第27話

 朱はうてなの名を呼ばなかった。おそらくまだ関係は一方的なものなのだろうが、それでも朱はうてなに心を許しているらしい。危険な兆候だな、思いながら俺は綾姫の前をぽすぽすと飛んで結界に入る。朱が俺達の名前を知らないのは僥倖だったが、それもいつまでもつか分からないだろう。同族を裏切ることはないかもしれないが、何か言葉巧みに引っ掛けられることはあるかもしれない。


 おまけに街公認でお付き合いしていることになっているってのは厄介だ。外堀を埋められたら、俺のようなふわもふに恋愛感情を持つことなんて誰にも考えられないだろうし、認められないだろう。ただでさえリードを取られているのだ。やってられない。


 という訳で俺は今日の決心をうんっと固める。

 ずばり、綾姫都のキスに舌を入れる事だ。

 流石にそうすればボケボケな綾姫だって、俺の感情がどういうものか分かってくれるだろう。


 風呂を前にふんっ、ふんっと鼻息を鳴らしていると、蒼? と呼ばれた。銀はもう風呂場に入っている。こいつの恥じらいはどこに行ってしまったのだろう。無くなってしまったのかな。無くなってしまえる程度の、愛情。それは家族愛だからだろう。今更のことだと開き直ることが出来た。

 でも俺にはそれが出来ない。出来ないレベルの愛情だ。愛してることを失くせない。勿論銀だって、愛していない訳じゃないだろう。だけど俺のとは違う。俺が言う愛してると銀の言う愛してるは、決定的に違う。三分じゃ足りないぐらいの愛し合い方がしたいんだ。


 風呂場に向かうと、綾姫は髪を洗って乾いたタオルで頭の上にちょこんっとその量の多い毛束を乗せていた。俺も掛け湯をしてもらいながら、ぴょんっとその肩に上る。銀はぷわぷわお湯に浮いて心地良さげだった。綾姫も力を抜いて、ふーっと息を吐く。


 俺はその開かれた口に、舌を入れた。


「なっあおっ」


 流石に驚いたらしい綾姫に、更に口唇をくっ付ける。ふわもふでないしっとりした毛がその口唇に触れた。味。味は分からないな。綾姫の小さい頃のよだれとは違うと思う。ちゅっちゅ、舌を絡めて吸い付いてやる。自信はなかったが、綾姫は気持ち良く感じてくれているのか、とろんっとした眼になった。単に湯あたりを起こしているのかもしれない。だがうてなが言っていた一分以上のキスをしていると、水を蹴った銀にどすんっとタックルされた。

 ふあ、と舌を出したままはーっはーっと息をしている綾姫に、やりすぎだ、と銀に怒られてしまう。だってしたかったんだ。綾姫を俺の物に、したかったんだ。俺だけが知っている綾姫に、したかった。赤い顔と唾液をだらしなく零す口元に、綾姫はくしくしと口唇を拭う。単に唾液を落としただけだろうが、ちょっと傷付く仕種である。


 じろり、綾姫は俺を軽く睨む。怖くはない。聞きたいのは感想だ。どう思った? 俺の事を、まだただのふわもふにしか見られない程度だった?


「悪戯が過ぎるよ、蒼」

「悪戯じゃない。本気だ」

「本気、」

「俺はこういう風に、綾姫と愛し合いたい」


 まだ幻獣の言葉はつたない綾姫だけど、それでも俺の言った意味は分かったのだろう、ぼっと顔を赤くしてくれた。肩に戻って首にちゅぅっと吸い付いてキスマークも付ける。それだけで綾姫を手に入れられたような気持ちになった。あくまで気持ちだけで、綾姫の方は子供の悪戯程度にしか思っていないのかもしれない。でも俺は言った。愛し合いたい。

 銀は呆れたように、俺達を置いて風呂場を出て行く。援護射撃が望めない感覚に途方に暮れたのか、綾姫は俺を見てくれた。手に乗せて、じっと見つめ合う。ちょっと恥ずかしいのは俺だって同じだ。恥じらいは俺にもある。今の綾姫にも、多分ある。そう思いたい。


「お前の言う愛したいと言うのは、父と母のようなそれなのか?」

「そうだ。ついでに言うとうてなもそう。あいつ、お前を攫いに来た事がある。既成事実だって作ってしまえば良いだろうって」

「それは今のお前も同じだぞ、蒼」

「俺はそこまで考えてない。ただ、愛し合いたいだけだ」

「……人型でも同じことを言うのか?」

「言う。むしろ胸を張って、言う」


 敵わんな、と綾姫はぶくぶく風呂に沈む。どんどん上がっていく温度。水を少し入れてぬるくさせてから、俺は綾姫の頭に乗った。髪が崩れないように、気を付けて。生まれた時はつるっぱげだったのに、よくもここまで伸びたよなあ。すりすりタオルに懐いていると、重いよ、と苦笑いされた。


