第5話 氷の心②

 (1)

 

 ダドリーに対する疑惑と畏怖の念は強まる一方だったが、『いずれは彼に身請けされ、愛人の座くらいには納まりたい』という野望を、ミランダは諦めてはいなかった。苦界の中から抜け出すには、絶対に彼を手放す訳にはいかない。


 店に現れたダドリーを出迎えると、彼の後ろには知らない男たちが数名控えていた。彼らはいずれもダドリーと同じく二十代後半あたりの年頃で、揃いも揃って流行最先端の高級スーツを着用している。


「ミランダ。今夜はこの者たちと共に酒場に繰り出す。お前も来い」


 ミランダが返事をするより早くダドリーは強引に彼女の腕を取り、歓楽街の喧騒の中へと連れ出した。取り巻きの男たちも引き連れて。ミランダはダドリーと腕を組んで歩きつつ、時折、男達を気にしてチラチラと背後に視線を送る。


「ねぇ、ダドリー。あの人たちは一体何?」

「心配せずとも、あの者たちがお前に話しかけたりはしない。そんなことよりも前を向いてしっかり歩け。歩調が遅い」

「そういう問題じゃ……」

「いいから黙ってさっさと歩け」


 押さえつけるように叱責され、機嫌を損ねてはいけないとミランダは慌てて口を噤んだ。目的地である白い石造りの小さな大衆酒場に辿り着くまで、二人はひたすら無言で歩き続けた。


 酒場の扉を開く。ダドリーとミランダは隅にある二人掛けのテーブル席へ。男達も各々カウンター席やテーブル席に着席し、酒を飲み始めた。彼らの入店と入れ替わるように先客たちは一人、また一人と退店し、この場に残るはミランダとダドリーたちだけになった。


 寡黙で無駄なおしゃべりを好まないダドリーに加え、この状況では会話が弾む筈などなく。葬式のような雰囲気のテーブルに座ったまま、一向に中身の減らない、生温いエールの瓶に視線を落とす。

 ミランダたちの重苦しい空気とは反対に、派手に酔っ払いだした男たちは大声を上げ賭け事に興じだしたり、思い思いに騒ぎ散らしていた。

 質の良い洒落た服装に反し、下卑た笑い声を店中に響かせてこの店の酒は不味いやら文句を垂れ始める。終いには酔って女給に絡んで困らせる男たちに、次第にミランダは激しい嫌悪感を募らせていく。


 ダドリーの取り巻きと言うだけで周りに横柄な態度を取る彼らの浅ましさは目に余る。なのに、当のダドリーは静かに酒を嗜みながら、彼らの醜態を悠然と眺めている。


「顔色が悪い。酒に酔いでもしたか?」

「別に酔ってなんかいないわ」


 貴方のお取り巻きたちの態度が横着過ぎて、胸糞が悪いだけ。


 喉元まで出かかった言葉を飲み込むと、「ちょっと水もらってくる」とダドリーに告げ、ミランダはカウンターへ向かった。

 カウンターの隅では、若い女給がダドリーに見咎められないよう、隠れて苦々しげに取り巻きたちを睨んでいた。目が合った瞬間、女はバツの悪そうな顔をしつつ、ミランダに話しかけてきた。


「あんた、あの道楽息子の新しい女でしょ」


 女……、それは恋人という意味か情婦という意味か。判断し兼ねて曖昧に微笑んでみせる。


「あいつには気をつけた方がいいよ。飽きたら最後、あの取り巻きたちに女を好きにしていい、って、あてがうらしいよ」


 さも親切に忠告をしている、という口振りとは裏腹に、女はどことなく喜々とした表情だ。


「……まぁ、そういう人だと私も思うけどね」


 意外に冷静なミランダの反応が面白くなかったのか。女は意地悪そうに唇を捻じ曲げて更にこう続けた。


「女に惚れ込んでいる間は、女を傷つける人間や物事を徹底的に排除する。やりすぎなくらいにね。でも、もしも、女が自分に逆らったり裏切るような真似をしたら──、たとえ、それが誤解だったとしても、誤解させる態度を取ったのが悪いって殺されるか、それに近い目に遭わされるか……、らしいよ。惚れられていても気をつけなきゃ……、地獄を見ることになるよ」


 ヨーク河に浮かんでいた女や二目と見られぬ顔にされた女の件が頭を過ぎり、ミランダは言葉を失う。ようやく動揺の表情を見せたミランダに満足したのか、女は勝ち誇った目で厨房の奥へと消えていく。

 ミランダは本来の目的であった筈の、水をもらってくるのも忘れて自席へ戻った。


「どうした」

「なんでもない」

「嘘だな。先程より顔色が悪い」

「そう?あぁ、ちょっと酔っ払ったのかもね」


 まさか、貴方の話を聞いて怖くなったから、などとは口が裂けても言える筈がない。どうにか誤魔化そうとミランダはいつもの作り笑顔を浮かべようとした。


「さっきまでカウンターにいた女か。お前に話しかけていたみたいだが」

「ちが……」


 違う、と言い掛けたミランダを無視し、ダドリーはスッと席から立ち上がった。

 呼び止めようとしたもののミランダが声を発するより早く、ダドリーは取り巻きたちの席へと移動、何やら耳打ちをし始めた。ダドリーが話し終えると、男は返事の変わりにニヤリといやらしく笑った。


