第9話 side.天津ユウ この熱を、恋って言うんだと思う
星観くんの胸に顔を埋める。
とくん、とくんと、いつも通りなのか、早いのか。初めて聞く彼の心音に耳を傾ける。
そうしていると、姉の言うことが間違ってはいなかなったなと感じる。
三日前のことだった。
七月の終わり。八月との境に、姉から電話があった。自室にいたわたしは、スマホの画面に映る相手を見て、酷く驚いたものだった。
双子の姉妹からの連絡でなにをそんなにと、他の人が聞けば呆れそうなものだけど、その程度のことで珍しいと感じてしまうのが、今のわたしとお姉ちゃんの関係だった。
姉妹なのに、別々の家で暮らすようになってから、初めてだったと思う。
わたしからの連絡も、夏休み前にライブを観せてと頼んだっきりだった。
でも、それは叶わなくって。
たかだか電話一つに怯えてしまう。
いまさらなんなのか。
いくつか思いつくものはあるけど、絶対にこれだと言えるものがなかった。スマホを握ったまま、僅かに逡巡した後、表示されている通話ボタンを押して、そっと耳に添える。
「……お姉ちゃん?」
呼ぶと、スピーカーが息を呑む音を拾った。沈黙と合わせて、姉の緊張が窺える。
「……」
『……』
どうしよう。
無言の時間に戸惑いと焦燥が生まれる。
こっちから話すべき? でも、わたしから話すことはない。……言わなきゃいけないことはあるけど、それを今言うことはできないし、したくはなかった。
結局、待つしかなくって、沈黙に耐えるように息を潜めていると、微かな息を吸う音が聞こえてきた。
『久しぶり』
「この前会った」
その声は自分で思うよりも固く、不機嫌が滲み出ていた。そんなつもりじゃなかったけれど、『……そ、うだよね』と怯えるような姉の反応に心臓が痛くなる。胸元で手をぎゅっと握る。
姉と話したのはライブの時以来だ。
まだ一ヶ月も経っていないけど、もう半月以上は
それを、久しぶりというのはおかしいことではないし、わざわざ反発するようなことでもない。
自分は不機嫌だと伝えるような、子どもみたいな態度だ。
感情の抑制が効かない。
紐で縛っていたものがほどけて緩んだように、理性よりも先に心が言葉を作る。吐き出す。
『…………っ』
声を出そうとして、失敗したような、喘ぐような吐息。
顔も見えない、声も聞こえない。
そんな状態なのに感情を伝えてくるのだから、それだけ姉が他人に自分の感情を伝えることに優れているのだろうか。それとも、わたしが人の感情に敏感になりすぎているのだろうか。
伝える。受け取る。
どっちもあるんだろうなぁ。
双子らしく顔だけは似ているのに、それ以外は全部正反対なわたしたちだから。
「なにか話があるんだよね?」
まるでわたしのようになってしまった姉に水を向ける。
このままだと、いつまでも話が進みそうにない。息苦しさで窒息する前に、さっさと用件を終わらせるべきだ。
声が固いままなのは……直せそうにないけど。
『そ、うね。うん。話、あるわ』
たどたどしい。
普段のわたしへの当てつけかと思ってしまうのは捻くれすぎだろうけど、面白くはない。無意識にスマホの裏側を叩いたら、急かされたと思ったのか『ご、ごめん』と謝ってくる。
そうじゃない。けど、話が進みそうなので否定はしないでおく。
『ヨゾラのことよ』
「――」
出るとは思わなかった名前に声を失った。
でも、少し考えればわかることでもある。
わたしとお姉ちゃんのことでないなら、話題に上がる共通の知り合いなんて彼しかいないのだから。
星観くんの名前を聞くと、体温が上がる。
お姉ちゃんが彼の名前を口にすると、体温が下がる。
心臓に焼石と氷塊を同時に投げ込まれたような気分だった。
結果的に平温を保っているから意識はハッキリとしているけど、自分が今正常かと問われたら、わからないと答える。
星観くん。
星観、ヨゾラくん。
わたしが最初に出会った。お姉ちゃんは知り合いでもなんでもなかったのに、後から出会いに行った。
姉になぜそんなことをしたのかと尋ねれば、きっとわたしのためと答える。そうであっても、よくもそんな真似ができたなと姉を……あぁ、よくない、よくない。
これはよくない感情だ。
吐き出してはいけないものだ。蓋をして、なかったことにしなくてはいけない。
でなければ、また家族が別れて暮らすような、悲惨な結末が待っているに違いないのだから。
だから、抑えて、抑えて、
『――私の妹じゃなくって、ただのユウとして見てくれる人なら誰でもよかったの?』
「……………………は?」
わたしの中でなにかが壊れた。
なにを言って星観くんから聞いたの誰でもなんてお姉ちゃんの妹じゃなければわたしを見てくれるからだってそれはそうで好きで星観くんだからそうじゃないってそんなわけ誰でもいい違うそうだ好意じゃない勘違いでもだからそれはあれでなんでわたしの感じてる気持ちは――なに?
