星の金貨

第4話 氷の心①

(1)

　ダドリーが初めてミランダの元へ訪れた日から、およそ一か月経っていた。

　時刻は午後六時。スウィートヘヴンの開店後、一時間過ぎている。仕事帰りの男達がぽつぽつと店に訪れ始め、馴染みの女達がこぞって玄関まで出迎える。

　慌ただしく動く他の娼婦たちを尻目に、ミランダは未だ下着姿のまま、悠然と鏡の前で何度も衣装合わせしていた。

　淡い桃色のドレスか、濃紺のドレスか。

　濃紺の方が彼の好みかも？

　桃色は子供っぽくて色気がない、とか言われそうだしね。

　ミランダは右手にかかげた濃紺のドレスを今一度じっくりと眺め、左手にかかげていた桃色のドレスをベッドへ放り投げると。手にしていた濃紺のドレスを着始めた。

　身支度を完璧に整え、足元に脱ぎ散らかしたドレスの山も片付け終えると同時に、扉を叩く音がした。

「ミランダ、ダドリー様がお越しよ。早く出迎えなさい」

「えぇ、マダム。今すぐ玄関に向かうわ」

　返事を返すやいなや、ミランダは急いで扉を開けて階下へ。

　あの夜から、ダドリーはほぼ毎晩ミランダの元へ通い続けている。更には、『自らの専属にしたい。他の客は一切取らせないように』と、マダムが言葉を失う程の大金を用いて交渉してきた。ミランダの客は今やダドリーただ一人。

　しかし、彼一人で並の客数十人分の揚げ代を稼げる。マダムもミランダも首を横に振る理由などある筈がない。

　なぜ、彼がここまで自分を気に入ったのか。ミランダ自身も不思議でならなかっｔた。

　初めてダドリーの相手を務めた夜も、彼は事を終えるとすぐにベッドから出て、さっさと身なりを整えてしまった。　

　抱き合った後の余韻を一切味わおうとしない。あまりの薄情振りに、気に入られることに失敗した、と、ミランダは内心意気消沈しつつベッドから抜け出した。

　いつものように下着の上にガウンを羽織り、鏡の前で乱れた髪を梳かしていると、『まさかとは思うが、そんなだらしない姿で私を見送る訳ではないだろうな』と、ダドリーの鋭い声が背後から突き刺してきた。

『今後は私の相手だけを務めてもらう。相応の身なりをするべきだ』

　ミランダの手から櫛が滑り落ちていく。床に落ちた音で我に返り、慌てて櫛を拾い上げる。　そんな彼女を冷ややかな目でダドリーは見つめていた。信じられない思いに不躾は承知で、思いきって尋ねる。

『私のどこがお気に召したのでしょうか？』

『お前は高級で珍しい猫みたいなものだからだ。そんなものは誰にも触らせたくないだろう？』

　ダドリーの答えは答えになっていない。少なくともミランダには訳が分からないばかりで、はぐらかされたようにも思えた。

　まさか、『気位の高い客をわざと煽って、征服欲を掻き立てる』やり方がこんな簡単に大成功したとは──、到底信じられない。経験の浅い若い男ならともかく、ダドリーのような二十代後半の経験豊富な男が簡単に篭絡できるものだろうか？

　それとも、篭絡された振りをしてるだけなのか？？

　心の奥底で何を考えているのかさっぱり読めないこの美しい男を、ミランダはただただ恐ろしい、としか感じられない。何度も肌を重ねてみても、決して変わることのない感情。変わらないどころか、ダドリーへの畏怖は日増しに増長し続けている。

　なぜなら、彼の中には人間らしい感情が一切見当たらなかったから。

(2)

　ミランダが彼を恐ろしいと思う理由は、感情が全く読めないだけではない。

　以前から一番人気という立場上、ミランダは店の他の娼婦たちからの陰口の最もたる標的だった。

　ミランダ自身は、つまらない負け惜しみだとまともに相手にしていない。自身に魅力があるからこそ起きる問題だとすら思っている。だが、ダドリーがミランダの元へ通い始めると、あからさまな嫌がらせや悪口を面と向かって受けるようになっていた。

