第6話 はじめての感情①

(1)


 教会から続くブナの遊歩道をひとり歩く。降り注ぐ枯れ葉が歩道に落ちる。

 枯れ葉をカサカサ踏み鳴らして歩くこと十数分、ミランダは大きな広場へと足を踏み入れた。


 安息日の今日は屋台の数がいつもより多く、広場は大勢の人で賑わっている。

 漂ってくる様々な食べ物の匂いに、平坦な腹が空腹を訴える。何か食べるものを買おうと屋台を見て回ることにした。


「お姉さん、ブドウ酒を一杯どうだい」

「焼き立てのマフィンはいかが?」


 屋台で働く人々が次から次へとミランダに声をかけてくる。何を買おうかと熟考したのち、ベーコンを挟んだサンドイッチ二つと紅茶を買った。

 どこか座れる場所がないかと辺りを見渡してみる。どのベンチも人が座っていて、あいにく空きがない。木陰も、日当たりの良い場所も空いていない。

 しかたなく、広場の隅っこの人がいない場所――、陰の多い北側、大きな銀杏いちょうの木の下へと向かう。日陰で少々寒いが致し方ない。


 黄色い枯葉の絨毯に腰を下ろし、サンドイッチを齧っていたミランダはふと視線を感じ取った。気配の元へ視線を寄こせば、ギターケースを抱えた青年が木に寄りかかるようにしてミランダの傍に佇んでいた。


「突然ごめんなさい。君の近くで音を出してもいいかな?ギターの練習で広場へ来たはいいんだけど、場所がなくて……」

「えぇ、どうぞ。おかまいなく」

「ありがとう」


 青年はかぶっていたキャスケットを取って、軽く頭を下げた。陽光が当たったアッシュブラウンの髪は、一瞬ブロンドと見間違えそうなくらい輝いている。

 青年は銀杏の樹を間に挟む形で、ミランダの真後ろに腰を下ろし、ケースからギターを取り出した。


 サンドイッチを食べ、すっかり冷たくなった紅茶を飲み干したらすぐに立ち去るつもりだし、などと思いながら、ミランダは二つ目のサンドイッチに手を伸ばす。背後では、青年がギターのチューニングを終えて弦を爪弾き始めていた。


 軽快なリズムの、聴いていると心がワクワクと浮き足立ってくるようなメジャー調の楽しげな曲。

 頭上からくるくる、舞い落ちる銀杏の葉の動きは、まるでこの曲に合わせて踊っているようにも見えてくる。


 ずっとこの曲を弾き続けていて欲しい。


 いつの間にか、ミランダはサンドイッチを食べる手を止めていた。身体を横に揺らして青年の奏でる曲にすっかり聴き入っていた。

 しかし、アウトロでない箇所、素人のミランダですらここで曲が終わるのはおかしい、と分かる箇所で青年は演奏の手を止めてしまったのだ。


「あ……、やっ……、途中で止めないで!」

「えっ!?」


 ミランダは立ち上がって後ろを振り返り、青年に向かって叫んでいた。

 青年はギターを抱えて座ったまま、呆然とミランダを見上げている。明らかに困惑した表情で。

 さっき出会ったばかりの見ず知らずの人間に、訳もなく(あると言えば、あるが)いきなり怒られたら、誰だってどう反応して良いか分からなくなるのは当然だ。

 