「……はぁ、はぁっ!」
気付けば、わたしはスマホを投げ捨てていた。机にぶつかって、床に転がったスマホの画面は真っ暗で、ヒビ割れている。
息が苦しい。
呼吸がうまくできない。
閉じた喉を開こうと、両手で首に触れるけど、はぁふっ、はぁふっ、とか細い息ばかりが漏れるだけ。すぐに立っていられなくなって、膝から崩れ落ちる。
姉の言葉は足りなかった。
でも、言わんとすることは伝わった。伝わりすぎた。
――わたしが星観くんに抱く気持ちは恋ではない、と。
突きつけられた言葉は鋭利な刃物のように胸に刺さって抜けない。
呼吸を乱して、目眩がして、視界を滲ませる。
「そんな、はずない……!」
違う違うと首を振って否定しても、心に浮かんだ疑念を拭い去ることができない。否定、……しきれない。
「そんなはず……ないっ」
わたしが抱いていたのは恋でもなんでもなくって。
天津シノの妹ではなく。
天津ユウとして扱ってくれて。
姉よりもわたしを見てくれる。
ただの優越感を恋心と勘違いしていたなんて、
「そんなことない……っ!」
怖くなった。他人どころか自分の気持ちすら信用できない気がして。
ベッドに飛び込んで、布団の中に身を隠す。
「違う違う違う違う違う」
うわ言のように、ただただ否定の言葉を吐き出し続ける。それは涙ぐんで、嗚咽が交じるようになっても変わらなかった。
そうやって、自分を守るように籠もっても、自分の心から逃げられない。
どれだけ違うと否定しても、そうだったのかと納得する自分も確かにいた。そんなの認めたくないと追い払ったところで、自分の心を遠ざけるなんてできはしない。
それからは部屋に籠もっていた。
母に何度も声をかけられたけど、返事はしなかった。できなかった。
心配させているのはわかっていたけど、自分のことで手一杯で、被った布団の暗闇から出られない。
怖い。
ただ怖かった。
全部全部わたしの勘違いで、
彼に感じた胸の高鳴りが、姉より優先されているという優越感でしかなかったんだと、証明されるのがただただ怖い。
どうして姉はこんなことをわざわざ伝えたんだろう。
知らなければ、星観くんのことを好きだと思ったままでいられたのに。どうして、どうして。
元から燻っていた嫌悪の火種に、どうしてどうしてと薪を焚べる。怒りと憎しみを大きくする。本質から目を逸らして、焚べて焚べて……焚べる物がなくなって、目を背けることはできなくなった。
「…………わかってる」
なにも知らずにいたら、どこかで躓いたかもしれない。
後戻りできない所まで進んで、その時になって自分の気持ちに気が付いても遅い。わたしも星観くんも、どちらも幸せになんてなりはしない。
でも、うまくいった可能性もある。
「……ほっといてくれてよかったのに」
お節介がすぎる。
心はまだ揺れたまま。
落ち着かないし、今、自分がどんな気持ちなのか説明できないふわふわした気分だった。でも、散々泣いて喚いたから少しだけすっきりもしている。
代わりに、目と喉が痛いけど。
「……時間は」
ひよこの時計が五時を指していた。
ただ日付がわからない。昼夜も。
ベッドから下りて、転がったままのスマホを拾う。衝動に任せて叩きつけたスマホはヒビだらけ。電源つくかなと心配だったけど、ちゃんと壊れていた。なんてこった。
部屋で日時を確かめられる物がない。
お母さん起きてるかなと申し訳なさで不安になりながら恐る恐る部屋から出る。幸い、母はまだ起きておらず、カーテンの締まった、ひっそりとしたリビングが出迎えてくれた。
音を立てないようにしながら、リビングに置いてあるデジタル時計を確認して、
「うぇ」
悲鳴のような呻き声が漏れる。
時刻は朝の五時一分。それはいいのだけど、日付が八月の三日だった。最後の記憶は七月三十一日。ベッドに籠もったのは夕方近くだったはずだけど、三日間近く泣いて喚いていたことになる。
そりゃ涙も枯れるし、喉も潰れる。
時間が飛んだような感覚に呆然とする。呆然として、「どうしよう……」と顔を覆う。
知らずに過ぎた時間のおかげか、少しだけ冷静になれている。
だからといって、なにかが解決したわけではない。
