第13話 折れていく翼①

 (1)


  聖なる夜、教会近くの広場で起きた暴行事件は瞬く間に街中の噂として流れた。


 その事件は目撃者が大勢いるにも拘わらず、警察が犯人を捕縛する気配が全く見受けられず。そのため、『男爵家のご子息様が関与しているかもしれない』こと、暴行の標的となった男女は一体何者なのかなど、様々な憶測が交わされ、 ミランダについても歓楽街を中心にまことしやかに噂が拡がっていく。

『ダドリー様の使い古し』と面白半分に、あるいは悪しざまに口にする者も少なくなく、リカルドとの仲を引き裂かれてこれ以上ないくらいに傷ついた彼女の心は少しずつ、ほんの少しずつだが、確実に蝕んでいった。


 やがて月日は流れ──、あの忌まわしい事件からもうすぐ十年が経とうとしていた。












「……てめぇ、もういっぺん言ってみろっ!!」


 男は女の長い髪をわし掴むと、女を座っている椅子ごと張り倒した。けたたましい音と共に女は床に投げ出される。 衝撃と痛みで顔を顰めつつ、倒れたままで顔だけを上げて男をきつく睨む。


「なんだ、その目つき……。この薄汚い売女がっ!!」

「おい、何やってんだ!やめろ!!」


 男が再び女の髪を掴み、拳で殴りつけようとした時だった。 

 無精髭を生やした小太りの中年男ーー、この売春宿の店主が慌てて部屋に駆け込んできた。男を取り押さえてくれたことで女は間一髪、殴られずに済んだ。

 男は中年男の腕を振り払おうとしばらく抵抗していたが、次第に大人しくなり、平静を取り戻したことで腕を放し、解放する。


「兄さん。うちの女があんたに失礼を働いて本当すんませんでした!!」

「この女が減らず口叩けないよう、なんとかしろよ」


 深々と頭を下げる中年男を見下ろしつつ、いささかバツが悪そうにしながらも男は乱暴にドアを開け、部屋から出ていく。


「お前、何をしでかした」

「『金さえ持ってりゃ、お前みたいな痩せっぽっちの年増のアル中じゃなくて、若くてきれいで従順な女を買う』なんてこと言うから、ついカッとなってさ。『稼ぎの少ないあんたが悪いだけだろ』って言ってやったんだよ!」


 女はよろよろと立ち上がり、倒れている椅子を戻すとドカッと音を立てて座り直す。中年男はおもむろに額に手を当て、はーーっとわざと大きなため息をつく。


「……お前、客と何回揉め事起こせば気が済む?この辺りで格式高い娼館の一番人気、男爵様のお抱えだったのはもう一〇年も前の話だろうが。今のお前の姿を見てみろよ!」


 女は座ったまま眉間の皺を一層深くさせ、中年男へ反抗的な視線を送りつける。

 かつては子猫のようで愛らしい、と謳われた琥珀色の大きな瞳は山猫を思わせる獰猛さのみを湛え。眉間に刻まれた深い皺、目の下の青い隈が陰欝そうにも見える。

 プラチナブロンドの長い髪は艶と輝きを失い、パサパサに痛んで箒のよう。白く滑らかだった肌も荒れ放題、美しい声も酒焼けでガラガラに嗄れてしまった。


「気難しい年増のお前は、ただでさえうちの売春宿じゃ元が取れない厄介者なんだよ。置いてやってるだけでもむせび泣いて感謝して欲しいくらいなのに、恩を仇で返すようなことばっかりしやがって……。いいか、今度揉め事起こしたら、すぐに叩き出してやるからな!わかったか!ミランダ!!」


 女――、ミランダのギラギラとした陰惨な目つきに対し、激しい怒りを含んだ目で睨み返すと、中年男は部屋を出て行く。

 中年男が出て行ったのを確認すると、ミランダは立ち上がり、ドアを思い切り蹴っ飛ばすも苛立ちは全然収まらない。ベッドサイドの小さなテーブルに並ぶ酒瓶から一本を鷲掴み、豪快にラッパ飲みする。

 勢いよく酒を口に流し込んだせいで、酒が唾液と共に唇の端からこぼれ落ち、だらしなく顎まで伝う。


「……そんなこと、自分が一番よーくわかってんだよ……」


 けっ、と小さく悪態をつく。汚れた口元を手の甲で拭い、また酒を煽る。

 この一〇年の間にミランダは酒に溺れるようになり、すっかり落ちぶれてしまった。


 いつからそうなってしまった?


 ダドリーがミランダの唯一の幸せを奪っておきながら――、すぐにその責任を放棄した。つまり彼女をあっさりと捨てたことが発端であった。








(2) 


 一〇年前のクリスマス、リカルドと共にこの街から飛び出して新しい人生を送ろうとしたのに。

 すべての行動はダドリーに筒抜けで、彼が差し向けた取り巻きたちにあえなく掴まってしまった。それだけに飽き足らず、取り巻き達はリカルドに酷い暴行を加えた。


 取り押さえられていたミランダは彼を助けることが出来ず、泣き叫びながらその様を成す術もなく見ているより他がなかった。受けたショックにより気を失い、気付けば自室のベッドの上で寝かされていた。

