第6話 夏休みの始まり。お礼の誘いはデートになるのか否か。

 夏休みというのは、始まったばかりが一番幸せだと思う。特に一番最初の平日はそれを強く実感する。

 平日の月曜日なんて、本当なら学校に行っていなきゃいけない日だ。

 それなのに、こうしてベッドに転がっていられる幸せ。宿題重荷はあるけれど、夏休み頭に考える必要もない。終盤まで残すつもりはないけど、まだほうっておいていい。


「……だるーん」

 やることがないのはいいことだ。暇を持て余すという贅沢を満喫していた。

 あと数日もすれば暇が苦痛になって、やることを探し始めるのだけど、それまでは一日中寝ていたかった。

 冷房と扇風機の音。外から聞こえてくるセミの鳴き声。

 これが夏だと感じながら、怠惰という名の静寂にどっぷり浸かっていた。けれど、スマホの振動によって夢心地から現実に浮上させられる。


 なんだ。

 一回だけの着信のお知らせ。ワンギリでもなければ、メッセージかなにかだろう。あとにしようかなと思ったけど、寝すぎた頭はスッキリしていて、意識もハッキリしている。

 寝不足なんてものとは程遠い。あるのは動くのが面倒だという怠けたい心だけ。


 うーとうめいて、ベッドに転がったままローテーブルに手を伸ばす。

 上体を起こさないで、どうにかスマホが取れないかと体を捻る。ズリズリ背中で這うように動いて、もうちょっとというころで世界がひっくり返った。

「いだ」

 ベッドから落ちた。

 さすがに面倒がりすぎた。自分の怠惰を反省する。けど、急にメッセージなんて送ってきた相手も悪い。まだ、十二時にはなってないのだから、もう少しだらだらさせてくれたっていいだろうに。


 理不尽だ。でもいい。その理不尽は相手に伝わらないから。

 というわけで、ベッドから落ちた責任をメッセージを送ってきた相手に押し付けようとしたのだけど、スマホを見てそうもいかなくなる。

「ユウさん?」

 理不尽な八つ当たりをするには、たとえ相手に伝わらなくっても申し訳なくなる相手だった。これがシノや級友なら率先してお前が悪いと言えるのに。


 床にひっくり返った間抜けな体勢から転がってあぐらをかく。

 最初に思ったのはなんで。

 なにか連絡する用事があったっけ。薄い緑の吹き出しに書かれているのは明日出かけないかという誘い。

 女の子にしては非常に簡素で、絵文字もスタンプもない。偏見かな? と思うけど、スタンプだけで会話しようとする子もいるので、ユウさんがいまどき珍しいのだろうと思っておく。


 遊びの誘いか。

 そう思っていると、ぽこんっと新たなメッセージが届く。

『この前、家まで鞄を届けてくれたお礼がしたいから』

「あったなぁ」

 そんなこと。

 一週間近く経っていて、すっかり忘れていた。忘れるには早すぎる気もするけど、夏休みに浸っていた俺の記憶は絵の具を水で伸ばすように薄れている。なんなら昨日食べた夕飯すらなかなか思い出せなかった。あれだ。なんだっけ。……ハンバーグ? あ、それは一昨日か。


「お出かけ、ね」

 頭をかく。ぼさっとした寝癖の酷さが手の感触として伝わってくる。

 もう少し夏休みの怠惰を楽しんでいたかったけど、抜け出すにはある意味丁度いいタイミングで、誘いなのかもしれない。このままだと、路上に落としたアイスクリームのように溶けてしまいそうだ。


 でも、この誘いをどう受け取ったらいいのかは少し悩む。

 警戒心の強い小動物を思わせる人見知りなユウさんからの誘い。お礼も兼ねて、ただ遊びに行こうというのであれば、こうやって悩む必要はないのだけど、

「これは……デート?」

 夏の始めに降って湧いた難題に、かき氷も食べてないのに頭が痛くなる。



  ■■


 断る理由がなかった、というのがユウさんからの誘いを受けた最大の理由かもしれない。

 女の子と二人で遊びに行くなんていうのは、言葉にすればどってことないけど、高校生男子にとっては人生の分岐点になりうる一大事だ。あまりそういう方面に無頓着な俺でも、多少意識はする。

 ……したけど、よくよく思い出せば、ここ最近は家に女の子を上げたり、一緒にバーに行ったりとそれに近いか以上のことをしていた。変わんないな。そう思うけど、改まると心の端っこが走り続けているような躍動が常にあった。


 そんな若者らしい感情が俺にもあったのか。

 枯れたお爺さんみたいなことを思いつつ、見えた看板を前にして足を止める。場所はいつか来たアパート。天津宅。駅で待ち合わせでもよかったけど、それはデートっぽいなという考えがふと湧いて、意識して。

