第11話 籠の鳥④
(1)
過ぎた話など思い出してもしかたない。
ミランダは気を取り直すと、蝋燭の朧げな光を頼りに、中断していた読書を再開する。児童書くらいなら本を読めるようになっていた。
ちなみに今読んでいる本は、ケチで強欲、冷酷で非情な人物として周囲から嫌われている男の元に、クリスマスに現れた三人の幽霊によって男が改心するという話だ。
この話の主人公とダドリーはよく似ている気がする。
ダドリーの元にも三人の幽霊が現れればいいのに。そうすれば自分が世界の中心かのような傲慢さ、冷徹さが少しはマシになるかもしれないのに──、などと子供じみた発想をしつつ、なにをバカな、と自身に呆れた。
こんなつまらない事を考えてしまうのは、今日がクリスマスだからに違いない。
前日のクリスマスイヴとクリスマス当日だけ、マダムは店の娼婦たちに自由行動を許している。
大半の女たちは恋人や情夫、馴染み客と外で過ごしたり、家族がいる者は家に帰ったり。女たちのかしましい声で溢れ返る店もこの二日間だけは静まり返る。
そんな中で今年もミランダはただ一人、静かに二日間を過ごしている。
今までも仕事と私生活を混同させたくなくて、店以外で客との逢瀬は一切してこなかった。ダドリーも家族との晩餐会でこの二日間に限っては来店しない。
だから、例年通り今年も教会のミサに参加する予定だった。もう少ししたら出掛けるつもりでいる。
本を読み終え、教会へ出掛ける支度を始める。
礼拝用の黒いドレスに着替えながら、先程の話を書いた作者の別の本の内容をふと思い出す。救貧院から脱走した少年が幾多の苦難を乗り越えていく話だ。
ただし、主人公の少年が迎えた幸せな結末よりも、話の途中、少年を助けようとして情夫に殺された娼婦が強烈に印象に残り、その話はあまり好きにはなれなかった。
クリスマスくらいは嫌な事は考えないようにしなきゃ。頭を二、三度振る。
ヘッドドレスを探すのにクローゼットを漁っていると、赤いビロードの小箱を目にして息を飲む。
小箱を手に取り、蓋を開く。
そこには異国製の硝子で作られた、琥珀色の星の髪留めが収まっている。
何度も、売るか捨てるかしよう、と迷ったけれど。結局どちらも選べずに今日まで来てしまった。
そう言えば、今日だったっけ。
あの手紙に書かれていた、リカルドがこの街を旅立つ日。
『クリスマスの夜、最終の汽車でこの街を出ることに決めたよ。だから、無理を承知で君にお願いがあるんだ』
『僕と一緒にこの街を出よう』
『午後八時までにいつもの場所――、広場の北側、銀杏の木の下で待ってる』
『万が一、僕についてきてくれる気になってら――、希望を捨てたくないから――』
『とにかく、いつもの場所で待ってる。
僕の最愛の恋人ミランダを待っている』
最愛の恋人、か。
キラキラと輝く髪留めを掌の中、弄ぶ。
店は今、女たちのほとんどが出払っていて
ダドリーは今日、店には絶対に現れない。
今日だけは、自由に何処へでも、一人でも夜に動くことが可能。
考えてみれば、これ程までの好条件が揃っているのに躊躇する理由が一体どこにある?
それでも、ミランダは決断できずに悩んでいた。
本当に、誰にも見つからずにこの街から逃げ出すことが出来るのかが一番の気掛かりだが――、危険を冒してでも連れ去りたいというリカルドに、果たして自分は見合う相手なのか。
他の街へ行けば、自分とは比べ物にならない程素敵な女性など、ごろごろと存在するのに。
わざわざこんな薄汚れた女なんかのために、必死にならなくてもいいのに。
今まで必死で築き上げてきた、店の一番人気というなけなしの自尊心をダドリーによって何度もへし折られてきたせいか、ミランダは己への自信をすっかり失ってしまっていた。
それ以上に、リカルドに対する想いすらも自信を持てなくなっている。
悩んでいる間にも時間は刻一刻と過ぎ去っていく。
壁時計の針は、もうすぐ七時を指そうとしている。
「……ついていくことはできないけど、この髪留めを返しに行くくらいなら……、いい、よね?」
ミランダは重い腰を上げると、部屋を出て階下へと降りていく。
「ママ。教会へ出かけてくる」
マダムに一声掛けてから店を出て、夜の雑踏の中へ溶け込んでいく。
教会ではなく、広場へ向かうために。
(2)
宵の口が近いこの時間帯、普段の歓楽街ならば人で溢れ返っている。
だが、イヴとクリスマス当日に限っては自宅や教会で静かに過ごす者が多いので、今日は人気がまばらである。いつもの三分の一にも満たない人通りを潜り抜け、ミランダは広場へと急いで向かう。
歓楽街を抜け、下層の人々が暮らす安アパートがつらなる一画に差し掛かると、家々のドアノッカーには簡素ながらもクリスマスリースが飾られていた。