 次に目覚めると、ダドリーが冷ややかな無表情でミランダの様子を看ていた。


「やっと気がついたか。あの広場で気を失ったままお前は丸二日間、ずっと眠りっぱなしだった」

「…………」

「店を脱走した娼婦は罰として拷問を受けるらしいが、私の方から女主人に『私の所有物に傷をつけたくない』と言って、免除するよう話をつけておいてやった」

「…………」


 起きたばかりでまだ頭がぼんやりとしているものの、ダドリーが発した『私の所有物』という言葉に、ミランダは言いようのない嫌悪感を抱くと共に、開口一番こう尋ねた。


「……リカルドは……。彼は……、あれから、どうなったの……」


 リカルドの名を耳にした途端、ダドリーのコバルトブルーの瞳に益々怜悧さが増す。


「さあ。私の知ったことではない。生きているかもしれないし死んだかもしれない。生きていたとしても五体満足なのかも怪しいがな」


 ダドリーは皮肉めいた表情で嘲笑う。ミランダに向けてか、リカルドに向けてなのか。はたまた二人に対してか。 

 ダドリーの、寒々とする程の、美しくも冴え凍る冷たい笑みをこれ以上見ていたくない。ミランダは仰向けでベッドに横たわったまま、両掌で目元を覆う。


「……なんで、なんで私なの……。貴方なら、私の代わりなんていくらでもいるじゃない……」

「言っただろう。お前は、私にとって高級な珍しい猫だと」


 ああ、私はこの男にとっては愛玩動物なんだ。

 自分の都合で可愛がりもするし連れ歩いて他人に自慢もするが、噛みつかれたら容赦なく叩くし、飽きたら手の平を返しあっさり捨てるに違いない。

 いや、私のことは別にいい。それよりも……。


 リカルドと幸せになりたいなんて欲を出さなければ。大人しく身を引いていれば。

 彼は傷つけられずに済んだというのに。


 両掌で隠した大きな瞳から自然と涙が溢れていく。 ダドリーがまだ部屋にいるのに、ミランダは声を押し殺して嗚咽を漏らす。

 ダドリーはベッド脇の椅子に腰掛け、泣き続けるミランダをただ黙って見ていたが、聞き逃してしまいそうな程の小声で静かに。たしかに呟いた。


「……何がそんなに気に入らない……」


 その声色に、彼にしては珍しく切迫したものを感じた。思わず泣くのをやめ、掌をどけてダドリーの方を見やる。

 しかし、ダドリーはすでに椅子から立ち上がっていたため、表情を確認することはかなわなかった。だが、彼が初めて見せた(聞かせた)血の通った人間らしい態度であるには違いない。

 当のダドリーはと言うと、すでにミランダに背を向けて部屋から出て行こうとしていた。


 気のせいかもしれないが、彼の後ろ姿はどこか傷ついているようにも見えた。







(3)


 数日後、再びダドリーがスウィートヘヴンに訪れた際、彼は一人の壮年男性を伴っていた。マダムの許可を得た後、その男と共にミランダの部屋へ入室した。


「ダドリー、その人は?」


 ダドリーの一歩後ろに下がって佇む男は、これから長期旅行にでも出掛けるのかと思うような、大きな黒いトランクを手に抱えていた。


「今日限りでお前の元には二度と来ない。これはお前への手切れ金だ。受け取るがいい」



 一瞬、何を言われているのかミランダには理解できなかった。

 ダドリーに耳打ちされた壮年男がトランクのダイヤルをカチカチ回した後、見せつけるかのように中身を開く。大きなトランクいっぱいに詰め込まれた数えきれない程の量の札束を。

 ミランダみたいな下層の人間が一生お目にかからないだろう金額にしばし呆然となってしまう。


「お前とあの男の件に関する噂のせいでデメトリアとの結婚が早まることになってしまった。どんなにつまらない女だろうと伯爵家から降嫁する以上丁重に扱わなくてはならない。おまけにあれは嫉妬深いとくる。愛人を囲うなどもっての他ゆえ」

「私はもう用無しって訳?」


 ミランダは琥珀色の大きな猫目を細め、コバルトブルーの瞳を真っ直ぐ射抜く。


「平たく言えばそういうことになる」

「……あらそう。じゃあ、いずれ私は捨てられること前提での付き合いだったのね」


 別にダドリーに捨てられること自体はどうでも良い。

 むしろ、ようやく肩の荷が下りた、と、小躍りしたくなるくらい喜ばしい。


 でも、その程度の存在でしかなかった自分のために、酷く傷けられた(考えたくはないが、殺されてしまったかもしれない)リカルドを想うと、心臓を握りつぶされるような痛みに襲われる。窒息しそうなほど苦しい。。

 同時に、直接的でないにせよ彼を蹂躙したダドリーにふつふつと激しい憎悪が駆り立てられていく。 

 ミランダの激しい憎悪をダドリーも感じ取ったらしく(理由まで汲み取ったかは定かではないが)、いつにも増して冷たく言い放った。


「私が、お前のような汚れた売女を妻か愛人にでも迎えると思っていたか?身の程を弁えろ」

「…………」

「あぁ、そうだ。最後にトランクのダイヤルの暗証番号だが……」


 ダドリーから暗証番号を教えられたミランダの静かな怒りは、遂に頂点に達した。しかし、怒りで煮えたぎる心とは裏腹に、仮面のような無表情に変わっていく。ダドリーはミランダを満足そうに一瞥すると、壮年男を従えて部屋から出て行った。



 程なくしてダドリーは婚約者の伯爵令嬢と結婚。

 父から爵位を受け継ぎ男爵となり、ミランダの前には二度と姿を表さなかった。


 ちなみに手切れ金のトランクの暗証番号は『1225』

 ミランダにとって人生で一番辛い日付に設定されていた。

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