第7話 勇気が出ないから校舎裏に行きたい
洗面所でもっさりとした髪を直す。
霧吹きでさっと濡らして、くしで梳かせばだいたい終わる。女の子と違って、短い髪は手入れが楽だ。
なにやら物音のするリビングを抜けて、部屋まで駆け上がる。
「服、どうしよう」
そんなに悩むほどバリエーションがあるわけじゃないけど、今回は相手が待っているので少し悩む。ふむ、とクローゼットの前で鼻の筋を撫でて、そういえば制服だったなとユウさんの格好を思い出す。
「行きたい場所……」
そういうことなのかなって思って、制服に着替える。
違う可能性は大いにあったけど、相手の格好に合わせた方が楽だ。服へのこだわりが少ないと、なんでもいいかってなるし。
とはいえ、まさか夏休みなのに制服に着替えるとは思わなかった。
シャツに袖を通すと、着慣れた感覚と同時にかすかな違和感が肌の上を這う。それを気に留めないようにしつつ、ユウさんの所に戻ろうと部屋から飛び出して階段を駆け下りる。
と、
「あら、行っちゃうの?」
リビングから母親がお盆を持って出てきた。その上には、お茶とか茶菓子が乗っかっていて、見るからに来客の対応だった。
家に上げようとはしたけど……。
口の中に苦い物を感じながら、目の下をぐっと持ち上げてジトッと母親を見る。
「なにそれ」
「お母さん、後から部屋に行って見ちゃったってやりたかったんだけど」
「そんな定番いらないから」
やらないし。
そうなの? と、朝からのほほんとした母親が持つお盆から、どら焼きをかっさらう。甘い。けど、朝ご飯代わりにはなる。
そのまま咥えながら、踵を潰して靴を履く。
「いってらっしゃい」
「
登校日の朝の気分になりながら、玄関を出る。
玄関扉が閉じる間際、「なんで制服だったのかしら?」と聞こえてきた疑問には俺も答えを持っていない。
門柱の前で大人しく待っていたユウさんが顔を上げてこちらを見てくる。
「
「た、食べてからでいいよ?」
失敬。
もぐもぐしながら、もう一個のどら焼きを『食べる?』と差し出すけど、「だ、大丈夫」と言って遠慮してくる。さすがにどら焼きは朝から重いかと食べ進めていたら、バターの味が口に広がり始める。
……なんでバターが。どこかの名物だろうか。おいしいけど、重い。
朝から胃もたれしそうで、どうにか呑み込んで口を押さえる。
けぷっと出そうになるげっぷは我慢。
「それで、どこに行くの?」
「どこ……」
尋ねると、ユウさんの視線が上から下に俺を撫でる。そのまま戻ってきた金色にも似た琥珀の瞳には、わかってるんじゃないか、という確信にも似た疑問が映し出されていた。
ともすれば、意地悪と拗ねたようにも受け取れる視線に俺は肩をすくめる。予想はある。でも確信はないのだから。
小さな不満で唇を尖らせるユウさんが、地面を見るように下を向いてスカートを握る。
「……学校の、校舎裏」
予想は半分当たりで、半分外れ。
制服だったから学校だとは思ってたけど、校舎裏とは思いもしなかった。正直、前のようにまた姉のライブかなにかに誘われているとばかり思っていたから。
校舎裏……となると、用件はなんなのか。予想が外れてわからなくなる。
授業じゃない。
部活でもない。
アイドルですらない。
そうなると、わざわざ夏休みの学校に、それも校舎裏に行く理由なんて想像もできなかった。
空が高い。
早朝だというのに、立っているだけで汗の吹き出す熱気漂う太陽の下を歩いてまですることは思いつかない。
「校舎裏じゃないと駄目なの?」
「……こ、こだと、勇気が出ない、から」
駄目なんだろうなぁと思いつつも訊いてみたら、振り絞るような声に驚く。それに、ユウさんの口から出た言葉にも。朝、起きてから大して時間は経っていないのに、彼女には驚かされてばかりだった。
十月のハロウィーンにはまだ早いけれど、あわてんぼうのサンタクロースよろしく先取りしていたずらをされているのだろうか。
そんなわけはないと理解しつつも、大仰だなと思う。勇気が出ない、なんて。
普通に暮らしていればなかなか出ない言葉だ。どちらかと言えば、漫画とかゲームとか、そうした創作物で目にする頻度の方が多い。
俺とユウさんの間で、勇気が必要なことなんて思いつかないけど…………思いつかないけども。
断る理由があるとすれば面倒以外はなく、ユウさん相手にそんな理由で断る気はなかった。これがシノや級友なら別だけど。
「なら、行こうか」
「あぃ、……う、うん」
歩くと、ユウさんがなにかを言いかけた後、小さく返事だけをして追いかけてくる。
あぃ……ありがとう、かな。ごめんなさいよりはいいよね。
そんなことを思いつつ、学生鞄も持たず、夏休みの通学路を歩く。
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