 ユウさんはメッセージで遠慮したり謝ったりしていたけど、迎えに行くと押し切った。待っているのも、待たされるのも嫌だったから。


 アパートに入る。部屋番号を呼び出す。

 ピンポーンと流れる呼び出し音。家のインターホンも似たような音だし、どこでも一緒なのかなと益体もないことを考える。それから、あれ、と。もしかすると、ユウさん以外が出るかもと手遅れ気味に思う。

 ご両親か、シノか。

 平日だから父親の線はないだろうけど、母親やシノの線は残る。娘、もしくは妹に会いに来た男。どちらであれ、あまり愉快なことにはならなさそうだった。


 迎えに来たのは失敗だったかも。

 なんで今気付いたのか。せめて、アパートの呼び出しではなくメッセージで連絡をすればよかったとたらればな後悔をしたところでぶつっと通話が繋がる。

『……い、今、降りるから、まま、待ってて』

 焦りが滲む、慌ただしさのある声。ユウさんだなとすぐにわかって、喉につかえていた息を吐き出す。来るのがわかってるなら、ユウさんが出るか。


 入ってきた宅配便のお兄さんに場所を譲って外に出る。

 道路とアパートを隔てる塀に寄りかかって待っていると、「お、お待たせ」と声をかけられる。顔を向けて、息を呑む。


 初めて見るユウさんの私服はクリームのような淡い色合いのブラウスに、チェック柄のロングスカート。もこっとしたベレー帽を被っていて、教室で見るよりも文学少女な雰囲気のある姿になっていた。

 ただ髪型は三つ編みではなく、かといってただ下ろしたわけじゃなく。

 小さく波打つ髪が肩を撫で、起伏のある胸に乗る。僅かに化粧を施しているのか、薄い唇が瑞々しく濡れていた。


「どう、でしょうか……?」

 まさか評価を尋ねられるなんて思っていなくって、「あ、あぁ」と呻きなのか生返事なのかわからない声しか出なかった。少し落ち着こうと咳払いをしてから、似合ってると伝える。

 すると、頬を微かに染めて俯く。ありがとう、ございます、と消え入りそうな声が産毛を撫でるように俺の鼓膜を震わせた。


 絵になる。とっても。

 似合ってるという言葉に嘘はなく、今日のため、そして俺のために着飾ってくれたのかなって思えば勘違いであっても嬉しくなる。なるん、だけど。

 ……シノ、というか、夜明けのアイドルにそっくりじゃないか?


 舞台上で観た、ファッション雑誌の表紙で見た彼女に。

 それが褒め言葉になるのかは、微妙な関係の二人を知る俺としては口にはできないけれど、本人と見紛うほどに似ている。そのせいで、ただ見とれるだけじゃなく、不安が霧のように立ち込める。

 大丈夫か、これ。

 人気アイドルのデート激写! とかされないだろうか。ここに来る前に抱いていた緊張とは別の緊張が胸の内にわだかまっていく。


「……っ、い、こう」

 棘に刺さったような不安を抱く俺と違って、今日のユウさんは見た目の変身っぷりと同じくらい行動的らしい。前は俺の後ろに隠れるように歩いていた彼女が、率先して前を歩いている。

 ユウさんの後ろ姿に新鮮味を感じながら、まぁ、どうにかなるかと内心こぼして背中で手招くように揺れる黒髪に付いて歩く。たっと、横に並ぶ。


「それで、どこに行くの?」

 遊びに行こうと誘われはしたけど、予定は訊いていなかった。デートなのかどうなのかとか、そもそも誘いを受けるかどうするかとか、別のことばかりが頭にあって、予定のことなんて頭から抜けていた。

 訊くと、「とりあえず、駅に」と言うのでそのまま並んで歩く。周りの視線が気になりながらも、どうにか駅に着く。言われるがまま下りの電車に乗る。


 夏休みだからか、それとも平日のお昼前だからか、車内は空いていて端っこの短い席に並んで座った。肩が触れて、そそっと僅かに開いた距離。小さな寂しさを感じるけど、より気になるのはやっぱり行き先。

「電車乗るんだ」

「う、うん」


 しつこいのもどうかと思うので迂遠に尋ねてみるけど、返ってきたのは頷きと応答だけ。

 着いてからの楽しみかな。

 そう思っていると、車内を見るように反対側を向いたユウさんが小さく本音をぽろり。

「…………知ってる人がいたら嫌だから」

「あははー」

 着飾った見た目と違って変わらず内気な彼女に、ふと笑いがこみ上げてきた。

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