第19話 星だけが見ていた④



(1)


 リカルドが向かった先は、以前滞在していたウィーザーという港町だった。


 この街を選んだ理由──、リカルドの友人や知り合いが多く、「何かあったらいつでもここへ帰ってこいよ」という温かい言葉を貰っていたから。

 ミランダとの逃げようとした際も、ここに二人で暮らそうと決めていたくらいだ。


 ウィーザーの人々は、突然怪我を負って戻ってきたリカルドを見て大いに心配した。

 彼から事情を全て説明されると『貴族の囲い者に手を出すとは。しかもその女を引き取るために金を貯めたいだなんて、無謀にも程がある』と、ある者は呆れ、ある者は考え直せと説得した。

 だが、リカルドの意志は固く、彼の熱意に根負けした人々は最終的には納得してくれたが。


 ウィーザーで暮らし始めたリカルドは、昼夜を問わず働き通しの日々を過ごした。


 朝六時から八時までは郵便局で手紙の仕分け。朝九時か、夕方十七時までは時計職人の元で働き、夜十八時~深夜一時までは以前働いていた酒場の厨房で皿洗いや軽食などを作る。深夜二時過ぎに帰宅し、朝五時までの三時間だけ眠る生活を実に一〇年もの間続けたのだ。


 このような仕事漬けの生活を送っているため、唯一の休みである安息日は一日中寝て過ごすことが多く、気晴らしに遊ぶなど無駄な出費もなく。

 倒れない程度の質素な食事やアパートの家賃、水道代、左足の湿布代以外ほとんど金を使わずにいたため、思った以上に資金を貯めることができた。 

 あれから一〇年。ミランダが健在であれば二十九歳になっている。


『もしもまだ娼婦を続けていたとしても、年齢的な面から昔よりも確実に人気が落ちているだろう。身請け金も当時より安く済むかもしれない』との友人の言葉を信じ、満を持してリカルドはミランダを迎えに行くため、再びこの街へと赴いた。


 しかし、リカルドは希望と同時に不安も抱えていた。


 ミランダがすでに売春業から足を洗い、堅気に戻っているとかであれば何の問題はない。むしろ手放しで喜んであげたいくらいだ。

 例え、堅気に戻った理由がすでに誰かに請け出されたというものであっても。彼女が今幸せなのかを確認できたなら。

 自分は何も言わずに大人しく引き下がるつもりだ。


 けれど、考えたくはないが──、もしもミランダがすでにこの世の人でなかったとしたら──?


 果たして自分はその事実を受け止められるだろうか。


 どんな形でもいい。

 ミランダには生きていて欲しい。


 リカルドが一番願ってやまないことだった。



 そして、満を持し、リカルドは一〇年振りにこの街の歓楽街を訪れる。真っ先に出向いた先はスウィートヘヴンだ。


 ところが、いざ扉を叩いてみると、三十代前後と思しき若店主(おそらくマダムの息子だろう)から「その女なら、六年ほど前に僕の母に暴力振るったので店を追い出した」とすげなく告げられてしまった。


「じゃあ、その後、彼女はどこへ行ったか知りませんか?」

「さぁね。追い出した女のことなんかいちいち覚えちゃいない。噂では、あちこち娼館や売春宿に移っては問題起こして辞めさせられている、とか、ちらっと聞いたような……」

「そうですか、わかりました。色々教えてくれてありがとうございました」


 どうでも良さげに欠伸を噛み殺す店主に一応礼を述べ、店を後にする。

 やはり、ミランダはまだ歓楽街で身を売る生活を続けているようだ。


 彼女が生きている可能性は高くなったが、それでも苦界であえぐ姿を想像すると胸がぐっと苦しくなる。一刻も早くミランダを見つけ出さなければ。リカルドは、歓楽街中の娼館や売春宿を手当たり次第に訪れてはミランダを探し続ける。


 そのかいあってか、ミランダを探し始めて五日目。

 今までで一番鄙びた様子の小汚い、古い売春宿を訪れたリカルドは、機嫌が悪そうに階段から降りてくる小太りの中年男に声を掛けた。


「すみません、この店にミランダという女性が働いていませんか?プラチナブロンドの髪に琥珀色の大きな目で、小柄な……」

「あぁ、あのアル中の性悪年増か?」


 リカルドの言葉を遮り、中年男は吐き捨てるように慇懃に答える。


「お客さん、物好きだねぇ。ま、金になるなら何でもいいけど」

「いくら払えばいいんですか?」

「あぁ、あいつは安いから……」

「違います。僕は彼女を抱きに来たのではなく、身請けしに来たんです」

「はぁ?!」


 男は素っ頓狂に叫び、目を引ん剝いてみせる。そんな男に構わず、リカルドは肩から下げていた頑丈な作りの茶色い大袋から、一回り小さく、それでいて中身がずっしりと詰まった袋を取り出し、男へと手渡す。