そう言えば、スウィートヘヴンに売られる前、ほんの幼い頃に一度だけ、母とクリスマスリースを作ったっけ。
今まですっかり忘れていた遠い記憶を、なぜ今この時に思い出したのだろう。
ずっと自分を邪魔者扱いしていた筈の母と、親子らしいやり取りを交わしたこともあったのだ。心に温かいものがじわりと流れてくる。
教会に近づくごとに、歓楽街の通りとは逆にいつも閑散としているブナの遊歩道は大勢の人々がひしめき合っていた。
教会へ向かう人達の流れと逆行するように遊歩道を突き進む。人波を押しのけて進むため、時折鬱陶しげに睨まれることもあったが、かまってなどいられない。
八時までに、あの場所へ――、リカルドが待つ場所まで行かなきゃいけないから。
ミランダの足は徐々に小走りに変わっていき、ようやく広場に辿り着いた。
教会へ訪れる人達を目当てにしてか、普段はとっくに店じまいしているはずの屋台が少数ながらも店を開けている。
暗闇の中、月と星の光だけを頼りにあの銀杏の場所を探す。昼間と夜とでは景観が様変わりしてしまうため、慣れた場所でも初めて来たかのように迷ってしまう。
だが、辺りをぐるりと見渡しただけでミランダは銀杏の木がどこだったか、すぐに分かった。
なぜなら、その木の下にはギターケースと小さなトランクを抱え、キャスケットを被った青年が佇んでいたから。
スカートをたくし上げ、その場所に向かって一目散に走り出す。被っていたヘッドドレスが外れて地面に落ちたが、拾い上げることなくひたすら走り続ける。
はぁはぁ、と息を荒げ、ようやく木の下へ辿り着いたミランダに青年――、リカルドは驚きを隠せないと言った表情を見せた。
「……来てくれたんだね、ミラ。手紙を捨てられたから、もう来ないかも、って、諦めかけてたのに……」
凍てつく寒さの中、随分長い間ミランダを待っていたのだろう。リカルドの唇は真っ青だ。
「でも、こうしてまた逢えたことが本当に、心から嬉しいよ」
『違うの。私はただ、この髪留めを返しにきただけ』
そう言って、前髪に挿していた髪留めを外し、リカルドの手に押し込んで、踵を返す。
頭の中で何度も予行練習を繰り返していたのに。
いざ彼を目の前にした途端、ミランダの言葉は喉の奥へ押し込められていく。
「それにしても、まさか礼拝用のドレスで来るとはね」
「……教会へ行く振りをして、店を出て来たから……」
「そっか。君に危ない橋を渡らせてしまったみたいで……、ごめん」
頭を下げるリカルドに、ミランダは無言で頭を振る。
「違う。リカルドは何も悪くないの。私が考えた末に決めたこと……」
「じゃあ……、僕についてきてくれるんだね」
暗い表情から一転、リカルドは心から嬉しそうに笑った。
その笑顔を見たことで、ずっと忘れようと努めてきた彼への想いが一気に溢れ出していく。
身体を売る生活を早く抜け出せるなら何でもいい。愛だの恋だのくだらない。
ずっとそう思って生きてきたのに。
どんなに頭の悪い人間だって、根なし草のように生きる清貧のリカルドより、囲い者ではあれど、上手くやりさえすれば贅沢が許される生活をさせてくれるだろうダドリーを選ぶ──、でも。リカルドは。
身も心も汚れきってると知っても自分を受け入れ、共に生きようとしてくれる。
ミランダも彼がどんなに醜くボロボロになったとしても、どこまでもついていきたかったし、一緒に生きていきたかった。
きっと私は、どうしようもなく頭が悪いのね。
「ねぇ、リカルド。私はね、今までお金しか信じられるものがなかったの。でも、今の私はあなたを信じてる。あなたといるだけで凄く幸せなの」
「僕もだよ。君と離れたくなかったからこの街に定住しようと考えてた。君の無邪気な笑顔が、君のことが本当に好きなんだ」
「……うん、知ってる」
ミランダは照れたように目を伏せると、リカルドの手に自らのちいさな手を重ねる。
「そろそろ汽車が出る。行こう」
リカルドは重ねられたミランダの手を握り返した。
「冷たいね」
「リカルドの手の方がもっと冷たい」
氷の塊みたいに冷えきったリカルドの手を、ミランダはもう一方の手で温めるべくぎゅっと強く握り返す。
リカルドはミランダと繋いでいる手と反対側の手でギターケースを持ち、すぐさまトランクをミランダが持とうとした。
「自分で持つからいいよ」
リカルドが繋いだ手を離そうとしたので、「いいの。だって、手を繋げなくなるじゃない」と、笑顔で制止する。たったこれだけの些細なやり取りですら、ミランダの心は満たされていく。
しかし、その幸せな気持ちはすぐに取り消されることとなった。
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