第32話 過去との対峙③

 (1) 


  ーー遡ること、一日前の正午ーー


 互いに小さな旅行鞄を片手に、ミランダとリカルドは汽車の乗降口からホームへと降り立とうとしていた。


 ミランダはリカルドの杖を持っていない方の腕を取る。「段差に気をつけてね」と声を掛けながら、ゆっくりと。


「やっと着いたよ」

「うん。ミラ、疲れてない?平気?」


 目的地に辿り着いて開口一番、真っ先にリカルドはミランダの身体を気遣う。

 相変わらずミランダのことばかり気に掛ける夫に、(自分だって長時間汽車に揺られて疲れている筈なのに。この人は本当に優しすぎる)と呆れてしまう。


「私は全然平気。リカルドこそ疲れていない?」

「僕も大丈夫だよ」


 そう言ってリカルドは笑ってみせるが、その笑顔には明らかに疲労の色が見えていた。嘘をつくことも本当に下手くそ、心中で更に呆れてしまう。


「でも、まずは宿を探しに行きましょうよ。動くにしても一旦荷物は置いて、ちょっと休憩してからがいいと思う」


 疲れているとはいえ、根が好奇心旺盛なリカルドだ。このままミランダが何も言わなければ、「じゃ、早速街を散策してみようか」などと言い出し、荷物を持ったままでも、後で足が痛くなろうが一切おかまいなしに動き出しかねない。

 ミランダが「もうこれ以上歩くのは無理!」と根を上げない限り、夕暮れ時になるまで街を歩き回るのが目に見える。


「ミラの言う通りだね。じゃあ、まずは宿を探そう」


 リカルドはミランダの提案をあっさり承諾すると、今晩の宿を探しに多くの宿屋が連なる界隈へと二人向かう。


 宿泊する宿は思った以上に早く見つかった。

 八帖程の広さの室内には清潔なベッドと簡素なサイドテーブル。壁鏡がある洗面台、その隣に二つのコート掛け、安物のハンガーがそれぞれ一つずつ掛かっている。


 部屋に入るなり、二人はベッドに鞄を置き荷物の整理を始めた。が、しばらくして、リカルドが急にピタッ!と動きを止める。


「ミラ……、湿布を家に忘れた、かも……」

「……は?嘘でしょ?!」


 ミランダはリカルドの鞄を強引にひったくる。中の荷物を一つ一つ取り出し、何度も鞄の奥底まで目を凝らして確認、したものの。


「……本当に、一枚もない……」


 この街での滞在期間は少なく見積もっても四日間。湿布なしでリカルドに過ごしてもらうには少々酷である。


「うーん。この街の薬屋で湿布薬を買うしかないねぇ……」


 とは言うものの、か細い見た目や過酷な生活を送っていた割に、ミランダは丈夫で病気らしい病気にかかったことがなく、薬屋とは縁が薄い。

 この街の薬屋ってどこら辺にあったっけ。朧げな記憶を呼び起こそうと試みている最中、リカルドが「……薬屋?……」と呟いた後、「……あっ!」と突然大きな声で叫んだ。


「え、何なの?」

「薬屋と言えば、あの人のところだよ。ほら、歓楽街の中の……、男装姿の綺麗な女の子が働いていた……」

「あぁ!シャロンさんの……!」


 あの店は娼婦時代、避妊具や潤滑剤を買うためだけに利用していたが、そう言えば湿布薬や風邪薬などの一般的な薬も置かれていた。(薬屋なのだから当然と言えば当然だが)


「あそこなら宿からも左程遠くはないものね。この街に訪れる機会があれば、ぜひ顔を出して欲しいと仰ってたし……、ってことで早速お店に行かない?」


 ベッドに腰かけていたミランダはささっと立ち上がると、リカルドの腕を軽く引っ張り、出掛けるように促した。





 (2)


 二階建ての白い石造りの建物、シャロンの薬屋には『薬屋マクレガー』と書かれた立て看板が九年前と変わらず置いてあった。

 扉を開けると、薬草と化学薬品が混じった独特の臭いが鼻先を掠める。これもまた九年前と変わっていない。


「いらっしゃいませ」


 聞き覚えのある、落ち着きを含んだ高い声。黒檀製カウンターの向こう側には、あの時の少女ーー、いや、かつて少女だったと思われる女性が振り返り様にミランダ達に声を掛ける。棚に薬品を補充している最中のようだ。


