星の金貨

第3話 それは振って湧いた幸運か否か②

　※児童虐待を匂わせる描写があります。

(1)

　ミランダがスウィートヘヴンに売られたのはわずか五歳の時だった。

　その日、昼間はいつも寝ているか酒を飲んでいるかの母が珍しく、ミランダを外へ連れ出してくれたのだ。

『今から行く場所はね、天国みたいなところだよ。おいしいモノがいっぱい食べられて、綺麗なドレスもたくさん着せてもらえるんだからね』

　母と手を繋いで出掛けることがミランダは嬉しくて堪らなかった。

　まだ幼い子供が歩くにしては結構な距離ではあったが、『天国みたいなところ』を目指し、母と共にひたすら歩き続ける。

　やがて、似たような赤い煉瓦造りのコテージが幾つも立ち並ぶ内の一軒、『スウィートヘブン』の立て看板が置かれた建物の扉を母と潜った。

　店内には三十代半ばと思しき派手な顔立ちの美しい女がいた。(後に、この女が店主の妻で店のマダムだと知る)

　その女は「まだ年端もいかない子供じゃない」と文句を垂れつつ、値踏みするように(実際に値踏みしているのだが)ミランダの全身をじろじろと眺めてきた。

「……まぁ、器量はかなり良いし、将来は期待できるかもね」

　女から分厚い茶封筒を受け取ると、母はミランダを気まずげに一瞥し、逃げるように店を出て行こうとした。

「お母ちゃん。どこへ行くの？」

　母は答えない。

「ねぇ、お母ちゃん。何でアタイを置いて行くの？ねぇ、何で？」

　二度目の問いかけにも、母は答えない。

「いやだよぉ、アタイを置いていかないでぇ……！」

　琥珀色の大きな瞳に涙をいっぱい溜め、ミランダは母の後を追いすがろうとした。

　だが、どんなに必死に手を伸ばしみても、やせっぽちの小さな身体はマダムに抑え込まれて身動きも取れず。どんなに涙声で訴えるように呼びかけても、母はミランダを振り向きもせず、店から出て行った。

　おぼろげな記憶から想像するに、ミランダの母親も娼婦だったのだろう。それも、公的な娼館に所属せず街頭で自ら男に声をかけ、身を売る街娼。路上でのみならず、部屋に客らしき男を連れ込んでいた、ような気もする。

　街頭での売春は本来違法行為に当たる。

　いつ警察に摘発されるかわからない綱渡りの商売、貧しさによる生活苦も手伝い、自分（ミランダ）の存在は邪魔だったに違いない。母親とはあれっきり、二度と会うことはなかった。ミランダ自身も母のことなど月日が経つにつれ忘却の彼方へ飛んでいった。なぜなら。

　店にいる同じ年頃の娘たちの中でも、ミランダの器量の良さは群を抜いていて、マダムが一番目をかけてくれたからだ。とはいえ、器量が良いがゆえの辛さもあった。

　幸か不幸か、器量の良さによって、ミランダは客が取れる年齢──、この国で法的に性交がを許されるのは、成人年齢の十五歳からなのだが──、に達する前、わずか十歳の時に初めて客を取らされた。

　初老の資産家が店の掃除をするミランダを目に止め、気に入ったから。

　まだ子供だから、うちではベビーブライド（年端のいかない少女娼婦）を置く気はない、と渋るマダムに水揚げ代を破格の値段を啓示して交渉したから。

　細かいことなどどうでもいい。とっくに忘れてしまった。

　きっと覚えてなんかいたくなくて必死で忘れたのだろう。

　ただ、『初仕事』の後で誰にも見つからないよう、店の裏手にある物置小屋に隠れ、一晩中泣いていたことだけははっきり覚えている。

　真っ暗闇の中。蜘蛛の巣と埃に塗れ、震える身体をすりきれた毛布で覆い隠し。ちっとも治まらない下腹部の鈍痛、つぶれそうなほど強い胸の痛み。

　抑えようとすればするほど、溢れ出す涙を止める方法など、当時のミランダは持ち合わせていなかった。

　このまま泣き続けて、涙と共に自分も溶けて跡形もなく消えてしまえればいいのに。

　でも、現実は泣きすぎて元の顔が分からなくなる程赤く腫れ上がった、間抜け面の自分がいるだけ。ここにいる限り、これからも途方もなく哀しく、やるせない思いを何度も繰り返すに決まっている。

