第30話 過去との対峙①

 ミランダとリカルドの元から、スターは巣立っていった。

  やがて季節がいくつか巡り、また年の暮れ、クリスマスが近づいてくる。


 リカルドとの仲を引き裂かれた人生で最も悲嘆に暮れた日でもあり、彼と十年越しの奇跡的な再会を果たした、人生で最も歓喜にむせび泣いた日。クリスマスは、二人にとって様々な意味を持つ特別な日であった。


 とは言っても、すでに結婚九年目を迎えようとしている二人。今更何をするでもなく、普段通り静かに過ごしている。

 きっと今年も例年通りの過ごし方──、スターが遊びに来て多少は賑わしくはなるかもしれないけれど、と、当然のように思っていたミランダに、リカルドが思いがけない提案を持ち掛けてきた。


「ねぇ、ミラ。今年のクリスマスから新年にかけて一緒に旅に出ない?」


 五年前にミランダが断酒の誓いを破って以来、年に二度程出掛けていた旅行の習慣は途絶えていた。また、スターの世話もあってここ数年、旅行に出掛ける時間的、金銭的、精神的な余裕が皆無に等しい状態でもあった。


「でも、ずっと旅行資金の小銭を貯めてなかったし……」

「それがあるんだよねぇ」


 リカルドは、悪戯っ子が悪だくみを企むような、ニヤニヤした笑みを浮かべると(彼がこのような笑い方をするのは珍しい)、作業部屋へと向かうため一旦居間を出て行く。

 リカルドの曲がった背中を(元々猫背気味だったが、年を取って更に曲がってしまったように思う)見送った後も、ミランダは怪訝な表情のまま、入り口の扉をずっと見つめ続けていた。


 数分後、開いた扉と共に、今度はニコニコとこれまた子供っぽく破顔したリカルドが居間に戻ってきた。

 かつて旅行資金用を貯めるために使っていた箱と、もう一つ、同じくらいの大きさの箱を両手に携えて。


「まさかと思うけど」

「うん、そのまさか」


 どうやらリカルドは以前と同じように、ミランダが酒を飲まなかった日はドライ・ジンの瓶一本分の小銭を何年も掛けてコツコツとため続けていた、らしい。

 呆気にとられるミランダを尻目に、リカルドは再び席に着き、二つの小箱をドンとテーブルに置く。箱を置いた時の音からして、二箱共に相当な小銭が入っている気がする。


「ちなみにね、僕だけじゃなくて、スターも時々協力してくれていたんだ」

「スターも?」

「うん。『ミランダのアルコール依存が治ったら、いつかまた夫婦水入らずで長旅に出掛けられるように』ってさ」


 リカルドとスターが、こんなにも自分のこと想ってくれていたなんて。


 ミランダの胸の奥がきゅぅぅっと締め付けられ、嬉しくもあり、なぜか切なくもある、何とも不思議な温かさで一杯になった。

 琥珀色の大きな猫目が徐々に潤みを帯びていく。涙に変わるのも時間の問題だろう。


 神様、私は今、身に余り過ぎる、贅沢で大きな幸せを、ちっぽけなこの身で痛い程に感じています。


 泣きそうなのを必死で堪えるミランダの痩せた肩を、再び椅子から立ち上がったリカルドは優しく撫でさすった。

 幼子をあやすような優しい手つきは込み上げる思いに拍車をかける。遂に大きな瞳から一粒、二粒と、涙の雫がテーブルに次々と落ちていく。


「泣かないで」

「……違うの。あなたとスターの気持ちが嬉しくて……」


 ミランダは先の言葉を続けることがどうしても出来なかった。続けようとしても嗚咽ばかりが唇から洩れてくる。

 リカルドは何も言わず、ただ、ミランダが泣き止むまで肩を撫で続けた。


 どれくらい時間が経過しただろう。


 ようやく泣き止んだミランダが、真っ赤に腫らした瞳と泣き膨れた顔で、どうにか微笑もうとぎこちなく表情を緩め、こう告げた。


「リカルド。私、もう一度あの街に行ってみたい。あそこにはほとんど辛い思い出しか残っていないし、二度とあの街の地を踏むものか、って、ずっと長い間思っていたけど……。でも、リカルドやスターのように私のことを思ってくれた人、例えばシーヴァやアダもいたし、何よりあなたと出会ったのはあの街だった……。そう考えるとね……、あんなに嫌だと思っていた街なのに、やけに懐かしく思えてきて……。それに、一度シーヴァや、あの子の子供たちにも会ってみたいしね。もちろんリカルドが行きたくないなら……」

「じゃあ、今度の旅はあの街にしよう」


 ミランダの言葉に被せて、力強い口調でリカルドが応える。


「本当にいいの……?」

「うん。だって、あそこが君が今一番行きたい場所なんだろう?」


 う、うん、と、ミランダは口籠りつつ、未だ硬い表情のままに頷く。


「だったら、僕が反対する理由なんか一つもないよ」


 ミランダの表情を和らげようとしてか、リカルドが微かに微笑む。つられてミランダも、ほんの少しだけ口元を緩める。


「よーし、出掛ける場所も決まったことだし、後は今請け負っている仕事をちゃっちゃっと片付けてしまおう」


 リカルドはすくっと席から三度立ち上がると、仕事を再開すべく居間から出て行こうとする。


「リカルド」


 ドアノブを握る後ろ姿に呼びかける。


「ありがとう。私、あなたと出会えて本当に、本当に良かったって心から思ってる」


 ミランダの言葉に、リカルドは思わず振り返る。


「……僕もだよ。紆余曲折を経てきたけど、こうして君と日々を穏やかに過ごせることを幸せに思っている」


 それだけ言うと、リカルドは居間から出て行く。


 リカルドと一緒なら、きっと大丈夫。

 もしも、万が一、あの男と再会してしまったとしても。



 リカルドには黙っていたが、ミランダがあの街へ行きたいと言った最も大きな理由ーー、それは。


 傲慢で冷徹な希代の放蕩息子から、あの街始まって以来の名君と謳われ、国中の者から賛辞を贈られるようになったダドリーの姿を、十九年前と比べて一体どう変わったのか、一度この目で見ておきたい。


 直に会いたい訳でも言葉を交わしたい訳でもない。一目姿を見る程度でいい。たったそれだけでいい。


 いい加減、ミランダは終わりにしたかった。


 十九年前から続き、未だに残されているダドリーへの憎しみから解放されたかった。

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