第15話 折れていく翼③
(1)
スウィートヘヴンから追い出されたミランダは、やはり売春業から足を洗うことなく別の娼館で働き始める。
ミランダが次に住み替えた「ルータスフラワー」というその娼館は、スウィートヘヴンと比べたらやや格の低い店だった。だからか知らないが、娼婦の質も少し劣っている、とミランダは感じ取っていた。
同じ店の仲間とはいえ、所詮は商売敵。少なくともスウィートヘヴンで働く女たちの間ではそういう意識が高い。
表立って諍いを起こしはしなかったが誰もが徹底した個人主義を貫き、必要以上に仲良く接することはなかった。
だが、このルータスフラワーで働く娼婦たちは妙に仲間同士の連帯感が強い。と言えば聞こえがいいが、ミランダから見れば、くだらない仲良しごっこに興じている、という風にしか見えない。
仲間同士でお揃いの持ち物を作ったり、安息日に集団で市場に出掛けたり、その癖、裏では誰かしらの悪口をこそこそと言い合っている。
裏で悪く言い合うような、程度が知れた仲の癖に、表向きは無二の親友だと言ってべたべたし合う女達の姿にミランダは辟易していた。なので、彼女たちの輪にあえて入ろうとせず、あくまで個人主義を貫き通していた。
当然、ミランダの態度は無愛想な性格も相まって、店の女たちからたちまち総スカンを食らった。彼女の美貌やこの店に入ってまだ日が浅いにも拘わらず、瞬く間に稼ぎ頭になったことへの嫉妬も含め、嫌がらせを受けることもしばしば。
相容れない存在ならそれはそれで捨て置いて、少しでも客が多く取れるような努力もせず無駄なことばかりをしている。
だから、いつまで経っても貴女達は永代稼ぎなんじゃない。
女達へ向けて、何度この言葉を突きつけてやりたい、と思ったか。
しかし、ダドリーからの手切れ金に絶対手をつけない、と意地になり、その金を使いさえすれば堅気に戻れるのにあえてそうしない自分も救いようがない馬鹿だ。
人のことを言えた義理じゃない、と、喉元までその言葉が出かかっても寸でで飲み込み、その皮肉を酒と共に流し込むのだった。
(2)
閉店後の深夜二時過ぎ。
いつものように、仕事後の自分への労いに煙草を吸い、ドライジンを舐めていると部屋の扉を叩く音がした。 嫌われ者の自分の元に訪れる人物など一人しかない。
「入って」
扉に向かって声をかけると幼い少女が一人、部屋へ入ってきた。
柔らかな漆黒の髪に切れ長の瞳、やや彫りの深いエキゾチックな顔立ちと異邦人を思わせる美少女。抜けるように真っ白な肌や榛色の瞳の色から察するに混血児のようである。
少女は、すでにほろ酔い状態のミランダの姿を目にするとおもむろに顔を顰めた。
そのままミランダの手をガシッと掴み、力なく広げた彼女の掌に『またお酒なんか飲んで。ミランダちょっと飲みすぎ。身体に悪いよ』と指先で綴る。
これが他の者であれば、「煩いね。あんたには関係ない」と突っぱねるが、この少女に対してはバツが悪そうに苦笑を漏らすのみ。
「もうっ、シーヴァってば手厳しいね」
『だって、ミランダが病気になったら私はすごく悲しいから』
少女は再びミランダの掌に指でこう書き綴る。今度は少し悲しげに顏を歪ませて。
普段は生意気なのに根はとても健気で優しい子なのだ。
「心配してくれてありがとう」
礼を述べると、少女は大仰に首を振ってみせる。年相応の子供っぽい仕草が微笑ましくて、思わず口元を緩めると共に、この少女の境遇を思うと不憫でならなかった。
ミランダがルータスフラワーで働き始めてからしばらくして、このシーヴァと言う一〇歳の少女が人買いに連れられてやってきた。
とある事情により、口が利けなくなってしまったというシーヴァを引き取ることをこの店のマダムは当初渋っていたが、器量の良さと珍しい毛色の混血児ということで、