姉の言葉を受けて、どうしようと考える前に泣いて喚いて、頭から布団を被って逃げただけだった。
ようやく行動の選択に行き着いて、水分の出きったからっからの頭で考える。
「確かめ、ないと」
姉に指摘されて、そうかもしれないと思った。でも、本当にそうなのかは、自分ですら答えが出せないでいる。
だから、会わないといけなかった。
会って確かめないと。
ガス欠のように、すっかり空っぽになっていた心に燃料が補給される。焦燥に似た衝動が戻ってくる。
それでも、布団の中に籠もっていた時よりは思考は鮮明で、冷静だった。
洗面所で顔を洗って、髪を整える。
部屋に戻って着替えようとして、クローゼットの私服に手を伸ばしたけど、少しだけ考えて制服に着替えることにした。
たぶん、今は勇気が足りないから。
始まるにしても、終わるにしても、彼と初めて出会った場所で。
三つ編みをして、眼鏡をかけて、
「よし」
準備は万端。
目元は赤いままだけど、すぐに治せるものではないので諦める。
そのまま家を出る。
日は出ているけど、明け方のアパート前は人の気配を感じない、ひっそりとした冷たさがあった。まだ街が起きていない、そんな雰囲気。小鳥のさえずりと、セミの声だけが生命の息吹を感じさせた。
星観くんの家は以前、一度行ったから道は覚えている。
そのまま歩き出して、気付けば走っていて。
到着した時には息も絶え絶えで、膝が笑っていた。泣いたり笑ったり、忙しいなぁわたし。
「はー……すー」
家の前で深呼吸して、息を整える。
落ち着いてきた頃にインターホンのボタンを押そうと指を伸ばしたけど、ここでようやく気付いた。というか、我に返った。
「迷惑、かも」
まだ朝早い。
なんの約束もなく、まだ寝ているだろう星観くんやその家族を起こすのはあまりに傍迷惑で、常識知らずだろう。
「スマホ……は、壊れた」
壊した。わたしが。投げて。
連絡手段すらなく、目的地の前で行き詰まってしまった。だからといって、胸で燻る衝動と焦燥を抱えたまま、来た道を戻る気にはならない。
「どうしよう」
どうすれば。
星観宅の前を行ったり来たり。
ただ、ここまでの疲労や睡魔、ぐちゃぐちゃになった感情に真っ白な頭では妙案なんて思いつくわけがない。ぐるぐる回る思考と同じようにうろうろするだけで堂々巡り。
結局、わたしに気付いた星観くんが家から出てきて、
「で、なにか用?」
「――~~ッ!?」
と、寝起き姿の星観くんを見て悲鳴を上げるまで、わたしの不審者めいた行動は続いた。
それから、学校に向かって。
さすがに体力の限界で倒れかけて。
お金を持ってきてなくて水を奢ってもらって。
それから、それから……。
あぁ……と、星観くんの胸に頭を預けて、想う。
とくん、とくんと跳ねる彼の心臓の音を聞いて、自分の心とようやく向き合う。
星観くんに抱く気持ちはなんなのかを。
お姉ちゃんの言うことは間違っていなかった。
彼の心臓から伝播するように流れてくる安心だったり、不安だったりする感情。その中には、わたしを見てくれる、姉より優先してくれているという、優越感にも似た感情があった。
姉と接しても、靡かずにただのわたしとして接してくれる星観くんを、わたしは特別視していた。
でもそれは、好意ではなかった。
喜悦ではあっても、決して好意たりえない。餌を与えられた野良猫が懐くようなものだ。
でも、とも思う。
それはわたしの心の一面、一欠片でしかないのだと。
彼の鼓動と重なるように、とくん、とくん、と感じる胸の高鳴りはそうした喜びや、打算とは違う。
こうして、星観くんの手を握って、彼に寄り添って、ようやくハッキリとした。三日も泣いて、喚いていたのがバカみたいぐらいにあっさりと。
わたしを見てくれる人なら誰でもいいわけじゃない。
星観くんじゃないといけないんだと、体が熱を発する。
手を強く握る。頬擦りするように顔を彼の胸に強く押し付ける。
星観くんを求めるこの熱を、恋って言うんだと、わたしは思う。
◆第4章&第1部_fin◆
__To be continued.
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