第27話 星の欠片が降ってくる④
(1)
あれはミランダがルータスフラワーを追い出され、更に格下の売春宿で働くようになって間もない頃だろうか。
その夜、ミランダは客引きに出向いたものの、すべて空振りに終わっていた。歓楽街の雑踏の中、表通りを一周してさえも自分を買ってくれる男が見つからない。
時間ばかりが無駄に過ぎていく。
今の自分が身を置く売春宿の店主は口煩いだけでなく、暴力に訴えることも厭わない下卑た男だった。このまま客を連れず、のこのこ帰ったら何をされるか、分かったものじゃない。
焦りと苛立ちばかりが募っていく。
二十代も後半に差しかかり、美貌が少しずつ衰え始めてきた。そのせいか、近頃は客が捕まらない日が続くこともザラではあった。
無性に酒が飲みたくてしかたない。
客引きにかこつけ、適当な酒場に入ろうか、否、危険を承知で裏通りまで出向くか。
ぐるぐると思案を巡らせている内に表通りから外れた場所ーー、とうとう裏通りとの境まで足を進めてしまっていた。これはもう、裏通りで客引きをしろという導きかもしれない。
歓楽街の裏通りは多くの浮浪者や犯罪者の巣窟と言われるだけに、長年ここで暮らすミランダでもできれば立ち入りたくない場所。
だが、店主に散々怒鳴り散らされたあげく、殴られるのも堪ったものではない。
ミランダの額から冷たい汗がすうっと滲みでてくる。晩夏とはいえ、まだまだ暑さが残る時期。汗が噴くのは何ら不思議なことではないが、これは恐怖心からの緊張によるもの。
怖気づく気持ちを奮い立たせ、腹を括って裏通りへと続く路地へと足を踏み入れたーー、が、すぐに歩みを止める。
ミランダが入り込もうとした、廃墟と見紛う程に鄙びた建物と建物の隙間から、人の気配を感じたのだ。
人数は二人。漏れ聞こえてくる声から判ずるに、一人は年配の男。しかも酩酊状態の酔っ払いとみた。もう一人は若い女だ。
深夜に、こんなうらぶれた場所を出歩くなんて、ミランダと同じ娼婦としか考えられない。自分と同じく裏通りで客を引こうとして、質の悪い酔っ払いに絡まれてしまったに違いない。
危険を気にしつつ、ミランダは二人から死角となる場所に身を隠し、様子を窺う。
女は脅えつつ、毅然とした態度で抵抗し続けている。が、男の力に敵うはずもなく、壁に押し付けられてしまっている。このままでは男に強姦されてしまう。
現に、男は「誰にでも股開くくせに気取るんじゃねぇよ!一発くらいタダでヤラせんか!!」などと喚き散らしていた。
誰にでも身体を許すのは、見返りとして金銭のやり取りがあればこそ。
そうでなきゃ、誰が好き好んで誰とでも寝たりするもんか。
男の発言に腸が煮えくり返り、憎々しげにチッと舌打ちする。直後、彼女の横を大きく白い影がサッと通り抜け、一目散に男と女の元へと駆け出していく。
影が通った後、煙草と麝香の香りがかすかに漂い、ミランダの鼻腔を掠めた。
その影が間近に迫ると、壁に押しつけられていた女は目を見張り。男は顔面蒼白となり、慌てて女から身体を離したが時すでに遅し。白い影ーー、三つ揃えの白スーツを纏う、長身男性の長い脚によって酔っ払いは蹴り倒された。地に伏した酔っ払いを白スーツは尚も容赦なく蹴り続ける。
「ハル!これ以上は止めて!!死んじゃう!!」
壁に後ろ手をつき、身体を支えていた女が悲痛な声で叫ぶ。すると、それまで狂気さえ漂わせていた男はぴたりと動きを止めた。
しかし、起き上がることすらままならない酔っ払いを冷ややかな目で見下ろし、ドスの利いた低い声で呼びかける。
「おい」
酔っ払いは返事をしない。厳密には、痛みと恐怖で口すら利けないでいる。
「お客さんよぉ、金を払ってこいつを抱く分にはかまわん。好きにしろ。それがこいつの仕事だからな。けどよ、金を払わずして……ってならタダじゃおかねぇ。こいつに指一本足りとも触んな。絶対にだ。わかったか?……あん?聞こえねーぞ。返事は?」