「うてなは私と街を結ぶために恋人になりたいとか言っていたが、お前はどうなんだ? 蒼。そんな同情交じりの恋愛は御免だぞ、私だって」

「俺は出来るなら綾姫と銀と三人で一緒に居たい。でも綾姫が家族を欲しがるなら、秘密の手段もある」

「秘密の手段?」

「ばーちゃんが隠していった、ずっと人型になる薬だ。それでお前と夫婦になって、そしたら子供だってできる」

「子供……まだ子供の私には、分からないよ」

「でもいつかは考える時が来る。その時に俺か、うてなか、綾姫はどっちを選ぶ?」

「お前との子供は幻獣になるのか?」

「それは分からない。元々異種族だから子供は出来ないかもしれない。そしたら本当、三人っきりで暮らすことになる。幸い俺達はお前より寿命が長いから、おいて逝くことはないが、うてなの出方次第で変わることもある。子供を作ったり、その子にレシピを託したりして、森の魔女は代を重ねていくことが出来る」


 ふうーっと息を吐いて、綾姫は肩を竦める。


「考えられないな……」


 それはどっちの事だろう。

 俺とうてなを選ぶことか。

 子供の事か。

 どっちにしろ、それは俺にも分からない。


「私の家族はお前たちだけで良いと思っていた。お祖母さまも亡くなって、父母もいない、でもお前たちがいると安心していた。欺瞞だったのかな。それでもこの小さな小屋で三人一緒に暮らしていけたら、それで十分だと思っていた。うてなが来るまでは」

「うてな」

「あいつは私にキスをした。そういう『好き』を教えた。そしてそれは、蒼も同じだという。銀は?」

「あいつは家族愛。家族として、綾姫を愛してる。……俺のとは違う」

「恋愛とは、違う」

「違う」


 ぶくぶく言いながら沈んでいく綾姫に、俺は綾姫が幻獣語を覚えてくれたことを幸いに思う。人型でしか喋れなかったら、この恋はとっくの昔に終わっていただろう。ふわもふだからこそ出来るアプローチ。アピール。今だからこそ、言える言葉。伝えられる言葉。


「れんあい、かぁ……」


 綾姫は立ち上がる。俺はぐらっと落ちそうになったのを、綾姫の手にキャッチされる。

 その顔は少し、悪戯気だった。子供のような。否、実際まだ子供か。十七歳なんて、親元にいてもおかしくない年齢だ。経済状況によれば学校にだって行っているだろう。そして友達を作ったり、恋愛したりする。そう考えるとそれほど子供でもないか?


「恋愛で一緒に風呂に入るのは、正しいのか? 蒼」


 ぐっ。

 痛いところを。


「冗談だよ、みんな一緒に洗えるから楽だしな。だが蒼。お前が人型になることを選んだら、変わって来ると思うぞ。二人は入れん、この風呂」


 くっくっくと笑っている綾姫はざばりと上がり、いつものように洗濯物を洗って行く。まだ濡れていた銀は、話を聞いていたらしく、洗面台の上でじとーっと俺を見ていた。銀は家族であることを決心しているから問題も無い。だが違う形の家族を望んでいる俺には、確かに白い目で見られる立場がある。

 とにかく、俺は綾姫にキスすることに成功した。今までのようなバードキスじゃなく、舌を突っ込んでやった。これでうてなからのリードは返しただろう。むしろ追い越したんじゃないか?

 思いながら俺はぶるぶるぶるっと勢い良く毛から水を飛ばす。銀は迷惑そうにそれを避けるが、今の俺には知った事ではなかった。ただ嬉しい。ただ心地良い。綾姫は俺の事を、異性だと思い始めていてくれている。なんて事だろう! あの暴漢たちが切っ掛けではあるが、こんな気持ちになれるなんて!


「あんまりはしゃがない方が、良いと思うけれどね……」


 銀の言葉も聞こえない程に、俺はるんるんと台所に向かってマッチで火を点ける。ぼんっと暴発した。たまにこうなるから綾姫には使わせられない。暖炉も竈も風呂も。ちょっと焦げた毛を凍らせて落とし、次の一本をしゅっと点ける。成功だ。今日のスープは玉ねぎが入ってるからきっと甘い。甘い甘い夜だ。


 浮かれていた俺は、相当ポンチだっただろう。

 まさか俺が。

 俺が、綾姫を傷付けることになるだなんて。

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