第33話 解放の微笑

 (1)


 努めて何でもない風を装い、「明日、一緒に買い物に出掛けない?」みたいに、軽い調子で切り出してみる。

 リカルドは普通に返事をしかけたが、開きかけた口を固く閉ざしてしまった。


 当然と言えば当然の反応。

 彼の左足が悪いのも、ミランダが長らくアルコール依存症を患っていたのも。元を質せばダドリーが彼らの仲を引き裂いたことが起因している。


 家庭を築き、街の統治者という重要な地位に就いている現在、今更二人を害するような所業など絶対に行ったりしないだろう。そこは心配する必要ない、と思う。


 けれど、ダドリーの姿を目にしたことで、徐々に薄れていった彼への憎悪が再燃しないか。精神不安に陥り、再び酒に手を出したりしないか。


 いつでも我が身を差し置いてまで、ミランダを第一に案じるリカルドのこと。無言を貫く理由は、それらを気にしているに違いない。


 互いに黙ったまま宿への帰路を辿る。


 シャロンの薬屋から宿まで十五分に満たない距離だというのに、一時間以上もあてもなく歩き続けている気分に陥ってくる。

 宿に到着後もリカルドが口を開く気配は一向に見られない。重い沈黙に耐え切れず、全く関係ない話題を持ちそうとした時だった。


「ミラ」


 リカルドが静かに名前を呼んだ。


「……僕もね、『彼』の顔を直接見てみたいとずっと考えていたんだ。君と違って、僕は『彼』の顔を新聞記事くらいでしか見たことがないし。変な話だよね、仮にも同じ女性を愛した者同士なのに、直接お互いの顔を知らないなんて。しかも顔すら知らない相手に僕は殺されかかった」


 十九年前の恐ろしくも忌まわしい記憶が鮮明に蘇り、ミランダの胸の奥がじくじくと疼きだす。


「……嫌な事を思い出させてごめん……」


 ミランダは返事の代わりに、俯いてゆっくりと首を横に振る。


「……ミラには一生黙ってようと思っていたけど……、君を迎えに行くまでの十年間、顏も知らない『彼』の存在が……、ずっと怖かったんだ……。ウィーザーに移住したのは顔なじみが多かったことが一番の理由だけど……、少しでも『彼』の目の届かない遠い場所に行きたかった。もしも、君と一緒に暮らせる日々が訪れたら、今度は絶対に邪魔されたくなかったし」

「…………」

「情けない男だろ??」

「……そんなこと、ない……」


 傷ついていたのは何も自分一人だけではなかったのだ。

 どうして今の今まで気付いてあげられなかったんだろう。


 ミランダはリカルドの頭を抱え込むようにして抱きしめた。半分近くが白髪と化したアッシュブラウンの髪をそっと撫であげる。

 髪に触れる手の動きが心地良いのか、リカルドは目を細めた。


「……でも、あれからもう十九年も経った。いい加減『彼』の存在に脅えるのは終わりにしたい」


 微睡むように目を閉じつつ、はっきりと告げたリカルドの言葉にミランダは動きを止める。直後、何を思ったのか、急にころころと声をあげて笑い出した。


「ふふふ……、私たちって、似た者同士の上に、本当に相性が良いのね」

「何でそう思うのさ?」

「だって、慰霊の儀の参加理由が『自分達を酷い目に遭わせた男爵様を一目見て、過去を断ち切りたい』んだから。とんだ罰当たり夫婦よね」

「そうかもね……。でも、慰霊の祈りをちゃんと心から捧げるなら、神様だって少しくらいは大目に見てくれるんじゃない?」

「リカルドってば、ちゃっかりしているんだから」


 四十男とは到底思えぬ悪戯めいた笑顔で、悪びれもせず答えるリカルドに呆れつつ、夫がようやく見せてくれた笑顔にミランダは安心したのだった。









 (2)