　一日でも早くこんな場所から出て行く。そのために努力しよう。

　たくさん客を取って、できれば上客を──、借金は己で完済するか、上客に身請けされるか。どちらでもいい。とにかくいずれは大手を振って出て行ってやる！

　娼婦が自由の身になるためには客に身請けされるか、自分で借金を完済するか、あとは……、一番最悪だが、病気か事件に巻き込まれるかで命を落とす。この三つしかない。

　ミランダは器量の良さ以外でも床上手で気転が利く。客あしらいもとても上手く、瞬く間に店で一番人気の娼婦となった。　しかし、そうなってくると店側も稼ぎ頭の彼女を簡単に手放したがらない。

　過去にもミランダに身請け話が何度か舞い込んだものの、その度にマダムがわざと法外な身請け代を請求しては立ち消えていく。

　気づけば、ミランダは十九歳。初めて客を取った日から、すでに九年もの歳月が経とうとしている。

　ミランダの稼ぎ振りから借金はとっくに返済されているはずなのに、マダム曰く『九年間食べさせた分、支給したドレスや化粧品、装飾品も全て借金に含まれている』そうだ。自力で借金完済は到底無理そうだ。ならば。

　上客に気に入られて身請けされるしかない。

　マダムの法外な身請け金に応じられるだけの財力を持つ人物でなければ。

　ミランダにとってダドリーは、一縷の望みを賭けるにはふさわしい、まさに存在だった。

(2)

「お前がこの店の一番人気だと聞いた。どんな女かと思いきや、たしかに美形ではある。……が、思いの外幼い顔だな。おまけに背丈は子供と見紛うほど小さければ、少しばかり細いときた」　

　開口一番、ダドリーが告げた言葉。表情や口調こそ無感情で淡々としているものの、少なからず落胆しているのがひしひしと伝わってくる。

　そんな彼に臆すことも、ましてや憤慨することもなく、ミランダも負けじと切り返す。

「初顔のお客様にはよくそう言われますわ。ですけど、娼婦の真の価値は見た目ではございません。いかにお客様を悦ばせることが出来るか、です」

「随分と自信があるようで」

　面白い、と言いたげに、ほんの僅かではあるがダドリーは目を細め、右側の頬をぴくりとさせる。

「一応、この店の一番人気ですから」

　ミランダは微笑みながらも強気な態度を崩さない。

　身分も気位も高く、初手から自分を見下す客は下手に出るより、怒らせない程度に軽く挑発した方がいい。

　生意気な小娘を何としてでも屈服させたいという征服欲を煽り、屈服できそうでなかなかできない――、などと駆け引きを何度か繰り返す。そうして自分のペースに上手く巻き込んでいく。

　遊び慣れたこの男にどこまで通じるかは分からない。だが、とりあえず試してみるしかない。

「まったくもって色気が感じられない、その幼い容姿でか？この店の客達は皆、少女趣味なのか？私には理解できない」

　ダドリーに侮辱され、ミランダは内心、ほんの少しだけ腹を立てた。彼女は自他ともに認める器量良しだから。

　くるくるとよく動く琥珀色の大きな猫目を除き、顔の造作はどれも小作り、小さくて丸っこい頭、小柄で決して痩せすぎてはいないものの、細身で胸や尻もそれほど大きくない。実年齢より幼く見えることは充分自覚している。

　ダドリーのように『一番人気を選んでおけばまず間違いはないだろう』と言う理由で、ミランダの容姿を全く知らない状態で指名する客がこのような反応を示すのは左程珍しいことではなかった。

　それでも、面と向かってここまではっきりと馬鹿にされると一番人気の誇りに傷がつく。　子供の頃から舐め続けてきた、数えきれない程の辛酸の味が口の中に拡がり始める。そして、その傷や苦みなどに負けぬよう、更に強く、自分を奮い立たせる。

　これまでに身に付けてきた手練手管を駆使し、絶対にこの男を落としてやる。

　可憐な笑顔の裏の本心を知ってか知らずか、ダドリーは相変わらず見下す態度を崩そうとしない。

「まぁいい。お前が言うように娼婦の真価はベッドの中で問われる。試させてもらおう」

　言うやいなや、ダドリーはミランダの小さな顎を掴むと、彼女の唇に自身の唇を重ね合わせた。