第7話 少女
私は持ってきたフルートを構えると、テンポの遅い、低くて冷たい音楽を奏でた。今のローザはきっとこんな気分だろうと想像しながら。
「奈央…?なぜこんな悲しい曲を?」
カレンが小声で耳打ちした。私は目線でこれでいいのだと諭す。邸内にはしばらくの間、物哀しいフルートの音が響き渡った。
吹き終えたとき、部屋の中からすすり泣く声が聞こえた。ローザだ。
「ローザさん?もしよければ中に入れてもらえないでしょうか」
ローザは何も答えなかった。けれどもドアの鍵がガチャリと鳴り、静かに扉は開かれた。
中にはローザと初老のばあやがいた。ローザはベルナールと同じくらいの年だろうか。長い金髪を巻き毛にして、大きな瞳からは大粒の涙が静かに流れている。お人形のような子だ。ばあやは始終ローザに付き添って、甲斐甲斐しく世話をしている。
「こちらに…」
私達を招き入れてくれたのもばあやだった。ローザはベッドでまだすすり泣いていた。
「お嬢様…」
私とカレンはそっと部屋に入った。好々爺は遠慮しているのか、中に入るのを躊躇している。
「どうぞ、旦那様も」
促されて好々爺も入る。
私はローザの前に小さくそっと座ると
「ローザさん、もう一曲いかがですか?」
と言って次の曲を始めた。
次の曲もテンポがゆったりとした低い音の曲だ。ただし先程よりは明るめの曲調を選んだ。
不思議なことに、ジュディドさんにもらったブローチのあたりが温かくなり、守られているような感覚を覚えた。
それはローザにも伝わったようで、涙は止まり、伏せ目がちだった瞳をこちらに向けた。この曲を選んだのは正解だったろうか。吹き終えて、彼女の方をしっかりと見る。
「はじめまして、ローザ。私は奈央。彼女はカレンよ」
だが、しかし。ローザは何も答えなかった。それどころか部屋中の物を魔法で浮き上がらせ、私に向かって投げつけた。
「きゃっ」
思わず避ける姿勢を取ったが、何も当たらなかった。そっと目を開けるとカレンが魔法で止めてくれていた。
「カレン、ごめんね」
「気にせずともよい」
「…知らないくせに…」
「えっ」
ローザが何かつぶやいている。それは次第につぶやきから叫びへと変わっていった。
「…知らないくせに。何も知らないくせに!人の心に勝手に踏み入らないで!!」
髪を逆立て目を剥いた少女は、私のフルートを取り上げると床に叩きつけた。
いや、それは一瞬のことだった。私は身体を張ってフルートが壊れるのを阻止した。ジュディドさんに与えられた大切なフルート。しかしそのせいで肩と腰を思い切り床にぶつけてしまった。
「奈央!」
カレンが駆け寄る。
「申し訳ございません!お怪我はございませんか?」
ばあやがすかさず謝る。
「孫娘が申し訳ない。今日はこのくらいでお開きとしよう。手当もあろうし、客人は泊まっていかれるがよい」
好々爺が言った。
客室ではカレンが治癒魔法を施してくれた。
怪我をした場所の痛みはすぐに引き、打撲の跡も残らなかった。
「カレン、ありがとう」
「どういたしまして。なんたって私にとって治癒魔法は十八番だから」
「こんな能力があるなんて、魔法使いって羨ましい」
「奈央には音楽があるじゃない」
「うん。でもその音楽で今日は失敗しちゃった…」
「あの子、人の心に踏み入るなって言ってたね。逆に言えば、奈央の音色は心に入り込むほど響いたってことじゃない?」
カレンがウインクをして励ます。
「そうだといいな。でも初対面でいきなり心の中に入られるのは嫌だったかも。もう少し仲良くなってから試すべきだった」
私は反省した。
「また挑戦すればいいよ」
カレンが慰めるように言った。
「明日は私が治癒魔法を試みてみるよ。現状、脚の状態がどんなものか知りたいし」
「そうね」
「あの子が心に立ち入らないでほしいと言うなら、まずは身体から治すしかなさそうだしね」
「うん…」
この調子でいくと、ローザの脚を癒やすには時間がかかりそうだ。しばらくはあの古屋敷に帰れそうにないだろう。ジュディドさんにもしばらく会えない。
そう考えると少し寂しくなった。私は胸のブローチをそっと見た。私の御守。
「カレン、やっぱり私、明日もフルート吹くよ!アプローチの仕方を変えてみる」
「うん?でもどうやって?」
「それはね…」
翌日、私はカレンの治療中のBGMに徹した。曲目も明るくゆったりとしたリラックスできるものを選んだ。それから不用意にローザに声をかけることを控えた。その役目はカレンに任せた。
「ローザ、痛むのは左脚?」
カレンはローザの足元を凝視しながら聞いた。
「…ええ」
「確かに滞った気が放たれている。触ってもいいかしら?」
「…ええ、構わないわ」
カレンはローザの脚を診ながら呪文を唱えた。患部の血行が良くなったのか、ローザはほっとした顔をした。
「このハーブティを朝晩飲んで。身体が温まって気の巡りが良くなるわ」
カレンはハーブをばあやに渡した。一方で魔法でお湯を沸かしてハーブティを抽出し、ローザに飲ませた。
「なんだか眠たくなってきたわ」
まどろんだ瞳でローザは言った。
「疲れが取れるまで眠りなさい。あなたには休息が必要よ」
呪文を唱えてローザを寝付かせるカレン。私も吹いている音量を落とし、スピードダウンした。それから眠りを誘う曲を選んで流した。ローザはうとうとと眠りに落ちていった。
「ああ、お嬢様がこんなに安心して眠っているのを見るのは久しぶりです。ありがとうございます」
ばあやが涙ぐんでお礼を述べる。
「しかし、問題があります。この脚はおそらく完全には治らないでしょう。私の治療は痛みを和らげることしかできません…」
カレンが悔しそうに言う。
「やはりそうなんですね。お医者さまに診ていただいても同じ結果でした。お嬢様になんと伝えたら良いか…」
「折を見て私から伝えましょう。いずれ受け入れなければならないことです」
「そうですね。お嬢様には辛いことです」
「ええ」
二人の会話を聞いて、私は昨日のローザの反応を思った。おそらく彼女は治らないことを知っていたのではないだろうか。だから傷ついた心に踏み入ってほしくなかったのではないのか。
私は再び反省した。そして後悔もした。得意な音楽でコミュニケーションを図ろうとしたのが仇と出たのだ。
「カレン、私も精一杯BGMに務めるね」
「ああ、お願いね」
翌日も翌々日もカレンの治療は続いた。ローザの体調は良くなっていったが、治らない脚の話について、カレンは切り出せずにいた。
「どのタイミングで言うべきか」
カレンは悩んでいた。
「ねぇカレン、私、ローザはもう気づいていると思うの、自分の脚のこと。治らないって」
「どうしてそう思うんだい?」
「私が不用意にローザの心に踏み入った時、彼女は傷ついていた。だから知っていたのよ、きっと」
「なるほど…」
「カレン、脚のこと、私が伝えてもいいかしら?」
「ええ?」
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