第22話 幸福に潜む光と影②
(1)
三年の月日が流れた。
ミランダは玄関の前に散らばっている落ち葉を箒で掃いていた。
家の付近には目立った樹木は見当たらないのに、どこから飛ばされてくるのか。そうぼやきたくなる程、家の周辺が落ち葉だらけになるので毎日掃き掃除している。
港町のウィーザーは年中強い海風が吹く。特に冬場は
でも、あと少しで粗方落ち葉を片付けられる。冷えと痛みで手が動かし辛くなりつつ、作業を続けていると、近所に住む知り合いに呼びかけられた。
「奥さん。今日も精が出るねぇ」
「あら、ティボルトさん。こんにちは」
ミランダは箒を握りしめたまま、男に向かって会釈する。
「この間修理に出した時計を引き取りにお邪魔したんだけど、リカルドはいるか?」
「今日も部屋に籠って作業してるよ。良かったら、寒いし家に上がってください。すぐに温かいお茶を用意するから」
手早く落ち葉を塵取りで集め、男を家の中へと案内する。
「ティボルトさん、お待たせ」
ミランダがお茶を用意している間に、リカルドは男が修理に出した懐中時計を持って居間に姿を現した。
男はリカルドから懐中時計を受け取るとまじまじと眺めた後、感心しきりと言った体でうんうんと一人頷く。
「さすが、リカルドは腕が良いねぇ。前に他の職人に出したら修復不可とか匙を投げられたのに」
「うーん、どうかなぁ?僕がついていた親方さんのやり方を引き継いだだけだけどねぇ」
「謙遜するなって。腕が良いだけじゃなくて人柄も良い。だから商売も繁盛するんだろ」
そう言って、男は今し方ミランダが淹れたお茶に口をつける。
「それと、美味い茶を淹れてくれる別嬪の女房もいるし」
「イヤだ、ティボルトさんてば!こんな年増掴まえて何言ってるの」
「いやいや、本当だぜ?奥さんのことはリカルドの美人妻って近所じゃ評判なんだから」
ミランダはティーポットを持ったまま苦笑を浮かべてみせる。
若い頃と比べたら美貌は数段衰えた。でも、結婚後これまでとは違う苦労味わいつつ、幸せであることには変わりない。
酒や煙草も今の所断っているし心身の状態が安定しているせいか、本来の美しさを取り戻しつつあった。
「あとは子供さえいれば言う事ないけどなぁ。お前さんたち、結婚してもうすぐ四年だろ?もうそろそろ、一人くらいどうだ?」
ミランダの笑顔が瞬時に凍りつき、かろうじて口元に笑みを張りつかせている状態に陥った。
男の言葉に悪意の欠片もないことは充分に理解できる。ここで怒ったり傷ついた表情を見せるわけにはいかない。
「まぁ、こればかりは授かりものだし……。その内でいいかなぁ、って」
リカルドが穏やかな、それでいていつもと比べたら曖昧な笑顔で言葉を濁す。
「そうは言ってもなぁ。お前さんももうすぐ四十だし、年食ってからの子育ては大変だぞ?」
話題を変えたがっている二人にかまわず男は尚もたたみかける。
一度熱くなると相手の顔色を無視して長々と語り出す性質らしく、自分や周りの人間の経験を元に子育てに関する話を延々と続けた挙句、「奥さんも、リカルドの為に一人くらい産んでおけよ」と、とどめの一言をミランダに発してようやく帰っていった。
(2)
「ミラ、ごめん」
男が帰った後、二人分のティーセットを流し台まで運ぼうとするミランダの後ろ姿に向かって、リカルドが小さく謝る。
リカルドを安心させようと、ミランダは彼の方を振り向いてにこりと微笑んでみせる。
「リカルドが謝ることじゃないよ?それに、ティボルトさんだって親切心で言ってくれただけだし、私は全然気にしてないから。あ、そうそう!子供と言えば!昨日シーヴァから手紙が届いてね、二人目が出来たんだって。上が男の子だったから、今度は女の子が生まれるとちょうどいいね、って、返事したよ。でも、健康な子が生まれることが一番だけどね」
努めて明るい口調で妹分の朗報を喜々として語ってみせたが、リカルドの表情は曇ったままだ。
「……誤解しないでね。あの子が、好きな人と結婚して幸せな家庭を築いていることが、私にとっても凄く嬉しい事なんだ。そりゃあ、羨ましい気持ちが全然ないとは言い切れないけど、私も私で今の生活は幸せだと思ってるの。本当だよ。嘘じゃない」
「……ミラ……」
ミランダはリカルドに切々と、嘘偽りない正直な心情を吐露する。しかし、それでも重苦しい空気は変わらない。
だが、そこをどうしても変えたくて、わざとらしいくらい声の調子を更に明るくさせ、話題をガラリと変える。
「それはそうと……、あのお金がまた貯まってきたことだし!今度の旅はどこへ行く??私ね、ちょっと気になっている場所があるの」
「……え、あ……、ミラの行きたいところってどこ??」
ミランダが街、というより、その村の名前を出すと、「あぁ、この国で特に有名な美しい湖水地方の村だね。僕も行ったことないから興味あるし、今度はその村に行ってみようか」と、ようやく彼らしい、穏やかな笑顔を見せてくれたので、ミランダが心底ホッとした時だった。
胸の辺りが急にむかむかと焼けつくような気分の悪さを覚えた。まるで、酒を飲み過ぎた後のような。もう三年以上酒は口にしていないのに。
そう言えば、今月に入ってから月のものが少し遅れている気がする。
まさか、でも……。
結婚して早四年が過ぎ、今では半分以上諦めかけていたのに……。
ミランダの中で、小さく消えかかっていた希望の灯が、再び大きく炎を点し始めた。
(3)
数日後。
ミランダは、診療所の寝台に寝かされていた。
医者による触診とはいえリカルド以外の男の前であられもない格好を見せるのは少々抵抗を覚えたが、そこはグッと堪えて大人しく羞恥に耐える。
診察が終わると、寝台から起き上がったミランダは医者と向かい合った状態で椅子に座った。
「ベイルさん。残念ですが、今回あなたは妊娠していませんでした」
医者から告げられたのは、ミランダの予想を見事に裏切るものだった。
「……え……、でも、悪阻のような症状がここ数日続いてました。それに、月のものも来る気配が……」
「あぁ……、それは……。もしかしたら、想像妊娠かもしれません」
「想像妊娠……?」
「えぇ。妊娠を望む気持ちが強すぎる余り、本当は身籠っていないにも関わらず、あたかも妊娠したかのような症状が身体に現れる、というものです」
つまり、この数日の吐き気や生理の遅れは、己の妄想がもたらした身体の異変ということ?
呆然とするミランダに向けて、医者は少し言い辛そうにしながらも、更なる衝撃的な発言をした。
「それと……、大変言いにくいことではありますが……。ベイルさんの卵巣は発育不全のせいか……、妊娠できない体質のようです」
脳天に稲妻が落とされ、爪先まで突き抜けるような衝撃が全身を瞬く間に走り抜けていく。
目の前で眼鏡を冷たく光らせながら、事務的に話すこの男は一体何を言っている?
なぜミランダの身体に問題があるのか。医者は納得させるために延々と理由を話してくれているようだが、右から左で頭にちっとも入ってこない。いや、理由などこの際、はっきり言ってどうでも良い。
子供が産めないという事実の前では、理由など何の意味も成し得ないのだから。
その後、どうやって診療所を出て、家路を辿ったのかをよく覚えていない。
我に返った時には台所の隅で、三年以上振りにドライジンの瓶に口をつけていたことだけはたしかだった。
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