第21話 幸福に潜む光と影①
(1)
ミランダとリカルドが奇跡的な再会を果たし、ウィーザーという港町で共に暮らし始めてからもうすぐ一年が経過しようとしていた。
オーブンの中から焦げくさい臭いが漂ってきて、瞬く間に台所中に充満していく。
嫌な予感と共におそるおそる竈の鉄扉を開くと同時に、ミランダは肩をがくりと落とす。
「……ああぁぁぁぁぁ……、やっぱり……」
オーブンの中にはシェパーズパイ、いや、シェパーズパイだったものが鎮座している。だったもの、というのは、表面を覆うマッシュポテトが石炭と見紛う程真っ黒に焦げつき、見るも無残な姿に変わり果てていたから。
「また、失敗した……」
ハァァーー、と深い溜め息をつきつつ。ひとまずパイもどきを外へ出さなければ、と思っていたら、台所の隣の作業部屋からリカルドが姿を見せた。
「……ミラ、何か凄く焦げ臭いんだけど……」
「……ごめんなさい、また焦がしちゃった……」
「まぁ、表面を削り取れば食べられないことはないんじゃないかな」
リカルドは苦笑しつつ、落ち込むミランダを慰める。
「まぁまぁ。今回は失敗したかもしれないけど、前に比べれば随分料理できるようになってきてるんだからさ。ね?」
「……うん……」
「オーブンから出火でもしたかと思って心配したけど、そうじゃなかったからちょっとホッとしたよ」
リカルドは火事を気にして様子を見に来てくれたらしい。
その優しさに感謝はすれど、時折胸の奥がもやついてくる。
リカルドと結婚するまで家事なんてまともにしたことがなかった。そのため、結婚当初ミランダは慣れない家事に毎日悪戦苦闘を繰り返していた。加えて、三十年近くずっと過ごしてきた街から見知らぬ街ウィーザーでの暮らし。
その上アルコール依存症を抱えているせいで心労が溜まり、時折発狂しそうになる程日々の全てが嫌になってしまう時が度々あった。
リカルドはそんなミランダを支えるべく、ずっと続けていた酒場の仕事を辞め(朝の郵便局の仕事は結婚した時点で辞めている)、自宅で作業する時計職人の仕事一本に絞った。
収入は減ったが食べていくには困らなかったし、彼女の傍にずっと付き添える環境を作る方が大事だったから。
家事が思うように出来なくても決して責めることは一切なく、逆に手助けてしてくれる。
リカルドはアルコール依存症を克服するためにある提案をミランダに持ち掛けてきた。
それは『酒を買ったつもりで、ミランダがよく飲んでいたドライジン一本分の小銭を毎日溜めていく』というもの。
その日アルコールを口にしなかったら寝る前にカレンダーの日付に丸印をつけて小銭を専用の入れ物に入れる。
もしもアルコールを口にしてしまったら、カレンダーにバツ印をつけて小銭は入れない。
酒を飲まなければそれだけお金が貯まっていく。ある程度のお金が貯まったら二人で旅行に出掛ける資金に回す、という目標も立てている。
子供じみた案ではあるが、その案を出されてからのミランダは酒を口にしないように頑張り続けている。
『国中の街を全て旅したい』という夢を捨ててまで、自分のために身を粉にして一生懸命働き続けてくれたリカルドに少しでも報いたい。
その強い想いが、ミランダを突き動かしている。
それともう一つ、近頃のミランダはある願望を抱いていて、それを叶えるためにはどうしても依存症を克服しなければ、と、切実に考えるようになっていた。
(2)
謎の黒い塊と化したシェパーズパイをオーブンからテーブルへと移す。焦げた表面をナイフで削り取りながら、ミランダは数日前にシーヴァから送られてきた手紙の内容を思い出していた。
シーヴァとは一年前、リカルドと再会直後に寄ったヨーク河での氷上市にて偶然にも再会していた。以来、シーヴァとは手紙でお互いの近況報告を頻繁に交わしている。
先日、シーヴァから送られてきた手紙には初めての子供を授かった、という報告がなされていたのだ。前回の手紙で結婚したと報告を受けたばかりだったのに。
可愛い妹分からの大変喜ばしい報せ。
心からの祝福の言葉を手紙に綴ると同時に自分もリカルドとの子供が早く欲しい、と焦りが募る。そのためにも健康な身体と心を取り戻さなければ。
まだ十代のシーヴァとは違い、ミランダはすでに三十を過ぎている。決して若いと言えないからこそ、尚更早く子供が欲しかった。
リカルドは、『子供は授かりもの。無理してまではいいよ』と言うけれど、自分の子が産まれたらとても可愛がるだろう。必ずや良い父親となる。
ミランダ自身も長く苦界に生きたからこそ、一般的な温かい家庭というものに、結婚してからというもの憧れが大きくなっていた。
リカルドと二人での暮らしも楽しいけれど、更に子供が加われば。
きっと、もっと幸せに満ちた生活になるに違いない。
だから酒が無性に飲みたくて苛々する時があろうと、ミランダはまだ見ぬ我が子の姿を想像しては、必死に耐え続けていた。
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