 --時は進み、翌日の正午ーー



 火災による炎の熱量で変形し、ところどころが湾曲してしまったボロボロの鉄柵の向こう側には夥しい数の瓦礫の山が広がっていた。

 伝染病の蔓延を防ぐため、事件後すぐに死体の発掘作業を進めたため、死臭が漂ってくることは皆無に等しいが、瓦礫の撤去作業は今も尚続いている。

 かつて入場口だった、焼け焦げて半分以上が崩れてしまった赤煉瓦の大門前には黒い大理石で作られた慰霊碑。

 その前で、オーバーコートに礼服を纏う二人の男、この街の統治者ダドリー・R・ファインズ男爵と嫡男アルフォンスが並んで黙祷を捧げている。


 慰霊の儀は一般庶民も参加を許されていて、ダドリー達から少し離れた場所から(彼らの護衛により、民衆は近づけない)慰霊碑へ祈りを捧げていた。

 黙祷を終えたダドリーとアルフォンスが民衆の方へと向き直り、ダドリーが慰霊の口上を事務的な口調で述べようと──、する前に。大勢の民衆がひしめく中の比較的前方、左端に見覚えのある顔を見つけた。


 子供と見紛う程小柄だが、顔つきや雰囲気からどう見ても中年の女。その女は癖のない真っ直ぐなプラチナブロンドの長い髪と、やや琥珀色の大きな猫目だった。



 あぁ、生きていたのか。



 十九年前、手切れ金を強引に受け渡し、彼女の前から姿を消した後も、彼は密かに彼女を部下に監視させ続けていた。正確に言えば、『万が一、あの女がダドリー様に関する良くない噂を流すようであれば、始末をしなければいけませんから』と、しきりに訴え出る忠誠心の厚い部下の注進に従っただけだったが。


 彼女が手切れ金を使って売春業から足を洗いもせず、「男爵様の囲い者」と呼ばれることを忌み嫌い、アルコールに溺れて行く様を逐一報告される度に馬鹿な女だと嘲りつつ。一介の娼婦とは到底思えぬ意固地なまでの気高さには、いっそ清々しささえ覚えた。


 監視は、彼女がスウィートヘヴンから追い出された後も続いていた。可愛がっていた少女売春婦を手切れ金全額使い、自由の身にさせたという話も知っている。


 やはり愚かな女だと思った。

 同時に、気位の高さに反し、どこまでも真っ直ぐな心根の女だとも。


 だから、彼女が自分を貶める発言を吹聴する女ではないと悟ったダドリーはそれ以降、監視を中止させた。以来十四年、彼女の消息をダドリーは知る由もなく。おそらくすでにこの世にはいないかもしれない、とすら考えるようになっていた。


 口上を述べ始めたダドリーを、女は大きな瞳でじっと見つめ続けていた。睨みつける訳でもなく、何の感情も交えずに。それでいて冷たい訳でもない。本当に、ただ彼をじっと見つめているだけだった。

 その大きな瞳は離れた場所からでも分かる程に小じわが目立ち、元々華奢だった体躯も一層細くなり、痩せぎすと言っていいくらいである。


 随分と老けた。美貌も衰えたな。


 だが、不思議と悲壮感は漂わせていない。若い頃より目付きが険しいのに、むしろあの頃よりも穏やかな印象すら覚える。


 理由はすぐに判明した。


 彼女の隣に、杖をつく白髪交じりの中年男が寄り添っていたからだ。



 その時、自分でも信じられないことに、ダドリーは口元を緩めて静かに微笑んでいた。



 粛々と口上を述べた直後に、この表情はいくら何でも場違いにも程がある。気付かれてはならないと瞬時に笑みは消した。幸いなことに誰にも気取られていない。

 その証拠に、民衆はダドリーの口上に盛大な拍手を惜しみなく送るばかり。


「お父様、僕からも口上を述べたいのですが、宜しいでしょうか?」

「いいだろう。くれぐれも失態を犯す真似だけはしないように。いいな?」


 先程の自分を棚に上げ、ダドリーは息子に厳しく釘を刺す。アルフォンスは表情を固くさせながら、口上を述べるべく口を開く。


 ダドリーはもう一度、女がいた方向にさり気なく視線を動かした。


 だが、すでに女は男と共に姿を消していたのだった。

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