第26話 星の欠片が降ってくる③

  その日から、リカルドはミランダが仕事に行く時は終業時間を見計らい、迎えに行くようになった。

 夕暮れ時の寒空の下、店の正面ベンチでミランダを待つ。そんなリカルドの姿が日常光景となりつつあった、ある日のことだった。


 仕事を終えたミランダが、いつものように店の裏口から外へ出て行く。

 今日は忙しく、普段より終わるのが少し遅くなり、リカルドを長く待たせている。身体をすっかり冷やしてしまっただろう。足の痛みが増していないといいけれど。

 急ぎベンチまで駆けていき――、ミランダはその場で足を止めてしまった。

 ひとりの若い娘が、リカルドにやたら絡んでいる光景が目に飛び込んできたからだ。


 娘はくたびれたブラウスのボタンを三つ目まで外し、痩せた胸元をリカルドに見せつけ、しなだれかかろうとしている。

 リカルドはさりげなく娘の動きを避け、誘いを拒む。にも拘らず、娘は彼にしつこく言い寄り続ける。


 街娼かなんだか知らないが……、ミランダの怒りが徐々に込み上げていく。


 憤然と近づいてきた妻にリカルドの顔色がさっと青くなる。対照的に、娘はミランダを面白がってか、挑発するようにわざとリカルドの腕に寄り掛かってさえしてくる。(リカルドはすぐに避けたが)


「この人私の亭主なの。悪いけど他当たって」


 ミランダは自分よりも頭一つ分以上は背の高い娘を鋭く睨み上げ、腕を組んで努めて冷静に告げた。

 しかし、娘は小さいけれど獰猛な山猫を思わせるミランダの眼力にと一切臆さない。肩を竦めてみせる余裕さい見せつけてくる。


「やだやだ、そんなムキになって目くじら立てんなよって。ババアの嫉妬はみっともないなあ」


 娘はスラリとした長身でしなやかな身体つきだが、雀斑が散った顔は意外に幼い。せいぜい十三、四歳といったところか。

 大人ぶった蓮っ葉な口調も、どうにも背伸びしている感が否めない。


 娘が成人女性ではなく年若い少女だと見抜くと、ミランダはまともに相手するのが馬鹿馬鹿しくなってきた。それまでの怒りが嘘のように落ち着きをみせていく。


「私からしたら、まだ乳臭いほんの小娘が無理して大人ぶっている方が面倒臭いけど。というより、とてつもなく滑稽よね。どうせまだ十五にも満たない子供でしょ。悪いこと言わないから売春なんてもう辞めな。だいたいね、子供を買うのは犯罪。犯罪承知であんたを弄ぶ大人なんてロクな奴じゃない」


 言いながら、自身の過去を思い出してしまう。胸糞悪いったらありゃしない。


「一度娼婦に身を堕としたら最後、一生娼婦としてしか生きられなくなるよ?売春地獄から抜け出したくても抜け出せな……」

「うるせーんだよ!!」


 娘の掌がミランダの頬を強く打った。


「ミラ!」


 勢いで身体の均衡を崩しかけ……、リカルドが手を伸ばして支えてくれたので何とか倒れずに済む。

 妻に暴力を振るわれ、普段は温厚なリカルドも怒り心頭。娘を怒鳴りつけようとしたが、ミランダがそれを制す。


「ごめん。リカルドは黙ってて」

「おばさんはいいよね!そうやって庇ってくれて、面倒見てくれる優しい旦那がいてさ!!アタシなんて、父ちゃんも母ちゃんも死んじまって、誰も助けてくれる人がいないんだよ!だから、身を売るしかなくないのに!!わかったような口利いてんじゃねぇ、くそばばぁ!!」


 少女は先程の余裕などどこへやら、ミランダに対して口汚い罵声を叫び散らした。


「そうね、たしかにあんたは可哀想な娘だよ。でもね、身を売ろうと考える前に、他に生計立てる方法がないのか、ちゃんとよく考えてみた?ウィーザーは開放的な街だし、女一人でも充分生活できるだけの給金が貰える仕事は探せば絶対見つかるはず。例えば、今目の前にある、私が働く洗濯屋もそう。私は週に四日しか働いていないけど、安息日を除いて毎日ここで働けば路上で売春するより高い給金が稼げる。それなりに仕事内容はきついけどね。娼婦、特に街娼が身を売る理由に生活苦が挙げられるけど、私からすると本当に?単に、根気に仕事を探すよりも身体を売る方が手っ取り早いからじゃないの?って疑問に感じるね。真面目にコツコツと働くより、身体を売る方が楽だって安易な考え方をしてると痛い目に遭うからね」


