第九話 ウォーターレプリカ
俺は足を引きずりながら、水鬼の足元まで戻ると、制服に付着した土埃や草をポンポンと両手で払い深い溜息をついた。
それから、ゆっくりと水鬼を見あげた。
五メートルを優に超える水鬼の巨大な体躯のせいで、首にわずかに疲労を覚えるが、そんな首の疲労感など……今はどうでもよかった。
吹っ飛ばされて痛めた身体のことも、今はどうでもよかった。
目の前に鎮座している脅威をどうにかしなければ、命がいくつあっても足りないという危機感が、疲労感や痛みを上回っていたからどうでもよかった。
この危機感を払拭するには、目の前のこいつを、水鬼をどうにかするしかないのだが……。
その方法は残念ながら詳らかではなかった……。
だから、「教えてください! 助けてください!」と安易に叫びたいところだが、生憎、周囲に俺を助けてくれるような人影はない……。
そう……未成年である俺が異世界で保護されることはない……。
つまり、俺に明日はない……。
進路で頭を痛める学生のように、学生だった俺は、こめかみに手を当てて悩むように呻く。
てか、呻きながら悩む。
しかし、何も浮かばない……。
まったくと言っていいほど何も思い浮かばない……。
そんな何も思い浮かばないことによる苛立ちと、名状し難い恐怖に支配されつつあった俺は、苦しみから解放されたい一心で目の前に聳え立つように立ち尽くす水鬼に、口を開いて、あることを危険など顧みずにあけすけに訊ねてしまう……。
頭からもくもくと白い煙を出しながら、パニックという名の底なし沼に両足を突っ込んだ俺は、おずおず訊ねることなく、後先考えずに、向こう見ずに目の前の暴力の化身と言っても遜色のないウォーターゴーレムにとんでもない訊き方で訊ねてしまう……。
「お前、どうやったら消えんの?」
言ってしまった……。
もう少し言い方を考えればよかったと、もっと下手に出ればよかったと、深く後悔してしまうくらい険のある口調で、質問をぶつけてしまった……。
だが、後悔してももう遅い……。
それくらい切羽詰まっていたのだ……。
テンパっていたとはいえ、取り返しのつかないことをしたことは、たしかだった……。
めちゃくちゃ怖い不良の先輩にタメ口をきけば、間違った口の利き方をすれば、殴られるのが自然摂理だ。
そのことを踏まえた俺は思い出す……。
パンチの風圧で、二十メートル以上吹っ飛んだことを、真っ直ぐに抉れた草原が、水鬼の常人離れした膂力の凄まじさを、雄弁に語っていたことを思い出す……。
まざまざ脳中で蘇った記憶の、甘酸っぱい蛇苺のような芳しい匂いに誘われて、背筋を冷たい蛇がゆっくり這いあがり、思わず声を呑む。
すると、目睫に肉薄する死を受け入れるかどうかで、くよくよする俺の耳に、突然若い女の鈴を転がしたような声が転がり込む。
「夜雲の馬鹿! あんぽんたん‼︎ そんな強気な口のききかたするなんて夜雲らしくない! 下手にでない夜雲なんて、私の知ってる夜雲じゃない‼︎」
めそめそする、あとがないことこの上ない俺は、涙交じりに俺を叱責する幼馴染を自分のすぐ斜め左に目視する。
しかし、自分に幼馴染なんかいないことを即座に思い出すと、その幻覚を振り払うようにブンブンと頭を振って、ついでに左斜めに逸れてしまった視線を元に戻し、目の前の現実を直視する。
それから、その目を背けていたかった恐怖から注がれる炎熱下の太陽光のような視線を全身に浴びた俺は、滝のようにダラダラと汗を垂らし、ただ死を待つことしかできない自身の不甲斐なさを恨みながら、恐る恐るその恐怖の化身たる水鬼の返答を待った。