 ただならぬ雰囲気に嫌な予感を覚えた瞬間、男は手にしていたグラスをいきなりカウンター目がけ、思いきり投げ放った。それが合図と言わんばかりに、残りの男たちはテーブル、椅子を投げ倒し、グラスや酒瓶をカウンター席や窓に向かって次々と投げつける。


 女給の悲鳴が上がり、今にも倒れそうなほど青ざめた店主が男達の凶行を必死で止めようとした。が、多勢に無勢では成す術がない。割れたグラスや酒瓶、皿の破片、こぼれた酒が飛び散り、茶色の板床を無残に傷つけ、汚していく。


「ちょっと!!貴方、一体何を命じたの!!!」

「故意に客の気分を害す女給を雇う店はろくな店じゃない。潰してしまってもかまわない。暴れたいだけ暴れろ、と言っただけだが?」

「……は?なにそれ??……って、こんなことしたら、警察が……!」」

「金さえ積めば警察は上手いこと立ち回ってくれる。警察だけじゃない、この街の人間は誰も私に逆らうことなどできぬ」

「……男爵家の子息だから?地位と財力使って揉み消すの?」

「それが何か?問題でもあるのか?」 


 そんなこと当たり前だろう、と言わんばかりのダドリーは、自分とはまるでかけ離れた、遠い、遠い別世界に住む人間だと、ミランダは嫌と言う程思い知らされた。

 彼に身請けされたい、という野望が、ゆらゆら激しく揺らぎだす。


 取り巻きたちが大暴れしている隙に、ダドリーは適当な酒代とチップをテーブルに置いてミランダを連れて酒場を後にした。というより、させられた。

 表情こそ普段と変わらなかったが、女給の行動にダドリーの機嫌が損なわれたのは明白。ミランダはスウィートヘヴンに戻る道中、声一つ上げなかった。正確に言うと、ダドリーの傲慢さや冷徹さに恐れをなしていた。


 スウィートヘヴンに戻った後もダドリーの機嫌は直らず、いつもよりもやや乱暴に、屈辱とも取れる要求を交えてミランダを掻き抱いた。いくらダドリーに恐怖心を持とうと、自分を抱くのを拒否することは絶対にできない。


 ミランダにとって長すぎる一夜が明け、ダドリーは屋敷へと帰っていった。

 爽やかな朝の陽光を浴びながら、玄関先でダドリーを見送ると一気にどっと疲れが押し寄せてきた。それだけ彼と過ごす時間は苦痛なのかもしれない。


 ダドリーが乗る大型馬車の姿が完全に見えなくなったの確認すると、ミランダはすぐに部屋に戻り、一服する。女の喫煙をダドリーがひどく嫌がるので、近頃は控えていたのだが。煙草を吸わなければどうしても気持ちが落ち着かない。

 天井に向かってゆらゆらと揺れる紫煙をぼーっと眺めていると、ふと、今日は週末の安息日だったことを思い出す。


 今から少し眠って、昼過ぎに、久しぶりに教会に出向いてみようかな。


 まずは眠ろう。

 吸い終えた煙草を灰皿に押しつけ、ミランダはベッドの上へ倒れ込んだ。







 (2) 


 眠りから覚めたミランダは、街を散策しがてら、ひとり教会へ向かっていた。


 仕事柄、常に人を相手にしていなければならない上に、特にこの数ヶ月は外出する時は大抵ダドリーが一緒だった。寝る時以外の一人の時間はここのところ皆無に等しい。今日のように数少ない貴重な休日の時だけは、ゆっくりと一人の時間を過ごしたい。


 娼婦ではなくただの十九歳の娘になれる、唯一のひと時。

 化粧もせず素顔のまま、私服姿で歩く彼女はどう見てもごく普通の町娘にしか見えない。


 前回教会へ足を運んだのはいつだったか。 

 たしか、残暑が厳しい時期だった。汗をかきつつ、教会への道筋を辿っていたし、歩道に並ぶ街路樹の葉が青々と繁っていた。今は枯葉となり、半分近くが地面に落ちている。

 季節がすっかり様変わりしてしまったことで、随分と長い間私は一人で外に出ていなかったのだな、と、改めて実感する。


 教会のすぐ目の前に辿り着くと、城壁のように高くそびえる黒い鉄柵をくぐって白い石畳で作られた階段を昇る。懺悔室を通り過ぎ、礼拝堂の扉を開けて中へと進む。安息日にしては珍しくミランダ以外誰もいない。


 左右に並んだ長椅子の列の間、真っ赤なヴァージンロードを踏みしめて祭壇の前まで進み、両手を組んで神に祈る。


 ――神様、どうか私に救いの手を――


 ミランダは特別信心深い質ではない。それでも辛い事や悲しい事があると、昔から教会へと足を運んでは祈りを捧げている。


 母に売られて以来、一見華やかなようでいて苦界である娼館では、下手に他人に弱みを見せればつけこまれ、馬鹿を見る。

 そんな生活を送るミランダには心から信用できる人間がいない。神への祈りは、その代わりみたいなものであった。

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