 これは、ミランダが十九年に及ぶ娼婦生活を送ってきた経験に基づいたもの。

 ミランダのように自分の意思とは関係なく身を売らされていたならともかく(最も十九年の半分は、自身の意地と諦観のせいでもあるが)、自ら進んで娼婦となる以上、それなりの覚悟が必要。


 しかし、まだ子供とはいえ、この少女にはその覚悟が全く足りていないように思う。

 その証拠に、先程までの威勢はどこへやら。ミランダの言葉に反論の余地がないのか、苦々しげにつぶらな青い瞳で睨んでくるのみ。


 だが、ようやく口を開いた少女が発した、俄かに信じがたい言葉に、ミランダは耳を疑った。


「……身を売るのはたしかに嫌だけど、それ以上に堅気の仕事なんかしたくねぇ。だってよ、ここは港町だぜ?船の乗客の中に金持ちや貴族様がいるかもしれないし?そういう連中がさ、アタシを買ってくれる可能性だって、あるかもしれないじゃん?うまくいけばさ、アタシに同情して囲ってくれるかもしれないじゃん?そうすりゃよ、三食昼寝付き、毎日間食付きの贅沢三昧な暮らしが送れるじゃん!堅気の仕事じゃあ、金持ちに気に入られる機会になんて恵まれないだろ?!」


 この娘、正真正銘の大馬鹿者か?


 少女の、どこまでも安易で軽率で愚かな考えに、鎮まったはずのミランダの怒りは再び頂点に達した。


 ミランダは無言で少女の腕をガッと勢い良く掴み取り、有無を言わさずその場から引っ張っていく。腕に爪が食い込んでいるような気もするが、この際どうでもいい。


「放せよ、ばばぁ!どこへ連れてくんだよ!!」


 少女は当然のごとく激しく抵抗し、ミランダの手を振りほどこうとするがびくともしない。それどころか掴む力が益々強まっていくばかりで、足を踏ん張って見せてもあえなくズルズルと引きずられていく。

 子供と見紛う、この小さな身体のどこに、自分よりも大柄な人間を強引に連れ去るだけの力があるのか。


「いい加減にしろよ!人攫い!!」

「うるっっっさい!!!!!」


 ミランダの鬼気迫る形相、酒焼けが原因によるしゃがれた声での恫喝。

 ミランダの激しい剣幕に、少女も大人しく引っ張られるがままとなった。


「ミラ、もしかして……」


 ミランダと少女の歩みにようやく追いついたリカルドが、機嫌を伺うように怖々と尋ねようとした言葉。

 いち早く察したミランダは、その言葉に被せるようにぶっきらぼうに答える。


「この小娘を家に連れて帰る。甘ったれた性根をここぞとばかりに叩き直してやるんだからっ」

「……たぶん、そのつもりだろうとは思った……」


 リカルドは杖をつきつつ、フゥ、と息を吐く。


「ごめんなさい。勝手なことをして」

「もう慣れっこだし、今更気にしてないよ」

「うっ……」


 リカルドの諦めたような、それでいて痛烈な言葉に、ミランダはすかさず目を逸らす。


「……小娘じゃねぇ……」


 ふいに少女が、ぽつりと呟く。


「何?何か言った?!」

「小娘じゃねぇ、つったんだよ!アタシにはスターって名前があるんだよ!!わかったか、くそばばぁ!!」

「私もくそばばぁじゃない、ミランダって名前があるんだけど。名前を覚えてもらいたかったら、そっちも人の名前をちゃんと覚えな。ねぇ?スター」


 唐突に名を呼ばれた少女ーー、スターは気恥ずかしかったのか、言葉を詰まらせてしまう。その姿が妙に可愛くて、ミランダは微かに笑みを漏らした。

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