そうして、今まで生きてきた中で一番長い数秒間の沈黙を経て、遂に水鬼が動き出す。
水鬼は口の両端を持ちあげると、莞爾と微笑んでみせた。
その身の毛もよ立つ笑顔につられて、俺も返すように、水鬼の機嫌を損ねないように、笑みを浮かべてみせる……。
しかし、俺の浮かべたその笑みはどこかぎこちなく、燻んでいて、顔色は水鬼よりも青く、にもかかわらず澄んでない空を彷彿とさせる色合いに違いなかった。
その泥縄で、でっちあげた歪な俺の笑みを合図に、さらに大量の嫌な汗が体外へと放出される。
ちなみに、その汗も澄んでいない。
俗に言う、脂汗という汗だった。
そんなこんなで、目尻に涙を溜め、憂いを帯びた俺を尻目に、ようやく水鬼がその巨大な口を開く。
「ご主人……さま……。ご命令……を……」
その言葉を聞いて、続いてズコーという漫画の効果音のような幻聴を耳にした俺は、眉間に青筋を立てながら、緊張でガチガチになった肩をプルプルと震わせる。
次いで、男らしく「てめぇ……殴ってやろうか?」と心の中で拳を強く握り込みながら気炎を吐く。
それから、プルプルという振動でほぐれた肩を大仰にすくめ、嘆息混じりに呟く。
自分とは思えない口調で、けんもほろろに呟く。
「じゃあもういいからそこで立って見てて……」
新人バイトが言われたら嫌なことランキング第一位と言っても過言ではないセリフを無慈悲にも投げかける。
直後、そっぽを向いて、俺の冷厳たる命令に素直に従っているであろう水鬼から降り注ぐ圧力を内包した視線を無視しながら、気を取り直して、残り三つの魔法に意識を集中させる。
「じゃあ、今度こそ、ウォーターレプリカだ!」
そう独りごちながら、かがみ込んで原っぱに右手をのせる。
そして、思い出したように水鬼の足元に視線を向ける。
いつの間にか、水鬼を召喚するために使用した魔法陣はその姿を消していた。
「魔法陣が消えてる? ということは魔法陣をもう一つ展開しても大丈夫なのか……?」
新しい魔法陣を展開すると、古い魔法陣が消失する、という記憶をありありと思い出しながら、努めて慎重に魔法陣を展開させる。
「魔法陣! 展開!」
すこぶる元気よく、颯爽としてかっこよく、そう叫ぶと、右の手のひらがわずかに光り、その手のひらを中心にマンホール大の半透明な魔法陣が、再度展開される。
それと同時に、水鬼に一瞥くれると水鬼は消えることなく、そこにいて、おぞましい笑みを湛え、繁々と俺を見据えていた。
俺は安堵しながらも、「こっち見んな! あと、笑うな!」と理不尽なことを胸中で言い放つと、ふーっと息を吐いて、「よし! 絶対成功させるぞ!」と言って敢然と決意を口にした。
それから、記憶の糸をゆるゆる手繰り寄せる。どうやって、水鬼が召喚されたかを詳らかにするために。
そうして、気がつく。
半透明な魔法陣を前にして、水鬼の名前を、魔法名を自分が口走っていたことに気がつく。
「これだ! ウォーターレプリカ‼︎」
俺は声を張りあげ、そう口にすると、続いてすぐに魔法名を叫び、半透明な魔法陣をつぶさに眺めた。
そうすると、思ったとおり、水鬼を召喚するときと同様に、魔法陣が青く染まり、大きさが『二倍』に拡大した。
やった! と心中でガッツポーズをしながら、我になく首を捻る。
召喚するクリーチャーに応じて、魔法陣の大きさが変化するのか?
