第10話 下の名前を呼ぶなんて、大したことじゃない
「手」と中途半端にリモコンに伸ばした手を見る。
手を貸すとは。なにか手伝ってほしいことがある、という意味でもないだろう。たぶん。状況的に考えて。
「えっと……こう?」
困惑しつつも手を差し出すと、シワになるぐらい握っていたスカートから天津さんは手を離した。そのままゆっくりと、おっかなびっくり手を伸ばしてくる。
触りたかった、のか?
そう思っていたら、そのまま包み込むように手を握ってくる。
最初は弱々しく。けれど、すぐにぎゅぅううっと、加減なんて頭にないくらいの強さ。
痛くはない。
華奢な女の子の握力だ。本気であろうとそこまでじゃない。でも、天津さんが必死なのは伝わってくる。
音が消える。
うるさいぐらい心臓の音が鼓膜を震わせていた。
「名前……」
言われて、心臓が一際跳ねた。
どういう意味? と、疑問が生まれる。手の平を彼女の指先がそっと撫でてきて、むず痒さに震える。
「お姉ちゃん、のこともわたしも、天津って呼んでるから、……だ、から」
だからなんなのか。
俯いたまま顔を上げない天津さんの顔色を窺うことはできない。でも、長い髪の隙間から覗いた耳が、夕暮れ空のように赤く染まっていた。
「ユウ……って、呼べば、間違えることもない、ん、じゃないかのかなって」
天津さんの言葉に唾を呑み込む。喉が渇く。
お願いでも、希望でもない。ただの提案。
言い訳のような遠回しな要求を俺はどう受け取ればいいのだろうか。
あんまり女の子のことを下の名前で呼ぶことはない。でも、呼んでと言われれば普通に呼べる。その程度の違いでしかない。
でも、これは……どうなんだろう。
その程度と受け取るには、訊き方も、雰囲気も、状況も、軽くないような気がする。
天津姉の言葉が頭をちらつく。
いやいや。
寄ったシワを解すように、親指で眉間を揉む。
そうじゃない。勘違い。天津姉の言葉に引っ張られているだけ。それだけだ。大したことじゃない、大したことじゃない。指で鎖骨を叩いて動揺を沈める。
「別にいいけど」
その声は思いのほか素っ気なくなってしまった。
意識しているのが丸わかり。もうちょっとこう、うまくと思っていると、
「よ、呼んでみて」
さらなる高い要求に口の端が引き攣る。え、や、えー。
躊躇いがあって、天津さんから離れるように仰け反る。でも、俺の片手は彼女の両手に包まれたままで、距離を取れなかった。
逃避めいた行動が呼び水になったのか、俺の手に引っ張られるようにずっと俯いていた天津さんの顔が上がった。
期待と不安に揺れる金にも似た琥珀の瞳。
頬は熱があるように火照り、汗のせいかしっとりと濡れた肌に色気を感じる。
視線を他に向けたい。
でも、射すくめるように琥珀の瞳に見つめられ、顔の向き一つ変えられなかった。
美人だからなのかな。目が離せない。
それを狙って素顔を見せたというのであればズルいと思うけど、そうした意図は天津さんにはないはずだ。自覚がない分、余計に
ただ、名前を呼ぶだけ。それだけなのだから。
自分に言い聞かせて、唇を舐める。
「ユウ……さん」
敬称を付けたのは最後の抵抗で、心臓から血流に乗って駆け巡った気恥ずかしさに耐えられなかったからだ。うわぁ、なんだろう、すっごく恥ずかしい。
顔を両手で押さえて蹲りたい気分だったけど、手の平に刺すような痛みがあって「っ」と顔を顰める。見ると、天津さんの爪が立っていて、俺の手を刺していた。
無意識なのか、爪を立てたまま俺の手を握り込む天津さん。「痛い、痛いって」と素直に痛みを吐露するけど、全然聞く耳を持ってくれない。
無理やり剥がすしか……いたいたい。
天津さんの両手から強引に手を引っこ抜こうとした瞬間、またもや彼女がバッと立ち上がる。
「ユウさん……?」
おっかなびっくり呼ぶ。
「……帰る」
へ?
驚きを声にする暇もなく、天津さんは「ごめんなさいっ」と謝罪だけを残して部屋を飛び出してしまう。
聞こえてくるのはドタバタと階段を駆け下りる足音。そして、バタンッガシャンッと開いて閉まる玄関ドアの音だった。
あまりにも突然すぎる行動に意識が付いていかない。
ただ呆然と、ゆっくり戻ってくるドアを見つめることしかできなかった。
「ユウさん?」
当たり前だけど名前を呼んでも、返事はない。
代わりに一口も飲まれなかったジュースの中で、カランッと涼しげな音を氷が鳴らした。
◆第2章_fin◆
__To be continued.
【あとがき】
■サポーター限定SS公開!
【限定SS】夜明けのアイドルとコンビニで買い物をしても意識なんてしない【約5,400文字】
https://kakuyomu.jp/users/nanayoMeguru/news/16818093083405831057
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