「あ、その……。せ、せっかくだから、さっきの曲を最後まで聴いていたかった、んです……」


 今度はミランダの方が、しどろもどろで弁解する番だった。気まずい沈黙が二人の間を流れていく。


「曲を聴いていてくれて、ありがとう」

「……えっ、あ……、どうも」


 ぎこちない笑顔と声音ではあるが、まさか礼を言われるとは。予想外の反応にミランダもまた戸惑っていた、が。


 ぐ--、きゅるるるる。


 空腹を知らせる音が。

 青年の腹から盛大に響いてきた。


「あ……」


 腹を手で押さえ、恥ずかしそうに苦笑を漏らす青年を見てミランダは「……ふっ……」と吹き出し、くすくすと声を立てて笑ってしまった。

 ミランダに笑われた青年は更に身を縮ませながらも、彼女につられて笑っていた。


「お兄さん。残りで悪いけれど、このサンドイッチ食べます?」

「えっ、いいのかい?」

「えぇ、どうぞどうぞ」


 笑いを噛み殺しつつ、ミランダは手にしていたサンドイッチを青年へと差し出した。

 青年は遠慮がちにサンドイッチに手を伸ばすと、「じゃあ、お言葉に甘えて……、いただきます!!」と、勢い良くかぶりついた。


 線が細くて爽やかな雰囲気なのに、食べっぷりは意外と豪快なのね。

 ほんの少しだけ呆れていると、青年は瞬く間にサンドイッチを平らげてしまった。


「曲を聴いてくれただけじゃなくて、サンドイッチまでご馳走になってしまって……。本当にありがとう」


 まただ。彼のあまりにも屈託のない笑顔と視線にミランダは再び戸惑った。

 男性に、こんな風に真っすぐな優しい目を向けられたことなど、これまで一度もなかった。何となく居心地が悪くなり、ぎこちなく目線を泳がせる。


「僕は三ヶ月前にこの街に来て、この広場でほぼ毎日ギターを弾いて歌ってるんだ。だから、ここでよく見掛ける人なんかはすっかり覚えてしまったけど、君は初めて見る顔だね」

「そう?私は生まれた時からこの街にいるし、ここにもよく来ているけどね。ただ、最近はなかなか来れなくて……。今日、かなり久しぶりに来たの」

「そうだったんだ。じゃあ、僕の方が新入りだね」


 新入り、という言い回しが何だかちょっと変、と思い、ミランダは再び、くすり、かすかに笑った。


「ねぇ、さっきの曲は貴方が作ったの?」

「うん、そうだよ」

「すごく良い曲だと思う。何ていうか、聴いていると自然と楽しくなってきて、嫌なことや辛いことをすっかり忘れてしまうの。まるで魔法にかけられたみたいに!」


 ミランダが素直に曲を褒め称えると、青年は今までとは比べ物にならない程の、弾けるような、とびきり明るい顔で笑ってみせた。


 青年のまっすぐで弾けるような笑顔に、ミランダの胸の奥が激しく高鳴った。

 同時に、今まで感じたことのない、甘酸っぱいような、キュッとくすぐったくなるような、不思議な感覚も覚えた。


「そうだ!サンドイッチのお礼も兼ねて、もう一度さっきの曲を最後まで弾こうと思うんだけど。良ければ聴いていてくれる?」

「もちろん!あの曲がもう一度聴けるなんて嬉しい!」


 青年の笑顔につられ、ミランダも嘘偽りのない言葉、心からの笑顔で応える。

 曲を聴きたいのも本心だが、彼自身がどんな人なのか。もっと、もっと知りたい。

 

「ねぇ、あなたの名前を教えてくれる?」

「僕はリカルド。君は?」

「ミランダ」

「ミランダかぁ。きれいな君にピッタリだね」


 リカルドに綺麗だと言われた瞬間、ミランダの頬がカッと熱くなる。

 容姿への誉め言葉なんて散々言われて聞き飽きている。褒められたところで一応礼は述べるが、特に何の感慨も抱かない。なのに。


 リカルドにかかると、まるで自分が何も知らない生娘のような反応をしてしまう。

 いくらなんでも、つい先程初めて会ったばかり、歌が気に入っただけの人間に向ける反応ではない。


「ミランダ、どうしたの?」


 そうだ、この瞳だ。


 リカルドがミランダに向ける一点の曇りもない、澄みきった深いグリーンの双眸。

 彼はミランダを綺麗だと言ったが、彼の瞳の方が自分とは比べものにならないくらい綺麗だ。彼の瞳に正面から見つめられ、優しく微笑まれたから――


 さっきの曲を再び演奏する彼をじっと見つめながら。

 ミランダは大きくなる一方の胸の高鳴りの意味を自覚したのだった。

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