「久しぶり、グレッチェン。私のこと、覚えてる?」


 ミランダは女ーー、グレッチェンに、にこやかに話し掛ける。グレッチェンはミランダとリカルドを訝しげに見つめつつ、遠慮がちに訊ねる。


「ひょっとして……、ミランダさんと……、旦那様、ですか?」 

「えぇ、そうよ。覚えていてくれて嬉しい」

「いえ……、お元気そうで何よりです」

「あなたこそ、男の子みたいだったのがこんなに綺麗になって」

「いえ、そんなことは……」


 ミランダに褒められ、グレッチェンは照れ臭そうに目を伏せてしまった。

 短かったアッシュブロンドの髪は肩ら辺まで伸び、ゆったりとした真珠色のローブ風ドレスの上に、毛織物で作られた濃紺色のショールを羽織っている。

 一見地味な出で立ちにも関わらず、彼女は何処から見ても気品溢れる美しい淑女に見えた。


 そのグレッチェンが美しくなった理由は、左手の薬指の指輪が全てを物語っていた。


「グレッチェン。結婚したの?」


 グレッチェンが、はい、と答えるよりも先にミランダはもう一つの理由にも気付く。グレッチェンの下腹部が丸い盛り上がりを見せていたからだ。


 リカルドがさりげなくミランダを気遣う視線を送ってきたが、あえて気付かない振りを決め込む。

 スターのお蔭か、近ごろは妊婦を見ても歯がゆい思いを感じなくなっていた。


「グレッチェン、お客かね?」


 カウンターの奥の扉が開き、仕立ての良いスーツを着た紳士、この薬屋の店主ことシャロンがようやく姿を現した。


「はい。シャロンさんが思い出す度に、『今頃どうしているのか』とよく気に掛けていた方たちですよ」


 シャロンはグレッチェンの言葉に対し不思議そうな顔を見せたが、ミランダ達の姿を見た途端、涼しげで端正な顔に穏やかな笑みを浮かべた。


「リカルドさんとミランダさんじゃないですか!おひさしぶりです」

「シャロンさん、お久しぶりです」

「この街を再び訪れた際にはぜひ店に来て欲しいという言葉、覚えて下さっていて嬉しいですね」

「いえ、こちらこそ覚えてくれていて嬉しいですよ」


 まるで昨日も会っていたかのような調子で、親しげに言葉を交わすリカルドとシャロンを、ミランダとグレッチェンは黙って見守ていた。

 しかし、シャロンの左手の指輪がグレッチェンと同じ意匠だと気づくなり、ミランダはこそり、グレッチェンに話しかける。


「……ねぇ、グレッチェン。もしかして、あなたの亭主って」


 グレッチェンは苦笑交じりの笑顔で頷いてみせる。


「はい。お察しの通り、うちの店主が私の夫です」

「やっぱりね。ほら、昔からあなたとシャロンさんのやり取りって、長年連れ添った夫婦みたいな雰囲気だったしね。納得だわ」

「嫌だなぁ、ミランダさん。それじゃあまるで、私は昔から彼女に頭が上がらないみたいじゃないですか」

「あら、違うんですか?グレッチェンによく怒られていたように思うんだけど」


 笑いを噛み殺しつつ、ミランダはシャロンをからかってみせる。


「ミラ!シャロンさんに失礼だよ……」


 十九年前の、傲慢で冷たい目をしていた頃のシャロンの印象が完全に払拭しきれていないリカルドは、妻の歯に衣着せぬ物言いにハラハラしている。

 そんなリカルドの心配をよそに、シャロンは軽く笑ってみせただけだった。

 本当に彼は性格が丸くなったなぁ、と、改めてリカルドはシャロンの変貌振りに目を丸くするばかりだ。


「あぁ、そうだ。シャロンさん。湿布薬を一〇枚程買いたいんです」

「分かりました。グレッチェン。奥から湿布薬を持ってきてくれないかね」


 はい、と、グレッチェンは短く返事をすると、奥の部屋へと姿を消していく。


「そう言えば……、話は変わりますが、お二人は明日、クリスタルパレス跡地で行われる慰霊の儀に参加されますか?」


 四年前にこの街で起きたクリスタルパレス炎上事件、事件の翌年以降、跡地で慰霊の儀が執り行われることは遠い地で暮らすミランダとリカルドも知っていた。二人は顔を見合わせ、どうする?と目配せし合う。


「シャロンさんは参加されるんですか?」


 ミランダの質問に対し、シャロンは僅かに片眉を擡げた。


「一昨年と昨年はグレッチェンと共に参加しましたよ。……私の友人だった男が、あの事件が元で亡くなっていましてね……」

「そうでしたか……、それはお気の毒に」


 リカルドが痛ましそうに表情を歪める。そんな彼を宥めるように、シャロンは口許のみで薄く笑ってみせる。


「ただ、身重の妻を長時間に渡って寒さと人混みの中に立たせたくないので、今年は不参加ですがね」 

「そんなに大勢の人が集まるんですか?」

「えぇ。この慰霊の儀にはファインズ男爵様が毎年参加されていますし、下世話な話、あの方の御姿を一目拝見したいがために参加する人々も少なからずいますから……」


 ここでシャロンは唐突に言葉を切った。

 おそらくリカルドとミランダ、ダドリーとの間における因縁を思い出してしまったのだろう。どことなく、気まずそうな表情すら浮かべている。


「お待たせしました」


 折よくグレッチェンが湿布薬を手にカウンターに戻ってきたので、この話は打ち切られることとなった。


 しかし、湿布薬の代金を支払うリカルドの隣で、ミランダは一人考えを巡らせる。


 シャロン曰く、『下世話な人々』の仲間入りは癪だが、ダドリーの姿を目にする絶好の機会なのはたしかだ。これを逃したら、きっと一生彼の姿を見る機会など訪れないだろう。


 シャロンの薬屋から宿へ戻る道中、ミランダは意を決してリカルドに誘い掛けた。


「ねぇ、リカルド。明日の慰霊の儀、一緒に参加してみない?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る