第二十話 半女半蛇の怪物ラミア
村をあとにした俺と長老は、草原をしばらく歩き『弱虫蛇の森』の手前へと至る。
「ずいぶん、暗い森ですね?」
森は、まだ真昼間だというのに、鬱蒼と生い茂る木々が、苔むした大地にほとんど隙間なく濃い影を落としていた。
そのなんとも言えない森の不気味さから、入ったら一生出て来られないのではないかといった模糊とした不安が、胸中で鎌首をもたげる。
「ええ。ですが、このまま真っ直ぐ進めば『オロチ山』の登山口が見えてきますので、安心してくだされ」
長老の発言を聞き、安堵の表情を浮かべた俺は、意を決したように立板に水で言葉を告げる。
「わかりました! いろいろありがとうございました! 必ず邪竜を討ち倒してみせます! では!」
俺の言葉を受けて、感に堪えない様子で長老が言葉を迸らせる。
「勇者さま! ご武運をお祈りしております!」
長老の温かい真心の籠った声が耳朶に触れると、それを合図とするように颯爽と森の奥へと歩みを進める。
夜雲龍彦の後ろ姿は深い森に吸い込まれるようにして、段々と小さくなり、徐々に見えなくなっていった。
手を振りながら見送る朗らかな笑みを浮かべた長老の目には、夜雲に対する期待と尊敬の色がありありと湛えられていた。
そう、夜雲の姿が森の奥へと消え去るまでは……。
夜雲の姿が森の奥へ消えると同時に、手を振るのをピタリと止めた長老の人好きのする表情が、あたかも感情が蒸発したかのように、たちまち無表情かつ無機質なものに変容を遂げ、その豹変に倣らうように温もりを宿していたはずの双眸も、その温かさを消失させ、代わりに氷のような身を切る冷たさをみなぎらせる。
そんな冷たい目つき、何かを諦めた冷めた人間のような目をした長老の右後ろから、出し抜けに「ねぇ」と鈴を転がすような女の声が響く。
長老はビクリと一瞬、身を震わせると、ゆっくりと声がした方向に身体の正面を向けて、忌々しげに呟く。
「おぬしか……」
そこにいたのは、息を呑むほどに美しい……裸の女だった。
暗い茶色の髪は腰まで伸び、濃い睫毛の陰ではダークブルーの瞳が怪しい輝きを放っていた。
その人間離れしたまるで絵に描いたように整った美しい容貌をした女からは、蠱惑的な色香が香水のように漂っており、男ならば、誰もが声を呑むに違いないほどの妖艶な魅力を、あたかもシックなドレスみたく平然と着こなしていた。
また、美しいのは容貌だけにとどまらず、手足のうち、手はすらっとしていて瑞枝のように美しい……のだが、残念ながら、足はすらっとしていない……というか美しいどうこうというより、まず足がない。
代わりに、蛇の尻尾が生えていて……にょろっとしている……。
これが蛇の尻尾ではなく魚の尻尾であったならば、人魚姫が現実にいたらこんな感じなのだろうと感嘆の息を漏らすところなのだろうが、女の下半身は艶やかな漆黒の鱗に覆われた蛇のそれであり、別の何かが漏れてしまうほどのおぞましさを放っている。
上半身は美しい女、下半身はおぞましい蛇。
そう俗に『ラミア』と呼ばれる怪物である。
右手には細く長い銀の錫杖のようなスタッフが握られている。
ラミアは長老を小馬鹿にするような面持ちで腰に手を当てて、何も身につけていない胸をピンと張る。
しかし、ラミアの長い髪のせいで、その全貌を窺い知ることはできない……ちくしょう……。
「それで……あの勇者さまとやらはどのくらい強いの? あんたが大好きだっていうあの大英雄くらい?」
嘲笑するような口調で長老に問いかけるラミアに対して、嫌そうな顔で長老が答える。
「まさか……せいぜいあんたの弟と同程度か……それ以下ってところじゃな……」
呆れたように呟く長老に、ラミアが一層その美しい顔を嗜虐的に歪ませ、長老をからかうようにして言葉を吐き浴びせる。
「ふーん。でも、あの子からは、タダならぬ何者かの気配を感じたのよね……。それこそ、あんたが崇拝してる大英雄を凌駕するくらいの何かを……」
ラミアの言に対して、眉間に皺を寄せながら、長老が弱々しく呻くように言葉を発する。
「それ以上は……」
その長老のやりきれない表情を見て、ラミアが満足気に破顔する。そして、追い打ちをかけるように言葉を迸らせる。
「キャハハ、あたしの可愛い弟があの子を、あんたの村の石像みたいにしてくれるとあたし的にはとても嬉しいんだけどなー」
「ぐぬぬ」
憤怒の籠った声にならない声を漏らし、怒りの色で満面を満たす長老に対して、ラミアがやれやれと肩をすくめて笑いかける。
「うふふ、もういいじゃない。過ぎたことは水に流しましょうよ。それに、あの石の魔除けの効果はもうとっくに切れてたし壊しても何の問題もなかったんでしょ?」
村のシンボルであり自信が尊敬してやまない大英雄を模った像に対するデリカシーの欠如した発言に、遂にぶちんと長老の堪忍袋の緒が切れる。
「そういうことではない! モンスターのおまえにはわかるまいがな!」
その怒声を聞いて、ラミアは満足そうに笑うと、軽い口調で小馬鹿にしたように不満を漏らす。
「何その言い方〜! 感じ悪〜!」
「うるさい! 言う通りにしたんじゃ! もう我らを解放しとくれ!」
長老の言葉を聞いて、ラミアは自信の顎に手を当てて、しばらく黙り込み小首を傾げる。
そして、長老に確認するように訊ねる。
「そうね。実際あんたの村には、魔力を持ってる村人はもう残ってないんでしょ?」
「そうじゃ! 今朝、捧げた白いエルフの娘で最後じゃ!」
「へー。それならもう解放でいいっか! じゃあね! 長老!」
ラミアは答えを聞くと、軽く手を振りながら長老に別れを告げる。
「もう二度と我らに、近寄るなよ! 化け物め!」
そう吐き捨て、踵を返した長老はそそくさと村へ早足で引き返して行く。
時折、警戒するように肩口からチラチラとラミアに視線を飛ばす姿からは、村の長の風格を感じることはできない。
ラミアはそんな憐れな長老の後ろ姿を見送りつつ、どこからともなく、薄紫色の水晶を取り出し、覗き込むようにしてそれを見つめる。
「さーて、あの子どもはどこにいるのかしら? うーんと、あ! いたいた!」
水晶に映るのは、森を歩く夜雲龍彦の姿だ。
「そろそろ……ナーガに連絡しておきますかっと……」
ラミアは自身の弟の名前を口にすると、左手を自分の左耳に覆うようにピタリとくっつけ、しばらくしてから、まるで電話でもするみたいにして言葉を紡ぎ始める。
「あーもっしー? ナーガ? あたしだけど……うん……もうそろそろ例の子どもがそっちに行きそうだから準備しといて……で、あと、勝てない感じだったら、お姉ちゃんが手伝ってあげるから……え? 俺は負けないって? なんかあの爺さんが言うにはあんたくらい強いらしいけど……え? 何? 聞こえない? あ! 切れちゃった……」
自分の左手のひらを繁々見つめて、魔電波の悪さにわずかに苦笑する。
「あの子どもで、邪竜さまが完全復活してくれたらありがたいんだけどなぁ……」
ラミアはそう呟くと夜雲を追うべく、さながら蛇の如く、森の苔むしった大地を滑るようにして先を急いだ。
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