　ある時は、昔からミランダと折り合いの悪い女が、『ミランダはさすがねぇ。子供の頃から幼女趣味の変態を相手してきただけのことはあるわ。それとも、ダドリー様は子供みたいな女がお好みなのかしら。だったら、ミランダの得意分野よねぇ』と、ミランダがベビーブライドだったことを面と向かって嘲笑してきた。

『だったらどうだって言うの？その子供みたいな女に、いつまで経っても売り上げで勝てないのはどこの誰かしら？』

　痛いところを突いて黙らせてやり、騒ぎに発展するまでもなく事は収束した、ように見えた。

『ミランダ』

　聞き慣れた怜悧な声が聴こえた方向を向くと、ダドリーが丁度店に訪れていた。

『あら、ダドリー。今日も来てくれたのね！』

　ミランダは完璧な作り笑顔を浮かべ、さも嬉しそうにダドリーの元へ駆け寄っていく。近頃では、敬語は使わなくていい、名前（ファーストネーム）も呼び捨てでかまわない、とすら言われるまでの仲になっていて、彼と砕けた口調で会話している。

『何を揉めていたかは知らないが、格下の相手にいちいち反応してどうする。お前の程度まで下がる。いいか、お前の程度が下がれば、私の格まで下がる。もう少し己の立場を弁えろ」

『ごめんなさい。今後は気をつけるから』

　あくまで自分の面子第一のダドリーに鼻白みながらも、ミランダは心から申し訳なさそうに詫びてみせる。更には、機嫌を伺うように腕を絡ませしなだれかかった。

　その際、ダドリーがミランダではなく、そそくさとその場から離れた女の後ろ姿を目の端で追っていたことをミランダは見逃さなかった。

　よくわからないが、とてつもなく嫌な予感がする。

　ミランダの悪い予感は数日後に的中した。　

　その日は、週に一度の安息日。この時ばかりは店も休みになる。

　休みに乗じて街へ繰り出したその女は、外出したきりそのまま店には二度と戻らなかった。

　もしや男と脱走したのか、と店の者達が捜索するも見つからず。二日後、街の中心に流れるヨーク河にて、変わり果てた姿で浮かんでいた。

　また、最近店に入ってきた十代半ばの若い娼婦が、マダムや他の先輩娼婦、果ては客にまでかなり生意気な態度を取っていたことがあった。

　その若い娼婦は、態度について注意したミランダを口汚く罵った。負けじと言い返してやりたかったが、あえて言葉を飲み込んだ。この時も『つける薬のない馬鹿にかまうのは非合理的だ』と、ダドリーに窘められたからだ。

　その翌日、年若い娼婦は客引きに出て行ったきり(この店は置屋で基本的には客引きはしないが、まだ顧客がつかない新人や人気のない娼婦は自ら客を引きに行かねばならない)、一晩店に戻らなかった。

　またヨーク河に浮かんでやしないか。店の者たちが不安を抱く中、彼女は明け方にようやく戻ってきた。顔の原型が分からなくなる程殴られ、恐怖でしばらく誰とも口が利けなくなった姿で。

　そんな彼女も顔が醜くなったせいで、スウィートヘヴンよりも相当格下の売春宿へと移されてしまった。

　娼婦への暴行や殺害などよくある話だ。珍しくもない。

　しかし、自分を快く思わない者が立て続けに事件に遭うのは裏で何かあるのでは、と勘繰ってしまう。件の二人がミランダ

に向かって暴言を吐いたのは、どちらもダドリーが店にいた時。

『彼女たちをヨーク河へ落としたり、暴行したのはあなたの仕業なの？』

　もちろん訊ける筈はない。

　ただ直感的にそう感じるだけ。

　他の娼婦達も同じように感じたに違いない。

　それら二つの事件ののち、スウィートヘヴンでミランダを悪く言う者は一人もいなくなった。