酔っ払いは返事の代わりに、地面に顔を擦りつけてはこくこくと何度も頷いてみせる。白スーツは血走った目で酔っぱらいに一瞥を送ると、険しい顔つきのままに女のそばへ。
女は男に怒鳴られるか、もしくは叩かれるかの覚悟を決め、ギュッと目を固く瞑り身を竦ませる。
しかし、白スーツは女を怒鳴るでも殴るでもなく、大きく嘆息した後彼女の身体を強く抱きしめたのだった。
予想外の反応に吃驚した女が目を白黒させていると、「裏通りには行くなって、いっつも言ってんだろが……!このバカッ!!」と、男は女の身体を抱く力を益々強めていく。
「ごめんなさい。どうしても、客が掴まらなくて……」
「そういう時はこっそり俺に言えよ!今回は無事だったから良かったものを……」
男はそこで言葉を唐突に切った。
「……おい、覗き見とはいい趣味してんなぁ。『男爵様の囲い者』ミランダさんよぉ」
「失礼だね。こっちは好きで見てた訳じゃないんだけど?裏通りに行こうと思ったら、その女とあんたが派手に転がした酔っ払いがひと悶着起こしてるところに偶然出くわしただけなんだけど。あと、その通り名で呼ぶの止めてくれない?あの男に囲われていたのはもう六年も前の話だしね」
白スーツに鋭く睨まれたミランダも、負けじときつく睨み返す。
「そりゃ悪かったよ。以後気をつける」
「意外と聞き分けいいのね。助かるよ、サリンジャーさん」
「代わりと言っちゃなんだが、今夜の件は内密にしてくれ。交換条件だ」
「かまわないけど、何を黙ってればいいのさ?見ず知らずの酔っ払いに暴行加えたこと?その女があんたの情婦だってこと?それとも、あんたがこっそりその女を買おうとしていること?」
「あぁ?全部に決まってんだろ?」
男はミランダのもったいつけた物言いに苛立ち、語調を荒げる。
この男、黙っていれば端正な甘い顔立ちでなかなかの色男なのだが、どうにも口が悪すぎる。相当柄の悪いチンピラにしか見えない。
「はいはい、わかったわかった。全部黙っておいてあげる」
ミランダはさもめんどうだと手をひらひらさせ、「まぁ、せいぜいお姫様と仲良くやれば??じゃあ」と、表通りへと踵を返す。
あの白スーツーー、ハロルド・サリンジャーという男は若さに似合わずやり手のポン引きだ。歓楽街でも遊び人で有名なのだが、近頃じゃ女関係の噂がめっきり途絶えていた気がする。
その原因が、まさか自分の店の娼婦と恋仲にあったことだったとは。
泣かせた女は数知れない色男を射止めるなんて、なかなかやる……、などと、考えながら歩いていると、遠くから自分を呼ぶ声が。
その声につられて振り向けば、さっきの女が必死で追いかけてくる。
ミランダが立ち止まると、程なくして女が追いついてきた。はぁはぁと息を切らす女をさりげなく値踏みしてみる。
女は思ったよりもずっと小柄だった。(とはいえ、ミランダと比べたら少し高いが)
きめ細やかな白い肌に亜麻色の長い髪。エメラルドグリーンの大きな瞳が印象的だが、決して美人だとか綺麗という類ではない。そばかすが目立ち、おっとりと大人しそうな雰囲気も相まって、正直地味である。外見的な面ではあの派手な男とは釣り合っていないような。
「何の用?」
ぶっきらぼうに問えば、女はややたじろぎ、「……あ、あの……」と言葉を詰まらせながらも二の句をつぐ。
「ありがとうございます!ハルと私のことを誰にも言わないって、約束してくれて助かりました!!」
「別に、礼を言われる程のことでも?……まさか、それだけのためにわざわざ走ってきたの?」
「あ……、ごめんなさい……!もしかして迷惑でした?」
女の大きな瞳は不安気に揺れている。
「いや、迷惑とかではないけど……」
「じゃあ良かった!ハルにもやめておけって言われたけど……、どうしても伝えたかったから!」
呆気に取られているミランダにかまわず、女は満面の笑顔を浮かべた。その笑顔は、青空に輝く太陽のように明るい。
もしかしたらあの男は、この女の純真さと天真爛漫な笑顔に惚れ込んでいるのかもしれない。
