第3話 古屋敷と大男
さっぱりと疲れを落としたお風呂上がり、私は何ともなしに自分のおでこと頬を触った。ジュディドさんにキスされたそこは、洗うことができずそのままだ。あの時のことを思い返すと、顔から湯気が出そうになった。
「奈央、真っ赤かね。ちょっと長風呂しすぎたんじゃないかしら?」
エミルさんが部屋にやって来て、私の顔を見て心配そうに言った。
「あっ、だ、大丈夫です。のぼせただけ」
のぼせた原因はお風呂ではなかったが、それは言わないことにした。
「もうすぐ夕食だから、時計の鐘が鳴ったら食堂に来て頂戴」
「はい、ありがとうございます」
この屋敷は広すぎて迷路のようである。住人にとっては慣れた回路も、私にとってはどちらに曲がって良いのかいまだに迷う。
「奈央、こっち」
声のする方を見ると、ベルナールがおいでおいでと手招きをしている。
「うちに来るお客さんはいつも迷うんだ」
ベルナールはニコッと笑って私の手を掴んだ。可愛らしい小さな手だ。
ベルナールに連れられて食堂に着くと、すでにもう家人たちは揃っていた。
「奈央、遅かったな」
ジュディドさんが椅子を引いてくれた。
「すみません、迷いました」
「後でこの古屋敷を案内しよう」
そう言うと私の隣に座った。ベルナールも私のもう片方の隣にちょこんと座る。
「今日は兄が同席するんだが、ちょっと気をつけてほしい」
「気をつけるって?」
「兄は、何というか…」
「おいっ、帰ったぞ」
どすんと扉を開け大男が入って来た。ドスドスと歩いて空いていた一席に座る。
「兄さん!」
ジュディドさんとエミルさんが同時に叫ぶ。兄さんと呼ばれた彼は、しかしジュディドさんやエミルさん、ベルナールともあまり似ていなかった。
「この女がおまえの言っていた『楽士』か?」
私をじろりと見つめる。
「この家の当主として言う。客人としてはもてなそう。だが、俺はジュディドの弟子とは認めん!」
「兄さん!落ち着いてよ」
エミルさんがとりなす。
「さあ、要件は済んだ。もう行く」
大男が扉へ向かう。
「兄さん、食事は?」
ジュディドさんが止めたが、
「部屋で食べる。移動魔法で運んでおいてくれ」
大男は食卓の輪をさっさと出て行ってしまった。
「奈央、兄さんがすまない」
「いえ、私は居候の身ですし…何と言われても仕方ないかと」
「いや、兄さんは客人として君を嫌っているわけではないんだ。ただ…」
「ただ?」
「ただ、兄さんは昔から魔力のない者を認めたくないんだ。」
「そうなんですね。魔力なしは暴力を振るわれると聞きましたが、やはり好かれていないんですね」
そう思うと、ジュディドさんやエミルさん、ベルナールは特別なのだと感じた。私はこの人たちに拾われて運が良かったのだろう。
「とにかく兄さんに何と言われようと、奈央が私の弟子であることには変わりない。そこは忘れないでくれ」
「ありがとうございます」
ジュディドさんは安心したようにほっとため息をついた。
「さて、食事にしよう」
満腹まで食べたので、私は部屋のベッドで楽譜を眺めながらゴロゴロしていた。するとノックの音が響き、扉の向こうから呼びかけられた。
「客人、話があるんだが入るぞ?」
あの大男のお兄さんだった。どうぞと言った瞬間に大男はどすんどすんと足音を立てて入って来た。
「お話とは?」
「おまえに明日、街に行って手に入れて来てほしいものがある。楽器のピッコロだ」
「はい?」
思わず疑問形になった。
「ただし一人で行ってくれ。場所は繁華街を通り過ぎたペペロンの店だ。」
「フランツさんの店ではないのですか?」
フランツさんの店はジュディドさんがフルートを買い与えてくれたところだ。店主も感じが良く、楽器も豊富だった。
「そこでは意味がない」
「なぜ」
「ペペロンの店で無事にピッコロを手に入れられたら、俺はおまえを楽士として認めてやろう」
「どういう意味ですか?」
質問に答えず一方的に話す大男に苛立ちながら、客であることを思い出して自分を必死に宥める。
「この街で魔力なしが一人で出歩くのは危険だ。だがその危険を回避して無事に楽器を手に入れることができたなら、おまえは楽士として本物だということだ」
「わかりました。つまり私はお兄さんの言う『本物』か試されているんですね」
「まあ、そういうことだ」
「でもどうしてこんなことをする必要があるんですか?私が気に入らないなら追い出せばいいだけじゃないですか」
「そういうわけにはいかない。ジュディドがおまえを気に入っているからな」
ジュディドさんに気に入られている。途端に嬉しくなる。
「だがジュディドには家同士で取り決めた婚約者がいる。だから若い女にうろちょろされては困るんだ。でも本物の楽士なら仕方がないと先方も納得してくれるだろう」
ジュディドさんに婚約者。胸がザワザワと騒いだ。
「楽士としてならうろちょろしても良いんですね」
私は念を押して確認した。
「あ、ああ」
「それなら明日の準備をします。もう出て行っていただけますか?」
思わずぞんざいな言い方になったが、お互い様だと気を取り直した。
「言われずともそうするさ」
それだけ言うと大男は部屋から去っていった。
「奈央?」
扉をノックする音。入れ違いにジュディドさんが訪ねて来た。
「この屋敷を案内すると約束しただろう、来るか?」
「はいっ」
先ほどの荒ぶれる兄とは対照的に、ジュディドさんは口調こそぶっきらぼうだが態度はすこぶる優しい。この人に拾われて本当に良かった。
屋敷の中を歩き回りながら、ふとあの大男に言われたことを思い返す。「ジュディドが気に入っているからな」。私を?
ジュディドさんの横顔を覗き込みながら考えた。私はこの人のことが好きなのだろうか、と。
「奈央?私の顔に何かついてるのか?」
「あっいえ、違います」
「そうか。そんなに覗き込んでどうした?」
「ええっと、その、ジュディドさんには婚約者がいるとお兄さんから聞きました」
突然、何を聞いているんだと自分が恥ずかしくなった。けれどジュディドさんはああと呟くと、どことなく気まずそうに言った。
「カレンのことか?家が決めたことだ。お互いに積極的には了承していないよ。そのうち解消されるかもな」
「そうですか…」
それを聞いてどこかでほっとする自分がいた。
「あの、ジュディドさん」
「ん?」
「お願いがあるんですが」
「なんだ改まって」
「あの、私も皆さんが羽織っているようなローブが欲しいんです」
明日、街に出かける時のために。
「見た目だけでも魔法が使えるように見せかけたくて」
「そうか。それなら姉のローブで余っているものがないか聞いてみるよ」
「ありがとうございます」
「私からも伝えておきたいことがある」
「何でしょう」
「兄はあの性格だから、奈央に何か良からぬことを吹き込むかもしれない。でも聞かないでほしい」
既にもう吹き込まれているとは言えなかった。
けれども私は決めていた。明日、街に出かけることを。売られた喧嘩は買うのが私の流儀なのだ。
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