「これだけあれば足りますか?」


 男は袋の中身を確認すると益々取り乱し、「……あ、あんな女、この半分の金額で充分だ!!」と唾を飛ばし、またもや叫ぶ。


「……ほ、本当ですか?!」

「あいつは店にいても大して稼げないし、追っ払いたいばっかりだったからこの際、あんたが貰ってくれるなら喜んで差し出してやるさ!」


 男の言葉に色々引っかかりつつも、ミランダの部屋を教えられる。

 リカルドは不安と緊張を抱え、いつもより痛む左足を引きずりながら階段をゆっくりと上がっていった。







(2)

 

 祈りを捧げる時間が過ぎると、ミランダから穏やかな微笑みが跡形もなく消え去っていく。部屋の扉を叩く音が聞こえたせいだ。

 ミランダの顔つきはいつものきつくて陰惨なものへと戻っていた。


 さっき客が帰ったばかりだというのに、続けざまに客が訪れるなんて。今のミランダには珍しく喜ぶべきことなのに。

 しかし、今日はもう客は来ないだろうし、と、ゆっくり酒を飲むつもりでいた。

 細やかな楽しみに水を差され、忌々しげに扉を睨む。


「……さっさと入れば?」


 面倒臭い、と思っているのを全く隠そうともせず、扉に向かって言い放つ。すると、静かに扉が開き、一人の男が左足を少し引きずるようにして中に入って来た。

 ミランダとそんなに歳は変わらなさそうだが、腰のない茶色い髪にはところどころ白髪が混じっている。


 男は売春宿で女を買うことが初めてなのか、ひどく緊張していた。扉を閉めると気まずそうにその場に立ち尽くし、微動だにしない。

 ミランダは、扉の前で彫像のように固まって全く動こうとしない男に対し、露骨に苛々してみせる。


「いつまでそこで突っ立ってんこ?さっさと服脱ぐなり何なりしなよ」


 それでも男は一歩も動こうとしない。遂にミランダは、自分の方から男につかつかと歩み寄る。


「自分で脱がないなら、私が脱がしてやろうか?」


 くたびれたシャツの襟元を掴み、ボタンに手を掛けようとした時だった。

 ようやく男と目が合った途端、ミランダは思わず手を止め──、今度は彼女の方が硬直する羽目に陥った。


「ミラ。久しぶり」

「…………」


 痩せこけた頬。目尻や下瞼、口元に刻まれた小皺。随分面変わりしてしまっている。

 だが、優しさを湛えた深いグリーンの双眸だけはあの頃と何一つ変わっていない。


「……リカルド、なの?……」


 男は一〇年前と同じく一点の曇りもない、真っ直ぐな瞳でミランダに微笑み、ゆっくりと大きく頷いてみせる。


 ミランダは、琥珀色の大きな猫目を目一杯見開き、目の前に立つ男ーー、リカルドのぎこちない笑顔を、シャツの襟元を掴んだままでしばらく茫然と見つめ続けていた。気のせいか、シャツを掴んでいる両手がかすかに震えている。

 リカルドも彼女の手をどけようともせず、あえてそのまま黙っていた。


 どのくらいの時間、二人はそうしていただろう。


「……何で、あなたがここにいるの……」


 先に沈黙を破ったのはミランダだった。


 シャツから手を離し、リカルドを解放する。しかし、次に言うべき言葉が上手く紡ぎ出せず、再び口を閉ざす。





 生きていてくれて本当に良かった。


 もう二度と会えないだろう。ずっとそう思っていた。


 私のせいで酷い目に遭わせてしまってごめんなさい。





 どれも一〇年間抱え続けていた言葉達。だけど、今この場で口にすべきふさわしい言葉なのか、いま一つ自信が持てない。

 もっと他に言うべき言葉があるはずだ。


 リカルドは相変わらず黙ったまま、ミランダの言葉を待っている。

 一〇年前と変わらない、ミランダが愛したあの優しい笑顔を浮かべて。





 私はすっかり落ちぶれて、若さも美しさも失くしてしまったのに。

 彼は、彼だけは、変わらずに私を見つめてくれているーー。





「……ずっと、あなたに、リカルドに……、会いたかった……」





 ミランダの口から零れ出したのは、あのクリスマスの夜から心の奥底にずっとひた隠し、必死に忘れ去ろうとしていた言葉だった。

 一度言葉にした途端、長い間押し殺し続けてきた様々な感情が一斉に溢れ出し、ミランダはその場で泣き崩れてしまった。


 床にへたり込み、小さな子供のように泣きじゃくるミランダに何も言わず、リカルドは床に膝をつき(その際、左足が痛んだのか、顔を顰めたが)、小さな身体をそっと抱きしめる。


