな指摘の仕方ある?
「なに。それとも待ち合わせ?」
シノが立てた小指をピコピコと揺らす。……?
「なにそれ」
「恋人のジェスチャーだって。
この前、現場にいたおじさんが言ってた」
「へー」
そうなのか。昔流行ったりしたのだろうか。感心するけど、訊かれたこと自体は大きなお世話でしかない。
「一人寂しくコーヒー飲んでるだけ」
「ふーん」
いやふーんって。せめて慰めるとかないのか。
「ならさ」
と、ぐっと身を乗り出してくる。
制汗剤か、清涼な香りのする髪が目の前まで迫ってきて慌てて下がる。
アイドルやってるなら自分の顔のよさは自覚があるはずなのに、無遠慮な距離の詰め方に相手がシノであっても心臓が揺れ動く。
ただ、その動揺をシノに悟られるのは嫌で、表情が緩まないよう目元口元にぐっと力を込める。
そんな俺の気も知らないで、吐息を感じる距離感でなんでもないように不敵に笑う。
「付き合わない?」
風船のような軽さで誘ってくる。
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