かくいうミランダも、彼女の無邪気な笑顔を見て、常にささくれだっている心が和んだ。更には、本来は商売敵にも関わらず、彼女と仲良くなってみたい、と、柄にもなく思ってしまった。
「私はミランダ。あなたの名前、教えてくれる?」
「アドリアナ。みんなはアダって呼んでるわ」
「そう。じゃ、私もアダって呼ばせてもらうの。今後はよろしくね」
ミランダの言葉にアダは再び微笑む。その笑顔に影響されたのか、ミランダも珍しく穏やかな笑顔を見せた。
(2)
「……けどね、アダは次の年……、秋だったと思う。その当時歓楽街を恐怖に陥れた通り魔に殺された。そいつは娼婦ばかり狙っては、目を背けたくなる程残忍な殺し方をしてた。中でもアダは一番
長年の夢が叶うのを目前に控えながら無残な死を遂げた友人に想いを馳せ、熱くなった目頭を指先で押さえる。ミランダを気遣うように、隣に座るリカルドがそっと肩を撫でさする。
沈黙に包まれた自宅の居間。用意した紅茶が冷めていくが誰も手をつけようとしない。
ミランダとリカルドが着席するテーブルの正面、股の間に両手を挟んで座り、力無く項垂れている少女ーー、スターも例にもれず。
洗濯屋で起きた一悶着後、リカルドに宣言した通りにミランダは、スターを強引に家へと連れて帰った。
若さと無知ゆえの浅はかな理由で身を売るスターに、ミランダ自身の境遇を始め、周りにいた娼婦たちの境遇、それぞれが迎えた悲惨な末路を滔々と彼女に語るために。
「何をどう勘違いしているか知らないけど、娼婦はお姫様や貴婦人になんか決して成れない。そんなのはただの夢物語でしかないの。一度娼婦に身を堕としたら、大抵の者は死ぬまで売春地獄から抜け出せなくて惨めに朽ち果てて野垂れ死ぬ。アダのように……、娼婦というだけで命が軽んじられ、無残に殺されてしまったりもする。今の私が平凡な主婦として暮らせるのも、亭主が迎えに来る前に病気にも罹らず殺されもしなかった運の良さにたまたま恵まれたからってだけ。もう一度だけ言うけど、スター。売春なんてもう辞めな。あんたには幸せになれる可能性が充分あるのに、わざわざ自分の手で潰そうとしないで」
スターは伏せていた顔を上げ、ミランダとリカルドを交互に見比べる。そのつぶらなマリンブルーの瞳には、反発の色はすっかり消えていた。
五歳から二十九歳まで苦界を生き抜き、数々の修羅場を潜り抜けてきたミランダの話が持つ圧倒的な説得力を前に、何も言葉を返すことができずにいるのだろう。
「おば……、ミランダは、アタシの母ちゃんになってくれるのかよ?」
沈黙の重苦しい空気に耐えかね、スターはやや遠慮がちに口を開く。
「悪いけど、あんたの母親になるつもりなんかないよ」
突き放した言葉にスターは傷ついた顔を見せたが、ミランダは続ける。
「けど、あんたがちゃんと自立できるように最大限の協力はする。しばらくの間、私たちと暮らして家事を一通り覚える。家事を覚えたら、住み込みで働ける場所を探す。私やリカルドも手伝うから」
「何で……、アタシなんかにそこまでしてくれるのさ」
「さぁね、私も何でだかわからない。ただ、あんたを見ているとさ、昔の自分を見ている気になるんだよ。無謀な夢を見ていた頃の自分とね。きっと、あんたを手助けすることで昔の自分を救いたいのかも……って、何気に酷いこと言ってるね、私」
自嘲気味に、力無く口元を緩めるミランダに対し、スターがおどけたように鼻を鳴らす。
「へっ、別に、正直でいいんじゃねぇ?『あんたの為を思ってしてあげるんだ』って、恩着せがましく言われるよりはよっぽどマシだぜ」
思いがけないスターの言葉にミランダは目を丸くし、苦笑を漏らす。
「そう思ってくれたならいいんだけど。でも、その男言葉はいただけないね。まずは言葉遣いから叩き直さなきゃ」
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