第33話  九年間(1)

 あれから九年が過ぎ去った。あれからというのは奈央がこの国を去ってからのことだ。

 この国と奈央の世界とを安全に行き来できる方法を見つけたジュディドは、ただひたすらにそのことを奈央に伝えたいと願ってきた。

 奈央とうまく交信さえできればーー。

 だが交信魔法は上手く繋がらず、すれ違いで毎晩終わる。

 奈央は今頃どうしているのだろうか。ジュディドは月が天頂に昇ると物思いに耽るようになった。


「兄上、用意ができました」

 ベルナールがジュディドを呼ぶ。今日はベルナールの魔法学校の卒業式だ。家族で出席しようと皆で集まった。

 この九年でジュディドの周りはずいぶんと変わった。長兄は妻を貰ったし、姉は結婚して子供ができた。弟のベルナールは卒業後、魔法省に入省することが決まっている。

 九年の間にジュディドは魔法省の一級魔導士に指名された。魔導士とは未熟な魔法使いを導く魔力も人徳も高い魔法使いのことだ。一人前の魔法使いを育てよと、職場からの期待が厚い。

 長兄からは奈央のことは忘れて、さっさと結婚しろとうるさく言われたが、とてもそんな気にはなれなかった。

 ジュディドは魔法省の仕事とは別に、セルアーニャの研究も手伝っている。「魔法使いの扉」以外に「魔力溜まりの泉」からも、この国と奈央の世界を行き来できるらしいと知って、セルアーニャは目を輝かせ、ずいぶんとやる気満々だ。

 ジュディドはその行き来の方法を知っていたので教えたかったが、教えようとすると魔法省から検閲ブザーが鳴らされるからできなかった。ただ、ブザーが鳴るということは、自分の発見は間違っていないのだろうと自信が持てた。


「ベル、おまえもこれで一人前の魔法使いの仲間だ。おまえはこの家で一番魔力が強い。立派な魔法使いになるよう努めるんだぞ」

「はい、兄上」

 ベルナールはきりりとした大きな瞳を輝かせて兄の言葉を受け止めた。

「さあ、出かけようか」


 卒業式の帰り道、ザハードから連絡が入った。妻のリサが奈央たちの世界から戻ったから、何か聞きたいことがあれば家に来いという。

 ジュディドはありがたく招待に応じた。

「いらっしゃい」

 出迎えてくれたのは細君のリサだった。

「昨日、日本から帰ったばかりなの」

「それはお疲れのところ、申し訳ない」

 ジュディドは詫びた。

「いいのよ。奈央のことで聞きたいことがあるんでしょう?」

「ええ」

「残念だけど、奈央の消息は不明なの。小さな国だと言っても日本の都会は人が多すぎる。九年前の地震から立ち直って街の姿は見違えるほどきれいになったけれど、地震の混乱で住んできた土地を離れる人も大勢いたし…」