そういった考察をしつつ、いそいそと自分のレプリカが召喚されるのを待つ。
魔方陣が拡大してから二、三秒すると、魔方陣に目に見てわかるような変化が起き始めた。
魔方陣の中心に、水面に小石でも落としたかのような小さな波紋が生じ、かすかに揺らめき蝋燭の火のように輝き始めたのである。
「おお! 来るか!」
俺は期待に満ちた声をあげ、身を乗り出す。と見る間に、魔法陣からいきなり腕が飛び出し、地面から這い出るゾンビのようにして……びしょびしょに濡れそぼった俺にそっくりな無表情な顔のクリーチャーが、緩慢かつおどろおどろしい動きで這い出してきた。
俺は即座に、ギョッとして剥いた双眸で、四つん這いになり、産まれたての子鹿の如く小刻みに震える俺と瓜二つのその胡乱なクリーチャーを目に留め、言葉を失い、金縛りにでもかかったかのように硬直する。
しばらく……というか数秒の間、身じろぎ一つせずに身構えつつ、目の前の俺に似たそのずぶ濡れの生き物を仔細に観察していると、にわかにその小刻みに震える濡れそぼった身体がピッタリと静止した。
何ごとかと思い、思わず目を細める。
すると、「う、う、う」という苦しそうな呻き声が、そのクリーチャーの口の隙間から漏れ始めた。
再びギョッとして皿のように目を見開く。
瞼を開き過ぎたせいで、目の表面が干あがり始め、若干ひりつくが、目を離すわけにはいかなかった。
釘づけになる俺を他所に、周囲に満ちたしじまを縫うように立て続けに、まるでミシンのように、草原に四つ這いで釘づけになったクリーチャーが発する呻き声が、小さな羽虫の如く俺の両耳に次々と潜り込む。
どうするべきか逡巡していると、出し抜けに「う‼︎」という大きな音の塊が、目の前のクリーチャーの口から飛び出す。
その「う‼︎」という一際大きな呻き声を皮切りに、堰を切ったように、立て板に水を流すような勢いでゴホゴホゴボゴボと大量の水の塊が、クリーチャーの口から吐き出された。
その奇妙な光景を前にした俺は、「うわ!」と思わず声を漏らして後退り、セレブな人々の家のお風呂によく設えられているというライオンの頭部を模した蛇口と化した、俺にそっくりなそいつを見据えて、心の中でポツリと呟く。
何これ……? と。
そして、やにわに、困惑する俺に追い討ちをかけるように「ぐわああああああああ‼︎」という断末魔のような叫び声が俺の耳をつんざく。
俺は反射的に、叫び声のした方向に目を向けた。そうして、眦を決して、絶句した。
驚いたことに、眼前には水鬼がいて、どういうわけか悶絶しながらその巨体をくねらせていた。
しかも、よくよく見ると、砂の城が崩壊するみたく、水鬼の身体のあちらこちらが、ボロボロと崩れ始めていることに気がついた。
突然の出来事に、混乱しながら目を白黒させていると、その恐ろしい鬼の面に、愁いを湛えた水鬼が呻くようにとつとつと言葉を口にした。
「ご……主……人……さ……ま……。ど……どうし——」
そして、水鬼は言葉を言い切る前に、模糊たる靄が霧散するようにして、その存在が最初からなかったかのように、綺麗さっぱり目の前から掻き消えてしまった……。
お、俺のせいなのか……?
あ、後味が悪すぎる……。
何が起こったか理解するよりも早く、心苦しさのような複雑怪奇な暗い想いが胸中に兆した。
そんなとき、俺が不快そうな表情を浮かべながら、あたかも救いを求めるように、自分は悪くない、と責任の所在を求めるように、水鬼消滅の原因だと思われる、自身のレプリカだと思われる自分に瓜二つのクリーチャーの方に目をやると……そのクリーチャーは、前髪から水を滴らせながら、嫌な笑みを俺と瓜二つのその面に浮かべていた……。
その光景を目にした俺は、ギョッとして、眦が裂けるほどに、目を我知らず見開いた。
それからややあって、驚愕する俺の視線と笑み崩れるクリーチャーの視線が、意図せず何かの拍子にぶつかった。
その刹那、クリーチャーの満面から表情がたちどころに消え失せた。
そうして、俺は、感情の消え去った自分とよく似た満面を見据えて、電撃的に確信した。
こいつは……こいつは……たしかに……俺のレプリカだ……と。
俺はその事実を呑み込むと、途端に毒林檎を齧ったお姫様の如く、力なく、その場に頽れて、「もう……嫌だ。疲れた……。お家帰る……」と澄んだ空を仰ぎながら、澄んだ一筋の涙を流して独りごちた。
青く生い茂った草の上で拗ねた子どものように、そんな泣き言を泣きながら言うこの俺を、魔王を倒さなければ帰宅することができない宿命を背負ったこの俺を、レプリカは無表情で、かつ無機質な目で、ただただ鏡を覗き込むかのようにして見つめていた……。
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