実はシーヴァの話を耳にした当初、ミランダはこの店のマダムの商魂のたくましさにほとほと呆れ果てただけで、大して同情すらしていなかった。が。
ある晩、仕事後酒を飲み過ぎたミランダが洗面所に入ろうとすると、勢いよく扉が開いて中からシーヴァが出てきた。シーヴァはミランダを見た途端、ひどく怯えた顔をしてすぐさまその場から立ち去ろうとした。
何もいきなり怒鳴ったりした訳でもないのに、そんなに怯えなくても。いささか気分を害したものの、少女の口元に吐瀉物と思しき汚れがついているのに気づく。仕事の辛さから吐いていたかもしれない。
幼くして身を売らされていた、かつての自分の姿とシーヴァの怯えた表情が重なっていく。すると、自分でも信じられないような優しい言葉が口から飛び出したのだ。
「……シーヴァ、だったっけ?口が汚れてる。きれいにしてあげるから私の部屋へ来な」
シーヴァもシーヴァで、まさか他の娼婦たちから『美人だけど無愛想な性悪女』と悪評高いミランダから親切にされるとは思ってもみなかったようで、切れ長の瞳をパチクリとさせていた。
そんな彼女にかまわず、ミランダは小さな手を取り、半ば強引に自室へと彼女を連れて行く。
その日以来、シーヴァはミランダの事を姉のように慕い、ミランダも妹のように彼女を可愛がり、何かと気に掛けるようになった。
形は違えど、こんな自分でも誰かを大切に思いやれる心がまだ残っているなんて、と自身に驚きを隠せない。
シーヴァには幸せになってもらいたい。
ミランダのシーヴァに対する愛情は肉親に向ける情に近く、その想いは海のように深かった。あんなに頑なに使おうとしなかったダドリーの手切れ金を、シーヴァを自由の身にさせるために全額使い果たす程には。
自分には何の見返りもないのに。
偽善者ぶって馬鹿じゃないの。
誰も彼もがミランダの行動を嘲笑ったが、ミランダ自身は一片の後悔もなかった。
それは、更に底辺へと転がり落ちて行く状況に置いても、一度も変わることのない想いだった。
しかし、シーヴァとは親しくしていたものの、ミランダはルータスフラワーで働く娼婦たちとは変わらず折り合いが悪いまま、派手な諍いを何度も繰り返していた。(大半は、他の娼婦達に先に嫌がらせを受け、反撃していただけだったが)
そのせいで三年も経たずに店を追い出されてしまった。
手切れ金を使い果たした以上、自分に残された生きる道はただ一つ──、死ぬまで娼婦として生きるしかない。
二十も後半に差しかかり、美貌も少しずつ翳りを見せ始めたミランダが次に働き始めたのはルータスフラワーより更に格下の娼館――、いや、質の悪い酒場も兼ねた売春宿。 だが、そこでもミランダは店主と反りが合わず、結局二年程で店を追い出されてしまい、今では歓楽街でも一、二を争う低ランクの売春宿で働いている。
もしも今いる場所を追い出されれば。阿片と暴力によって身体がボロボロになるまで働かせるという噂の、ドハーティという男が経営する売春宿に行くか、母と同じく街娼となって路地裏で身体を売るしかなくなる。
「……まぁ、私なんかが野垂れ死んだって、別にどうでもいいよ……」
リカルドと引き裂かれ、ダドリーに捨てられてから一〇年。生きる希望も美しさも失い、落ちぶれ荒みきってしまった自分。
わざわざ自ら命を断つ気もないが、さりとてそこまで生きることに執着もない。
ただし、リカルドを思い出す時だけは優しい気持ちになって常に
――神様、私は何もいりません。その代わり、彼には幸せになっていて欲しい――
彼を想う時に浮かべる微笑みだけは、聖女のごとく穏やかで美しかった。
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