「そうですか…」

 ジュディドは残念そうに言った。

「でも気落ちしないで。あの地震の影響で当時高校生の女の子が亡くなったという情報は入ってないの。奈央は元気に生きているはずよ」

「ええ。ありがとうございます」

「ジュディは『魔力溜まりの泉』の秘密はもう知っているんでしょう?答えを自分で見つけたってザハードから聞いたわ」

「はい。できることなら、魔力溜まりの泉を使ってあちらの世界に渡れるリサさんと答え合わせをしたいところですが。答えを言おうとすれば検閲ブザーに阻まれるので…」

 ジュディドは残念そうな顔をした。

「きっと合っていると思うわ。『神秘の鏡』を見て分かったんでしょう?それなら正解だわ」

 リサの言葉はジュディドに自身を持たせた。とは言え、肝心の奈央にこの方法が伝わらなければ意味がないのだが。


 ジュディドはリサとザハードと別れ、家に帰る前に魔力溜まりの泉に寄った。奈央と初めて会った場所だ。

 時は夕暮れだった。太陽が沈み、反対の空に白い月が浮かんでいる。風はなく、魔力溜まりの泉も「神秘の鏡」のように水面に暮れない時の空を映している。本当の鏡のように。

 ふと、魔法祭の夜を思い出した。暮れていく夕日の中、丘の墓地で奈央が鳴らしたピッコロの音色。オレンジ色に輝いた丘と街の景色。

 その後、日本で地震が起きたと知っても帰らないと言った奈央。それでも結局、手紙を残して帰ってしまった奈央。


 ジュディドはおもむろに奈央の手紙を取り出して読み返した。日本語で書かれたその文字を、今はもう翻訳魔法を使わなくてもいいほど読み込み、諳んじてしまった。


「ジュディが泉で私を助けてくれたおかげで、この国で私は虐げられることなく生き生きと生活を送ることができました」


 私の方こそ、おまえのおかげで生き生きと生きられた。誰かを愛し愛されてどれほど幸せだったことか。


「ジュディが竜に攫われてしまった時は心配で心配で心細くて、あの時、私はどんなにあなたを愛しているのか気づきました。あなたを見つけた時の私の喜び、分かるかしら?」


 私こそ、おまえがいなくなってどれほどおまえを愛しているか思い知らされた。

 おまえこそ知っているだろうか、私がどれほどおまえを愛おしいか。


「結局、双方向の道は見つけれなかったけれど、私は必ず見つけてあなたの元に戻ります。

どんなに時間がかかっても、必ず見つけてみせる。

これからは毎日、月が天頂に昇る時、あなたのことを考えることにします」


 私も約束通り、毎日毎晩、月が天頂に昇るとき、おまえを想い続けている。

 おまえが必ず戻ってくると信じて。


「ジュディ、いつか『奈央からキスをしてほしい』って言っていましたね。

この手紙にキスを託します。

戻るその日まで、信じて待っていて。 奈央」


 奈央ーー。

 今、おまえは何をしている?

 どこにいる?

 必ず見つけてみせると言った、この世界に来る方法は見つけただろうか?

 それとも私のことなぞ忘れてしまったか?九年という月日は子どもだったベルナールが大人になるように、誰かを覚えておくには長すぎる。


 ジュディドは魔力溜まりの泉のほとりまで歩くと、適当な場所を見つけて寝転がった。

 あの水の上に自分が浮かんだら、向こうの世界に行けないものか。何度も考え、何度も試した。だが、だめだった。魔力溜まりの泉は魔法使いの通行を拒んだ。

 魔力溜まりの泉だけではない。魔法使いの扉も竜の根城も、けして魔法使いは通さなかった。魔力が強いものほど拒むようだった。

「奈央…」

 この九年、会いたいと何度想ったことか。

 ジュディドは顔に手を当てて、はぁーっとため息を漏らした。指の合間から空を見上げると、白んだ月が見えた。夜が深まると告げるように、月は空を昇っていく。

「奈央」

 もう一度名前を呼んだ。身体の芯に刻まれたその二文字の言葉を、ジュディドは愛おしく思う。

「奈央」

 その時、「ジュディ」と答える声が聞こえた。……気がした。空耳だろうかーー。交信の時間には早すぎる。月はまだ昇りきっていない。そんなことを考えた。


 泉から大きな水音がする。水鳥だろう。バタバタと水面をかく音。

 ジュディドは泉の方を見遣った。泉の中心には鳥ではなく人らしき影があった。

 まさか、と思った。

 まさか。

 ジュディドは期待した。

 起き上がって走ると泉に飛び込み、無我夢中でその影に向かう。

 影もこちらへ向かってくる。

 影はバシャバシャとまっすぐに泳いでジュディドに飛び込んだ。

「ジュディ…!」

 懐かしい声がした。愛しくて切ない、待ち望んだ声が。

「奈央!」

 ジュディドは奈央を掴むと抱きかかえ、夢中でキスをした。九年分の愛を込めて。


 

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