「……やっと、君を迎えに行く準備が整ったんだ。あれからーー、一〇年前のクリスマスの夜、僕は意識不明になるまで男爵の手下から暴行を受けたけど、奴らが去った後にある青年が僕を助けてくれてね。しばらくの間、彼の元で静養させてもらっていたんだ。怪我の後遺症は多少残ったけど、まぁ元気になったし、あの時に君と向かう筈だった場所……、以前話したウィーザーっていう港町に戻って、君を身請けするためのお金を必死に稼いでいた。ちなみに今もその街で働いてる。随分と時間がかかってしまったけど、今度は堂々と正面切って君を迎えに行きたかったんだ」

「……私は、あなたを酷い目に遭わせたのに?その足だって、あいつらにやられたんでしょ?」


 すでに目を真っ赤に腫らしているのに、ミランダは尚も泣きじゃくっている。


「そんなの、君が悪いんじゃない。君こそ、あいつに、あの男爵に人生を狂わされて僕の想像を絶する辛い思いを散々してきたんじゃないのか?」


 リカルドはパサパサに痛んでしまった長い髪にそっと触れる。まるで、壊れ物を大切に扱うような丁寧な手つきで。その変わらない優しさにミランダの胸が痛む。


「……そんな風に優しくしないで。私はあの頃以上に汚れてしまったし、年を取ってすっかり醜くなってしまったわ。身も心もね。おまけに、酒に溺れて手放せなくなってしまった、ろくでなしの売女なの」

「……違うよ。君は傷つきやすいきれいな心を守り続けていただけ。昔も今もずっと。もう君の雇い主に身請け金は渡したから、君は今すぐにこのまま僕と一緒にここから出ればいいだけ」


 リカルドと再会できただけでも、ミランダにはこんな奇跡が起きるなんて信じられず、喜びよりも戸惑いの方が大きいくらいなのに。彼は今すぐに自分を身請けするとまで言ってくれる。


 もしかしたら、私は幸せな夢を見ているだけなのか、と疑い、思いきり手の甲を抓ってみる。皮膚が突っ張り、じんとした痛みが走る。


 これは夢じゃない。

 現実なんだとはっきりと思い知らされる。


「今すぐだなんて……。再会したばかりなのに強引ね……」

「だって、このくらいしないとまた君と離れ離れになってしまう気がして。だから」


 リカルドは左足を庇いながらゆっくり立ち上がる。まだ座り込んでいるミランダの痩せ細った腕を取り、少年のように悪戯っぽく笑う。


「君は、ただ黙って僕についてきてくれば、それでいいんだよ」





 ーーあぁ、この人の笑顔には逆らうことなんて、私には絶対にできやしないーー





 リカルドに反発するのを諦めたミランダは呆れたように、それでいて少女のようなあどけない笑顔を浮かべて立ち上がった。こんな風に笑うなんて、一体何年振りだろう。


「……仕方ないね。そんなに言うならついていってあげる。でも、ちょっとだけ待っててくれない?」


 ミランダは大量の酒瓶を置いた丸テーブルから、やけに光沢を持つ赤い布地の小箱を持ち出す。それを目にしたリカルドは、あっ!と、声を上げる。


「まだ持っていてくれていたんだ」

「当たり前でしょ。だって、これは私の一番大切な宝物だから」

「せっかくだから、つけてみせてよ」

「え、それは無理。もうおばさんだもの。似合わないわ」

「そんなこと言ったら、僕だっていいおじさんだよ?じゃあ、あとで宿に到着したらつけてよ。それならかまわないだろ?」

「もうっ、分かったよ!リカルドは相変わらず押しが強いんだから!」


 リカルドに手を引かれて部屋を出る時にミランダはふと思い出す。

 そう言えば、今日はクリスマスだったと。


 素晴らしいクリスマスプレゼントを与えてくれた神様、本当にありがとう。


 ミランダは、心の底から神に対し、多大な感謝の念を送った。

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