第7話 はじめての感情②

 ミランダがリカルドと出会ってから、二カ月が過ぎようとしていた。


「あはははは!!!何なのそれーー!?」

「……ちょっ、そんなに笑う?」

「えぇーー、だっておっかしいんだもの……!!」

「まったく、ミラは本当によく笑うなぁ」


 穏やかな昼下がりの広場。

 北側にある銀杏の木の下で、ミランダの屈託のない笑い声はよく響き渡る。

 すぐ隣でギターを抱えたリカルドが、腹を抱えて笑い転げる彼女を呆気に取られた様子で眺めている。その眼差しは呆れてはいても、優しさに満ちていた。


「僕はね、本当はこんなおしゃべりじゃないんだよ?ミラが、あんまりにも楽しそうに僕の話を聞いてくれるから、つい喋り過ぎてしまうんだ」

「なあに、私のせいだって言うの?」


 ミランダはわざと唇を尖らせ、琥珀色の大きな猫目でリカルドを睨む。


「うん、そうだよ」

「何それ!ひどい!!」


 ひどい、と責める割には、ミランダは心から楽しそうに笑っている。こんなやり取りを何度繰り返したことだろう。


 さすがに毎日ではなかったが週に三、四日、ミランダはこの広場へ足を運んではリカルドのギターを聴いたり、たわいもないお喋りに興じていた。


 リカルドは、広場から歩いて数分の場所にある鉄工所に住み込みで働いていて、昼休憩になるとギターを弾いたり曲を作るために広場へ来ているという。

 頻繁にここへ来るのは彼の邪魔になるんじゃ、と思い、始めの一ヶ月は週に二回程度広場に行くだけだったのに。


『ミラと一緒にいると楽しいから、毎日でも会いたいなぁ』


 ある時、リカルドがぽつりとこう呟いたのだ。


『そんなこと言うんだったら、本当に毎日ここに来ちゃうかもね?』

『むしろ願ったり叶ったりだよ』


 冗談ぽく告げればしれっと返され、その言葉に甘えた結果。彼に会いに行く頻度が増えてしまった。

 いつしか、リカルドはミランダのことをミラと呼ぶようになり、ミランダは彼の前ではいつも楽しそうに笑っていた。端から見れば二人は仲睦まじい恋人同士にしか見えない。


 ミランダ自身も、誰かの前で素の自分で笑えるとは思いもしなかった。

 笑顔なんて客の気を引くための愛想笑い――、自分を売り込む武器の一つくらいにしか思っていなかったのに。


 リカルドと一緒にいる時の自分が本来の姿なのかもしれない。

 彼と会う回数を重ねるごとに、ミランダの中で想いは日増しに募っていく。


「ねぇ、またお昼食べないの?たまには食べないと身体に良くないよ?」

「んーー、食べないのが習慣になってるから、別に平気。その分お金も貯まるし」

「……まぁ、そうなんだろうけどさ」


 節約だと言って、昼食を取らないリカルドを心配する気持ちに嘘はない。だが、それ以上にそんなにお金を貯めようとしないで欲しい、と思う。

 お金が早く貯まれば貯まる程、彼がこの街から出て行く日が早まってしまうから。


 リカルドはロマのように街から街を転々と流れて生きている。

 辿り着いた街で仕事と居住する部屋を見つけ、半年から一年程その街で暮らす。旅の資金が貯まったところで街を離れてまた別の場所で暮らす。

 彼は十七歳から八年間、そんな生活を送っているという。


 ミランダは彼が今まで過ごしてきた様々な街の話を聞くのが大好きだ。

 生まれてから一度もこの街を出たことがなく、夜の歓楽街という狭い世界しか知らない自分にとって、違う街の話は何もかもが新鮮で胸がわくわくと湧き踊る。

 ミランダが大きな琥珀色の猫目を一段と輝かせ、夢中になって話を聴くので、リカルドも快く語ってくれる。


 例えば、彼が一番長く滞在したのはウィーザーという港町。船乗りや乗船客向けの大衆酒場で働いていた時に、酒場専属のギター弾きにギターを教えてもらったとか。


「その酒場では毎晩のように訪れる常連さんもいたけど、船旅の途中でたまたま店に足を運んでみただけのいちげんさん、言葉が全く通じない異国の人とか、常に新しい出会いと別れが毎晩のようにあってさ。おかげで大勢の人たちと出会うことができたから、楽しくて楽しくて。結局、ウィーザーには二年滞在したかな?ここに骨を埋めても良いかも、とも思ったりもしたよ」

「そんなに気に入ってたのに、なぜ定住しなかったの?」


 リカルドはうーんと首を捻り、少しの間考えていたが、やがて言葉を選び取るように慎重に口を開いた。


「ウィーザーに定住したい気持ちと、まだ見たことのない景色や出会っていない人達と会いたい気持ちとを比べたら、後者の方が思いが強かったからかな」

「そっか。……羨ましい、そんな風に自由に生きることができて」


 見えない足枷に繋がれ、お金に縛られて生きてきたミランダは、自由奔放に生きているリカルドが心底羨ましい。


「でも、ミラはこの街で生きていくことに必死だったんだよ。違う街のことやたくさんの人との出会いとかを考える余裕がないくらいに。詳しいことは分からないけど……、僕にはそんな気がするんだ。あ、もうそろそろ休憩時間終わるし、今日はもう行くね。君も夕方から仕事だろ?」


 平日の真昼間から広場に来るからか、一度だけ、仕事はしているのかと尋ねられた。「夕方から始まる仕事だから、昼間は空いてるの」とだけ答え、彼もそれ以上は訊ねてこなかった。


 リカルドに嘘はつきたくないが、娼婦だということはもっと知られたくない。

 彼のことだから、ミランダの正体を知ったとしても今までと変わらず接してくれるだろうと信じたい。でも、彼の前だけはごく普通の娘でいたい。


 いくら生きていくためとはいえ、誰にでも身体を開く女だと幻滅されたくなかった。


「じゃあ、またね」


 リカルドに促されたミランダが、名残惜しいながらも立ち上がった時だった。


「ねぇ、ミラ。今度の安息日、この広場でちょっとした催し物が開かれるみたいなんだ。良ければ一緒に行ってみない?」


 ギターをケースにしまい、立ち上がったリカルドがミランダを誘ってきた。

 中背の上にやや猫背気味なせいか、実際よりもリカルドは背が低く見えてしまう。だが、子供と見紛うほど小柄なミランダは見上げなければ彼の顔がよく見えない。自然と上目遣いでリカルドを見上げながら、口元を綻ばせ、迷うことなく応える。


「うん!リカルドと一緒なら喜んで行く!」

「よかった!じゃあ、いつもの時間にこの銀杏の木の下で待ってるから」

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